• 中国民族主義の2つの危険な傾向

    by  • October 4, 2012 • 日文文章 • 0 Comments

    何清漣氏@HeQinglian

    全文日訳;@Minya_J

    http://twishort.com/ahjtd

    2012年は中国政府にとって本来は相当な苦境だった。政治では信用を失い、権力の行方は定まらず、経 済の”馬車を引く3匹の馬(投资、消费、輸出)”もすべて勢いを失い、破産の波が再び押し寄せ、失業が深刻化し、”民主”の代用品として民衆をなだめてき た”民生”の看板も危なくなっていた。

    しかし、人為的に作られた『釣魚島(尖閣)問題』が一気に錬金術的効果を発揮した。民族主義がグッドタイミングで登場し、あらゆる国民の暮らしに関する 話題は二の次になり、滑稽にも未来の暮らしに焦慮するはずの無職青年達はこの愛国主義の国家ゲームに自らの新しい”居場所”を見いだしたようだ。

    思えば孫文先生の唱えた中国の国情にあった『民権(民主に近い)、民生、民族』の3大主義は不遇であった。かって五四運動に始まった啓蒙には『民主』の占める位置もあった。北洋軍閥下でも新聞発行も結社もデモも自由だった。

    ④しかし1930年代、日本の侵攻が中国の運命を変えた。「救国」が「啓蒙」を圧倒してしまった。抗日戦争の勝利後は国共内戦で独裁中共党が専制国民党を破り、中共成立後毛沢東統治の17年間でプロレタリア独裁は民主主義を『資本家階級の噓っぱちのお説教」とした。

    ⑤民生主義は実現されることなく、『貧乏は革命、豊かさは修正主義』『貧しければ貧しい程光栄なのである』などと言って民衆を慰撫し、文革時代にいたって は「斗私批修」(マルクス・レーニン主義と毛沢東思想とによって,自分の頭の中の”私”とたたかい,修正主義を批判する)として物質的貧しさの不満足感 を”克服”させた。

    ⑥鄧小平の改革開放に至って初めて「民生」は中国人の日常生活に堂々と登場したのだった。胡耀邦や趙紫陽は西側文化に開かれた姿勢で、中国は80年代に西側資本主義的民主主義が中国でおおっぴらに論じられ求められるようになった。

    ⑦1989年の天安門事件後、政府はまた”民生”を”民主”の代用品にするのに成功し、”民生”だけが中国人の社会生活の唯一の選択肢になった。多数の中国人は”食べられる保障があれば政治には文句いわない”という”パン契約”を受け入れ、拝金主義に専心へ、と向かった。

    ⑧しかし、胡錦濤・温家宝時代になって、民生の改善の望みがなく、腐敗は政治のガンとなり民の怨嗟が広がった。今の様に経済が悪化し、トップ層がゆらぎ、民生は改善どころか、失業の悪夢が人々を襲うようになった。

    ⑨このような状況下では、国民に民族主義の激昂状態を煽り続けるのは、矛盾への目を外に向けさせる統治者の唯一の選択である。

    ⑩かくて、尖閣諸島はそれまでホットだった就職やインフレ、物価、税負担などの話題をついに退け、現在中国国内のネットはすべて日本に関する話題、「日本をやっつけろ!」の文章で埋まっている。

    ⑪元々集団意識の根強い中国で、メディアコントロールに長けた政府と、洗脳教育をしっかりうけた青年の世代はもともと盲従する特性がある。その上、中国人は”風”に従うから、民族主義はあっという間にハイな状態になって基盤を作った。

    ⑫でもね、私の様な者から見ると「民生」が退き、「民族主義」が高まるていうのは、89年の「民生」が「民主」に取って代わったのから、更に一段と思想が後退したのだと思う。

    ⑬「民生」てのは人民の経済的権利にかかわること。21世紀の最初の10年間に起きた護憲護権運動は財産権と経済権を語って、政治を語らなかった。もともと当局の迫害を躱すためだったけどね。

    ⑭ でもいまや、その「民生」ですら「退位」してしまったのは中国人の悲哀としかいいようがない。とりわけインテリの一部とか民衆もまんまと当局のプランどうりに乗せられちゃっているというのは…なんとも。

    ⑮《民族主義登場の危うさ》この思想退化には2つの大きな危険がある。一つは、狭隘な民族主義思潮と毛沢東左派の結合で、国内政治の毛極左時代へ回帰の危険。もうひとつは、民族主義とファシズムの結合。具体的には対外に敵を求めて作り出す危険だ。

    ⑯ 毛沢東の統治はこの二大傾向の結合体だった。そしてあの時代の愚昧と暗黒は、また中国人はちゃんと清算していないのだ。

    ⑰ まず最初の危険について。今回の「釣魚防衛」のデモの写真で、私は最も組織されていたのが毛沢東左派だったことを見つけた。映像では多くの人が毛の写真を掲げデモをし、スローガンは「釣魚島は中国のもの。薄熙来は人民のもの」だった。

    ⑱ 最もビックリさせられたのは毛左派の道具の準備の良さ。大量の毛の写真の他に、多くの参加者は緑色の旧式軍装だったが、これは文革時代の紅衛兵が一番好んでいた服装だ。こんなものは今時流行などしてないから、特別にあらかじめ作ったものに違いない。

    ⑲ これでわかるとおり毛左派の活動は久しく続いており、一度チャンスが到来すればたちまち舞台に躍り出る、ということだ。

    ⑳ 二つ目は随所に好戦的なスローガンが登場した事だ。すでに「日本商品排斥」なんぞではなく、はっきりと、戦争を求める標語。例えば「全世界の中国系人は団結して日本軍国主義を徹底消滅せよ」だの「日本に宣戦布告せよ」「東京を踏みつぶせ」等等だ。

    (21)更に勇ましいのは「中国全土が焦土となっても、日本人を殺し尽くせ」「中国全土が焦土となっても、釣魚島を奪回せよ」。奇怪なことに最後のは西安等いくつもの都市に同時に出現し、誰かがデモに際して事前に統一スローガンを作っていたとおもわれる。

    (22)これは、なんだかかってヒットラーがゲルマン民族にユダヤ民族を憎む様に仕立てた歴史をおもいおこさせる。

    (23)《1989年以後、民族主義はイデオロギーの代用品に》1895年から1971年の間、中国大陸政府は釣魚島の事等聞いてもいなかった。1972年国交回復後も棚上げしていた。2000年代になっても政府の支持を得ていたわけではない。

    (24)それがなぜ今突然重要になったのか?そして「現政権を倒す暴力革命」なんて聞くと、これまで真っ先に生命の尊さを説き流血を戒める役割だったインテリ層までがあっという間に民族主義の高まりにのっちゃったのか?

    (25)「中華全土が焦土となるも、日本人と一戦を交えるべし」になったか?この民族主義のブームの盛り上がりはやはり、中共政権の深慮遠謀にその功績はある。それだけで長編のテーマになる話だが、ここでは簡単に述べよう。

    (26)1989年の天安門事件後、即ち冷戦終了に際し、中国は重大なイデオロギー上の真空と価値観の危機に遭遇、権力者達は何か代替え品を探し出して民意を結集する必要に迫られた。

    (27)そこで、一部の高級幹部の子弟がしゃしゃり出て提案したのが1991年の『ソ連激変後の中国の現実的対応と戦略』という論文だった。

    (28)その内容はソ連解体の原因を分析し、共産主義のイデオロギーの合法的喪失が中国の国際環境を悪化させることに警鐘を鳴らし、「従来のイデオロギーが民衆に訴える力が無かったことを現実として認め」

    (29)「従来型のイデオロギー教育では逆効果」だとして共産党の革命党から執政党への転換を訴え、はっきりと国家民族主義をして、イデオロギーの空白を埋めなければならず、国家利益を中心とした民族主義と儒教の価値観を合わせた文化保守主義によって

    西側に対抗する力量とすべし、と。その具体的主張は内政では党の力を弱める政治改革構想に終止符を打ち、共産党が直接、国家資源を支配し、しかし、党を経済管理の煩瑣な仕事から解放し、イデオロギー外交でなく完全に国家利益外交をすべし、というもの。

    (31)当時コピーを一部入手したが、送ってくれた友人によると作者は北京の高級幹部の子弟達で鄧力群の子供の鄧英淘もいる、と。が、何年も後に、潘岳の長文を紹介した文中に89年に潘岳が『中国青年報』の副編集長時代に一連の座談会を開き

    (32)青年報の理論部が開いたこの座談会では14000字の『ソ連激変後の中国の現実的対応と戦略の選択』と題する研究報告が出されたのだった。この報告は直ちに直接トップ層に送られ、極めて重視されたのだった。

    (33)中央はこの報告を印刷して内部資料として中共の高級幹部の閲覧に供した。これがこのレポートの真の由来だった。

    (34)潘岳は後にそのなかのひとつの観点をさらに発展させ『革命党の執政党変化への考察』というレポートにしたが、これは本人の出世の妨げとなったようだ。
    しかし、潘岳の出した戦略は中共トップの賛同をえたというべきだろう。

    (35)40歳以上の人なら覚えているだろう。90年代の中後期に民族主義が主流になってメディアも米国脅威論や中国封じ込め論が盛んに論じられ反西欧の民族主義の”養分”となり、

    (36)『ノーと言える中国』『不機嫌な中国』『マネー戦争』等すべて反欧米民族主義の教典となった。

    (37)新左派が中国で力を得たのも発展途上国の問題は米国のグローバル戦略によって引き起こされたちおう新左派理論の主要な観点が中国政府にぴったりだったからである。

    (38)アイオワ大のベンジャミン、ダール両教授は中国の民族主義について大規模な調査を行い、一つの見方をえた。即ち「中国人の民族主義の起原は文化からではなく、社会と経済が原因だ、と。

    (39)私はこれは中国の民族主義と中東のイスラム原理主義の大きな違いを理解する助けになると思う。両者とも反西欧ではあるがイスラム世界では文化的民族主義が”第4の宗教”になりなりうる。

    (40)また青年達を人間爆弾に志願させる。しかし経済と社会が原因の中国の民族主義者はこのような犠牲的精神はあり得ず、それより今年9月の反日デモのようなゴロツキ的略奪や破壊に走る。

    (41)今後の一定期間のうちに、1989年の民主化要求に続いてに続いて民生への訴えも退けられ、反欧米民族主義が中共政権の反人権反民主の有力な武器になり、市民の政治自由化要求を圧しつぶし、中共政権の安定に効果を発揮するだろう。

    (42終)(中国人権双週刊88期 2012年9月21日—10月4日)

    原文はhttp://biweekly.hrichina.org/article/2452
    (拙訳御免)

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