• 中国政局分析(二)薄熙来の「常任委員会入り」はなぜ厳しいか

    by  • February 14, 2012 • 日文文章 • 0 Comments

    何清漣氏 @HeQinglian 氏ブログより

    日譯@Minya_J @minya_j

    2012年2月14日

    http://www.twitlonger.com/show/fvb4vs

    ①王立軍事件は現在3点だけは確かである。?王は成都の米領事館に行った?一日後”自らの意志”でそこを出た?この事件は薄熙来の将来に大変不利である。

    今思い起こせば、06年から07年に北京でこんな噂が流れた。胡錦濤の二期目に江沢民が「後継者指定の過ちを繰り返すな。党内の民主を経て省級幹部から推 薦せよ」と手紙を書いた、というのだ。胡はその通り省の一級幹部と中央党学校幹部学生から推薦した結果、習近平の票が最高だった。

    かくて、習近平は中央党内の制度リソース(党内の民主的推薦)と、非制度的リソース(太子党という身分)から、第五代のリーダーに選ばれた。これによって*前述のとおり習と薄の太子党の待遇が違った。(*前述→こちら;http://p.tl/D19R)

    当時すでに口に出さずとも皆心のなかで次期キングメーカーは李克強だと分かっていたので、野心満々の薄熙来の政治的未来ははっきりしないものだった。

    第一になぜ薄熙来の中央常任委員会入りはかくも困難だったか?

    薄は、中外の評価では「野心満々」とよく言われた。私も「トップを狙う男」と表現したことがあるが、言いたかったのは中共の組織セオリーからとか、総書記の地位を求める位置にいるということではなかった。

    なぜなら薄が現在求めていたのは政治局常任委員に過ぎなかったからだ。薄は他の”常任委員会入りが可能な”連中、例えば李克強、劉雲山、張徳江、張高麗にくらべ才幹が劣っていはいない。

    もし、「党を救う」という観点からなら、薄は実際他の連中より能力も気迫も勝っていた。また資格なら、中共の幹部選抜基準(知識化、地方と中央での経歴の 両全)、非制度的資格(太子党の身分)を持っていた。中国の最高権力への階段は、中央委員、政治局委員、政治局常任委員だ。

    薄はその前者2つを上ってきており、全力で最後の階段を上がろうとしていた。その資格と勢いからいえば「常任委入り」は当然の政治的願望であって、べつに”野心”というほどのものではない。

    まさに康熙帝時代の「9王子が帝位を争う」同様、王子達は王位後継の資格を持ち、上位に出られるかどうかは競争で破れたものはギブアップだ。が、それを”野心”などという言い方は、勝ったものが敗者に向かっていう言葉に過ぎない。

    私は、薄熙来が重慶トップになってから、その政治姿勢があまりに勢いがあったために、中南海にとって自分たちの権威が挑戦されていると感じたのが、この”常任委入り”を困難にした一つの主要な原因だとおもっている。

    薄熙来が商務部長から重慶市委書記兼政治局員の時、「常任委入り」は5割の確率だった。もし、低姿勢でそれを求めたら可能性はあった。が、損得を計算した薄は、なんと中共始まって以来の3年に渡る「権力奪取の旅」に出たのだ。

    出発点は「唱红打黑」。「唱紅」は自らを毛沢東路線の正当な後継者、を意味し「打黒」は重慶を「清らかで明るい社会に」だった。

    ここまでの薄のやったことは「許容範囲」だったが、2010年、正式に「重慶モデル」と言い出したのが中共の原則を越えたものだった。

    つまり中共の伝統では党内の理論を提起できるのは親分しかいない、のだ。例えば、毛沢東の”思想”、鄧小平の”理論”、江沢民の”3つの代表”、胡錦濤の”科学的発展観”だ。

    それが国内4つの直轄市の最下位の重慶市の書記ごときが、なんと「重慶モデル」などと言い出したのだから、なんといっても中南海のリーダー達は自分たちの権威が挑戦を受けている、と感じさせた。

    所謂「左右の政治路線争い」などという言い方は、私はずっとまったくの嘘っぱちで、これは権力闘争の道具に過ぎない、と私はずっとおもっている。

    (二)薄熙来は一体何に頼っていたのか?

    中国の歴史で、諸候が「トップを狙う」には往々にして天子の力が衰えて、諸候の力が増し、天子がどうしようもない時だった。

    しかし、「トップを狙う」ことは社会の政治秩序に反することだったから、「鼎の軽重を問う」者はゼッタイ強大な非制度的実力を備えてこそ、はじめてシステム側の力と対決できたのであった。薄熙来にそれがあったか?

    答えは、薄熙来はゼッタイ多数の同じクラスの役人がもっていなかった”非制度化されたリソース”である太子党の身分をもっていた、である。

    中国の政治をよく知っていれば、太子党の特別な意味をご存知だろう。その父世代が中共政権と関係を持っており、さらにそれは「老太子党」と「新太子党」にわかれる。前者は中共の初めの頃の、後者は主に第三代、第四代国家指導者の後裔を指す。

    中国では太子党の身分は政治経済の特権階級を意味する。そこまでいかなくても、中共天下取りに参加したら「革命幹部子女」で最近では「紅2代」、その他の役人の指定はただ「官2代」。これらの中共の宦官の子たち内部の身分の区別である。

    新旧の太子党が父世代の政治リソースをネタに金持ちになった話は中国にはやまほどある。これは中共の標榜する価値観と相反するために、中国では政治禁句になっている。

    中国の検索エンジンの百度では「太子党」とひいても外国の例ばかりでてくるが、グーグルでやればたちまち328万もひっかかってくる。内容はいちいち論ずるに足りないが、英語ではchina’s red princesses として常に中国報道のホットなテーマである。

    中国の第四代指導者(*胡錦濤ら)の実績はたいしたものではないことから、世論には特に敏感である。改革開放以来、このリーダー達の実績と来たら「乏しく古くさい」でもあきたらない。

    時代のキーワードは「高度腐敗」、「家族海外逆単身汚職官僚」、「インターネット規制」、「五毛」、「地方政府の農民土地収奪強制収容売り飛ばし」、「政府のヤクザ化」、「焼身自殺抗議」、「3億の貧困民」、「大規模群衆事件頻発」…等等。社会の危機は至る所にある。

    こうした認識は頭のはっきりしている在野人士だけでなく政府統治集団内部でも基本認識である。エリート階級が次々に国を捨てて逃げ出すのはその態度の表明である。

    つまり、薄熙来の“唱红打黑”の基本の上になりたつ”重慶方式”とは胡錦濤?温家宝の政治実績に対する一種の否定なのだ。

    本当に”重慶モデル”が中国を暗黒から救うかどうか別問題だが、この種の否定のジェスチャーは、一山あてようという輩から、本気で擁護しようという色々な動機からななる熱烈な呼応を引き起こした。

    こうも言えるだろう。胡温の無策と社会矛盾の積み重ねによって、党内はもちろん、民間でも怨嗟の声に満ち満ちているとしかいいようの無い状態が最高指導者としての胡温の声望を見劣りさせボンクラだったと。

    そしてそれこそが、薄熙来をして、重慶で、政治的”バンジージャンプ”をなさしめた、のだと。(終)

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