• 「空気は”公共財”」は「鹿を指して馬と言う」の再現である

    by  • March 6, 2013 • 日文文章 • 0 Comments

    何清漣氏 @HeQinglian ブログ

    全文日文概訳;@Minya_J Takeuchi Jun

    2013/3/6 http://twishort.com/7mbdc

    (*爺注;鹿をさして馬と為す」は始皇帝の故事)

    ① 今日、ツィッターみたら中国科学院の某所長が「大衆は新鮮な空気が無料で吸えるとおもっちゃいかん」と言ったというのが目に飛び 込んで来た。今年の全国人民代表大会と中国人民政治協商会議では「環境問題で恐慌状態」だけれど、まさかこんな馬鹿な専門家がいるはずがない、とおもって ネットで調べたら財経ネットに総理報告作成参与者の名前で「大衆は新鮮な空気を無料で吸えると思うべからず」という一文があったから仰天した。

    《王毅が鹿を馬と言い、自然資源を公共生産物と為す》

    現職の中国か学院科学技術政策および管理科学研究所長の王毅への不当な言いがかりではないことをしめすために、まず当の王毅の話を列挙しよう。

    1;空気は公共産財である;実際の所環境保護は一個人個人の選択の問題である。「人はお金を儲けることができるが、しかし汚れた空気を吸わなければならな い」。「当然、一個人がすべての選択を代表することはできない。政府はやはり責任をおわなければならない。畢竟、税金をとっているのだから。きれいな空気 を提供すべきである、これは一種の公共生産物なのだから」

    2;「国民は新鮮な空気を吸うには代価を支払わねば成らない」。王毅は環境保護税を徴収して、汚染の違いに合わせて異なる種類の税と税率を徴収する可能性 を語り、対象は「主に企業である」、としながら「当然、企業の税負担を考慮しなければならないが、企業の税はすでに大変重い状態」だから「企業は価格を上 げることによってその一部を徴収出来る範囲内で消費者に転化し、大衆は無料で新鮮な空気が吸えるなどとおもってはならない」と述べている。

    空気と水は自然資源であり、人類社会が誕生する前から存在していた。それは太陽の光と同様、大自然の人類にたいする恩恵であり、いかなる政府もその人民の ために提供する”公共財”などではない。それどころか政府等存在しない所、すなわち人跡稀な場所程、空気はもっと新鮮である。第三代の人権概念である環境 権という考え方の登場で新鮮な空気と清潔な水などの自然資源は人類生得の権利とみなされるようになった。しかし、これまで如何なる人も、それが政府によっ て提供される「公共財」などと解釈して説明した人はいない。

    《人類が新鮮な空気を呼吸するのは環境権に属する》 

    ここでまず簡単に「第三世代人権ー環境権の発生」についてのべておこう。人類社会が誕生してから土地と付帯した森林等、地下鉱産資源は私有制が産まれて私 有化された。空気と水だけがかって私有化・国有化されたことはなく、人類が生まれながらに持っている自然権であって、元来空気は”公共財”」といった属性 はまったくない。

    中国の読者の為に、ここでは水道が商品化された過程を説明しておこう。

    工業化の進展とともに、人口稠密な地域やある種の工業汚染地区では水が直接飲用できないことがわかり、何度か濾過処理したのが水道水である。だから水道は各市町村の自治体の管理とされてきた。

    20世紀前半以後、西側諸国での公共財理論が成熟するにつれ、水道と電気供給等は公共の任務になった。各国のの政治体制が異なることおから、公共財の提供 は民営だったり公営だったりする。米国は民営だが法律で企業の行動を定めている。しかし、天然の水と空気はこれまで公共財になったことはなく、空気はどこ にでも存在するために、私有化する術も、商品化する術もなかった。

    環境権の観念は20世紀の60年代に産まれた。人類は科学技術の進歩とともに人と環境の関係に全く新たな認識をもつよになり、工業化が水や空気を含む環境汚染をもたらすことを知り、ここに環境保全運動が始まるとともに第三代の人権観念ー環境権ーが産まれた。

    人権の観念は第一、代に、第三世代、或は創出期、発展期、昇華期に区別される。第一世代の人権は封建制度の圧迫への反抗から人々が政治と市民としての権利を要求し、選挙権や言論の自由、出版、集会の自由を求めた。

    第二代人権は資本の圧迫に反対し、生存権、つまり就業、老後の保護、公共医療等の各種権利を求め、第三代は人類が有害な環境に反対することから始まった。

    劣悪な環境の元では人類は清浄な生活・繁栄を維持できない。そこで西側の先覚者は環境権を旗印とし、良好な環境を要求したのだ。中国の現在の状況は三代の人権要求が混然とし、どれもまだ真の解決をみていない。

    環境権を詳しくみてみよ。環境権は人類の自然権であり、自得のものであり、相対的な義務の履行によって実現する権利、例えば納税によって得られる権利の 主体として与えられるものではない。その理由はそのような主体は始めから存在せず、権利の主体たる自分自身の努力によって実現するものだからだ。

    例えば空気。赤ちゃんは産まれるやすぐ自分の必要に応じて呼吸する。いかなる他の主体によって提供される便宜でもなければ、他の主体の妨害を取り除く必要 も無い。これが自得の権利、なのである。環境権は一種の生得の権利として世界から重視され、国連の『経済、社会、文化の権利の国際公約』は環境権の実質的 な内容と要求を包含している。米国は環境概念の発生の国の一つとして、多くの州で環境権の保証が明文化されている。

    例えばペンシルバニア州憲法一条27項は「人民は清潔な空気、水、および環境の自然、風景、歴史と快適な価値 を保つ権利があるとされるし、人類環境宣言 の影響のもとに、ドイツ、韓国、南スラブ、ポーランド、葡萄牙、ブラジル、チリ等の国では憲法あるいは環境保護基本法で環境権を確認している。日本や米国 では環境権に関する様々な訴えが審理されており、司法的な実践が始まっている。

    《「空気は公共財」説が見落としているもの》

    上述のとおり、空気の属性は世界の環境権の解釈からしても、王毅の「空気は政府が提供する公共財」という言い方の無茶苦茶な事は証明できる。ここでこの王毅が故意に無視しようとしているものは何かを考えよう。

    ❶ まず中国の環境悪化は政府が長期にわたって環境への監督責任を放棄してきた事によって産まれたという事実だ。汚染企業創業前の環境評価も、操業中の監 督も、各政府は最低限の職責を果たそうとしなかった。それどころかGDPという指標と地方財政だけを考え、汚染企業と共謀してきたのだ。そしてこの30 年、何百もの「発ガンの村」を出現させ山河を汚染し尽くし、空気を毒の霧に変えた。毒の霧こそ中国の各政府が汚染企業と長期共謀してきた”公共財”であっ た。

    ❷ 空気の汚染を防ぐのは政府の負った責任である。人民は長期に各政府に税金を払い、GDPの3分の1は政府の財政収入になった。中国人の税負担苦指数は 世界第2位である。これは政府の責任であり、「汚染者が汚染管理を負担する」原則にのっとり、空気汚染を処理すべきであり、その費用は汚染企業と、汚職役 人の財産を没収して専らその経費に充てるべきである、という事。

    ❸ 王毅は「お金を選ぶか汚れた空気を吸うかの選択」と言うが、これは政府、企業と一般市民の三種類の主体を一緒くたにして論じている。中国は政府こそ が”環境や生態を犠牲にしてGDPを選んだ”のであって悪徳企業家が原価節減の為に好き勝手に汚染物質を垂れ流し、政府役人と共謀してもなんら懲罰は受け なかった。最初の工場用地選定から、環境評価、最後に汚染監視にいたるまで一般市民は如何なる”選択”などなかったのだ。王毅がいう「中国政府が人民を代 表して」やったことだけが”庶民の選択”なのである。

    自由はダダではない。今後中国の庶民が新鮮な空気を呼吸したいと願うなら確かに代価は必要だ。しかし”代価”は税を増やすことではない。もしより多くの税 を払えば、強欲な役人がますます貪るだけだ。それは、政治的危険を敢えて冒し、団結して環境維持権を勝ち取り、政府と企業を監視し、中国に青い空と新鮮な 空気をとりもどすことなのである。(終)

    拙訳御免 原文は voachineseblog.com/heqinglian/2013/03/air-is-not-a-public-product/

     

    About

    Leave a Reply

    Your email address will not be published. Required fields are marked *