• 2012年中国政局分析(其の一):中国「太子党」は権力にどれぐらい近いか

    by  • February 13, 2012 • 日文文章 • 0 Comments

    何清漣 @HeQinglian 氏美国之音ブログ 全文日譯;(拙訳御免)http://www.twitlonger.com/show/ftfijp 2012/2/13;
    Translated by @Minya_J 東京

    ①2月6日の王立軍の成都米国領事館事件は薄熙来の鼎の軽重を問うこの3年間の長編劇のクライマックスだった。

    ②それは中共の18大会における権力交代をわけのわからないものにしてしまった。中共の権力闘争は制度的なリソース(党政治幹部評価と任免)と非政 治的 (家柄出自・人間関係)なリソースが相互に関係し合っている。重慶王立軍事件と薄熙来の政治的前途分析は、まずここが重要な点だ。

    ③政権の受け渡しは、共産党国家の中でも中共の権力交代は大変特徴のあるものである。ソ連の様な血縁関係が基本的に関係なく、党内の最高レベルの会議が後継者を指名するのではないし、北朝鮮の親子3代世襲でもないし、キューバの兄弟型でもない。

    ④中国では2本レールの様に、一本は最高レベルで後継者を指名するが、血縁の子女へ、ではないということ。もう一本の”表から見えない規則”は、権力から最短距離にいる太子党メンバーには色々な官僚政治社会における便宜と昇進に関しての優遇制度がある、ということだ。

    ⑤この権力交代モデルは中国の改革開放後に形成された。毛時代とは違う。鄧小平は退職後も元老の身分で親政を敷き、自分を中心に集団指導体制を敷いた。2人の総書記をクビにした後、江沢民を総書記に任じたのは自分の政策を続けるためだった。

    ⑥ また胡錦濤を江沢民の後の総書記にしたのもそうだった。鄧小平が指定したのは自分の子供や親戚ではなかったから、太子党の子弟が直接父親の権力を受け継ぐという道はなくなったかのようにみえる。

    ⑦ 鄧は高級幹部子弟がビジネス界に入るのに反対しなかったが、鄧の次の地位にあった陳雲は反対し、「一番頼りになるのは子弟」だから太子党の中から次期指導者を選ぶべきだと主張した。こうして中共は”表と裏”の相互補完的な幹部選抜制度が産まれた。

    ⑧ 制度の表向き規則は鄧小平の主張した「若返り、知識、専門、地方任務経験」が選抜の推薦条件であり、一方、裏の規則は「高級幹部子弟たちの政治的地位を優先させて考慮する」だったが、これは「表」の条件を満たすことがゼッタイ必要とされた。

    ⑨ 今、振り返れば80年代は中共が執政以来、党と国家と人民に対し、もっとも責任を負っていた時代というべきだろう。この二つの規則は確かに少なからぬ高給幹部の子女をそれぞれの段階でトップに着く事を許さず、かなりの平民幹部が昇進したのだった。

    ⑩ 第三、第四世代の指導者達はこうして次第に出世していった。趙紫陽(1987年1月16日 – 1987年11月2日)は13大会で党中央委の無記名投票制度を実行した。

    ⑪ 北京市もそれに倣い、55人のうち50人の市委員を無記名投票、その結果、陳雲の子で局長級幹部だった陳元が落選したこともあった。陳親子の複雑な心境をわかってないメディアはあたかもこれを党民主化の美談のように報道したものだった。

    ⑫ 全国統一大学入試の復活後最初の数年は本物だった。90年代後半のような著しい腐敗はなく、大学もまだ卒業証書の”販売”なぞやらなかった。高級幹部の子弟政界に入るにはまず卒業証書が必要で、それなしには「知識」の基準で撥ねられたからである。

    ⑫ 当時もっとも条件をそなえて目立った政治上の寵児は、劉少奇の子、劉源と薄一波の子、薄熙来、そして習仲勋の子習近平であった。

    ⑬ 劉源株は高値でスタートしたがその後暴落した。北京師範歴史学科卒業後、河南省新郷県七里の副主任から6年で新郷県副県長、県長、鄭州市副市長、最年少で河南省副省長になった。

    ⑭ しかし、92年急転直下、武装警察部隊の発電所の指導部第二政治委員兼副主任に飛ばされて以来、武装警察と軍を往来。軍人でもないのに地方官から警察に、というのは謎で上昇はストップ。その原因は今も不明である。

    ⑮ 劉源の政界退場後、薄熙来が当時の輝ける政界スターに。82年中国社会科学院生として国際ニュースの修士となり、中央書記局で二年、84年には遼寧省の金県の副書記を始めに、93年遼寧・大連の市長で都市建設の功績で政治的寵児となる。

    ⑯ しかし2001年遼寧省の副書記,省長となってからはそれまでの順風満帆の勢いが停滞。遼寧省の地方勢力間との矛盾が多かったとも言われる。04年に商務部長、07年重慶市委書記となり、中央政治局員入りはした。

    ⑰ これに対し、習近平は82年に中央事務局入りし、中央軍事委秘書から河北省定県の県委書記に。精華大学入学前にすでに陕西省延川県文安駅後者梁河大隊で党支部書記を務めており、基礎経験があった。85年以後は主に福建で職歴を重ねた。

    ⑱ 習近平が劉や薄と違うのは福建省寧德地委書記の時、寧特軍分区の第一書記を兼務。以後も政務の職階が上がると並行して軍の職務も上昇していったことだ。

    ⑲ 03年に浙江省書記、省の人民大会委員会主任兼省軍区党第一書記、07年に上海市書記兼警備区第一書記、同年中央政治局常任委員から中央書記所書記、中央党学校校長へ。

    ⑳ 以上「3公子」の経歴をみれば分かる通り、父親世代の擁護という制度ならざるリソースが極めて大きな作用を持っている。中共党内の幹部選抜の「民主的推薦」「組織的審査」では全ての人が資格を満たし、一級づつ上昇していくことになっている。

    (21) もし「裏制度」の働きが無ければ、上述の3人のかくも早い出世はなかったろう。だがもし「民主的推薦」がなければ、これまた上手く行かなかったろう。

    (22) だから元老たちは自分が信任する職務と地方を選び「公子様」を遣わし、できるだけ早く階段を上らせるのだ。公子と民が仲良けりゃ出世は必定。下の腹心達も上級に対し立派に顔もたつしね。

    (23) 習と薄が下の方にいたとき、人柄の違いから風評は大違い。薄熙来は大連市長の時から、メディアに出るのが大好きで業績を喧伝したが、醜聞もあった。香港の文汇報の記者で大連にいた姜维平はそれを匿名記事で暴いて牢屋にぶちこまれた。

    (24) 習近平はほとんどメディアに顔をださなかった。「声を出さずしっかり実務」で非常に複雑で大問題の多い福建でうまく立ち回った。その評判は薄とは違っていた。

    (25) 07年に薄が重慶に赴任したとき、習は上海の職にあり、この2人の太子党スターの前途はすでに勝負有った、だった。分かっている人々にははっきり、職階の上から習近平が第五代指導者の中心として”養成”されたことは明らかだったのだ。

    (26) 政界で昇進するには、資格を満たすだけでは、前途は不確定であり、太子党の多くは下のほうから苦労を積んだりなどせず、父親の同世代の権勢や職業を利用し、あるいは軍隊や中央政治機構に仕事を求めることが太子党の生きる道なのである。(終)

    原文は;http://voachineseblog.com/heqinglian/2012/02/china-politics/

     

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