• ビルマ民主化の道は中国への啓発 ⑴ 

    by  • April 6, 2013 • 日文文章 • 0 Comments

    何清漣氏 @HeQinglian ブログ

    2013/4/3

    全文日本語概訳/@Minya_J Takeuchi Jun

    2013/4/7 http://twishort.com/zEgdc

    2013年3月31日、中国とビルマからのニュースには感慨深いものがあった。一つは「中共中央は反マルクス・レーニン・反毛言論の発表を禁止」というもので、中国メディアに今後5つの宣伝基調を決定というもの。もうひとつはビルマ政府が個人発行の新聞を許可、と。中国の改革開放が既に33年も経ち、ビルマの民主化の歴史はまだ2年足らず。ネット上では多くの人々が「後発ビルマに中国、軽く抜かれた」嘆いた。

    ネット人士のこの嘆きには2つ間違いがある。まず中国の経済改革とビルマの民主化を同一線上の先発と後発の関係にあると誤認している。実はこの両者は軌道も違えば出発点も目的地も違うのだ。次に、ビルマ人民が民主化を勝ち取る為の長い歴史と、民主化を求め勝ち得た一貫した闘争をちゃんとわかってない。

    《ビルマの8888民主運動がタネを蒔いた》

    1988年から2011年までビルマ人民は一丸となって二つの大規模民主化運動を行った。ひとつは「8888民主運動」呼ばれ、1988年8月8日の開始日に因む呼称だ。二番目は2007年8月から始まったサフラン革命だ。これは中国の民主運動と違って、ビルマの二つの民主化運動は極めて強力で多層的な伝承関係がある。

    運動参加者や研究者はみな「8888民主運動」がビルマ民主化の3つの基礎をつくったという。その ❶は、民主運動に魅力有るリーダーがいた事。アウンサンスーチーの個人的魅力とリーダーの資質があってはじめてビルマ民主運動の国内国際影響力は前代未聞のレベルまで高まり、軍に対する巨大な挑戦となった。

    ❷に、アウンサンスーチーが自ら作った「国民民主連盟」が急速にビルマ最大の野党になったことと1990年の総選挙で圧倒的勝利を収めたこと。軍政府は政権譲渡を拒否したが、この勝利はビルマの人々を大いに勇気づけた。

    ❸ 「8888運動」は民主と自由の価値をかってないほど全国に広げ、人々を権利意識に目覚めさせた。運動がおきる前は人々は軍政に不満を言うだけだで、民主と自由の価値や理念とそれが人間にどのような意義があるかはあまり理解されていなかった。

    アウンサンスーチーが民主の理念を、特に政治と人の関係を民衆に分かり易く伝え深く理解させた。そして青年学生が民衆動員の為に街や村々に深く入り込み、経済の遅れ、腐敗の横行や各種の社会問題の原因は専制政治が根源にあると民衆に理解させたおかげで、ビルマの民主運動の方向が独裁制廃止の目標から逸脱しないで済んだ。つまり、8888運動はビルマ民主化の3つの基礎条件、「声望あるリーダー」、「成熟した組織」、「信念をもって目的を追求する色々な層からなる参加者」をつくりだした、といえるのだ。

    8888民主運動は残酷な弾圧を受け続けたが、しかしビルマ軍政府の中心的指導者達はすでに軍人の専政制度の行き詰まりが分かっており、変革に迫られていた。まず8888抗議運動によって発動された戒厳令が解除され、反対派も含む各政党および社会各界の人士との対話が始まった。これと同時に、軍政府は軍を支持する「連邦団結発展協会(USDA)」(後「連邦団結発展党 (USDP)に改称)の支持者拡大をはかった。

    1997年から、USDPは度々大衆集会を開き、公務員から中学生より大量の党員を獲得。1998年、協会会員は1100万人に達し、ビルマ最大の政党となった。2003年8月ビルマ軍政府は民族和解実現の為、民主化進展の7つの路線計画を宣言。要点は国民大会の回復、憲法制定と民主選挙、国家権力の民選政府移管、だった。

    この過程でアウンサンスーチーの反対派と米国や西側国家は様々な方向から制裁を加え、ビルマ軍政府に大きな圧力をかけた。様々な要因により2007年8月15日から、世界に知られる反軍政デモが起きた。原因は政府が燃料油の補助金を取り消し、燃料費が何倍も高騰し、公共バス料金も倍に。

    物価上昇にうんざりしたビルマ民衆は民生物資価格の合理化を求めてデモを開始、学生や反対派の政治家はこの機に常時デモを指導し対話進行とスーチー釈放などを要求へ。9月18日には役数千人の仏教僧侶がデモに参加。新聞はこのデモを世界各国のカラー革命と合わせて論じはじめ、「サフラン革命」(僧侶の衣類の色から)とか第二次ビルマ民主運動と呼称した。

    2007年、「サフラン革命」は軍政府によって鎮圧されたが、強大な国際圧力はビルマ当局に1988年当時のような容赦ない民衆虐殺(爺注;*wiki;1000人以上の国民を虐殺)をくりかえすことを許さず、軍政府は鎮圧をはかる一方で、憲法改革に着手し9月3日に憲法制定国民大会が憲法の基本原則を制定することを決めた。そして10月に憲法起草委員会、12月に起草に着手し、2008年5月新憲法制定国民投票で可決された。

    注目すべき点は反対派はビルマ軍政府のこれらの準備工作によって自らの訴え(即時軍独裁廃止)を放棄せず、原則で妥協しなかった。当然、ビルマ軍政府の実行されないような口約束に騙されて拍手するようなことは(中国の怪しげな”異議申し立て人士”達と違って)更になかった。

    2010年11月7日ビルマが行った多党参加の選挙で、多くの他の野党は嘲笑したのだが、アウンサンスーチーの率いる全国自由連盟は、この選挙が合法性を欠くという理由で参加を拒絶した。この選挙後、清潔さで知られたテイン・セインがミャンマー大統領となり、軍政府は権力を民主政府に移行し(軍政府が軍装を解いた、といわれた)。以後、テイン・セインはビルマ民主化に力を入れ、米国等にも民主化への決心を表明し、こうして西側世界とビルマ反対派はやっとビルマ民主化が20年の血を流す奮闘の末進み始めたと信じるに至った。

    つまり、ビルマ民主化の過程を簡単に言えば、20余年の民主化の過程で、先に立ち上がり倒れた者の残したもの、例えば指導者や組織など必要不可欠な社会運動の資源を後継者が引き継ぎ、宗教者を含む社会各界がすべて民主化を自らに課せられた任務とみなし、学生は市民や地方の村々を啓蒙し、国際社会は共同で制裁に動き、軍政府もこうした圧力の元で譲歩し、逮捕者を釈放して和解への誠意をみせた。またゴルバチョフ型の”清潔”な、時勢を読める人物がいたのであった。

    続いて、中国の1989年から20数年間、ビルマの民主化に類する要素が果たしてあるかどうか検討する。(終)

    拙訳御免。
    全文は voachineseblog.com/heqinglian/2013/04/china-burma/

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