• ビルマ民主化の道は中国への啓発⑵ 

    by  • April 9, 2013 • 日文文章 • 0 Comments

    何清漣氏 @HeQinglian ブログ

    2013/4/6

    全文日本語概訳/@Minya_J Takeuchi Jun

    2013/4/15 http://twishort.com/SLidc
    中国とビルマ両国の当面の状態は、一民族の主体が何を願い、何処に到達するかは、棘に刺されず花だけ得ようとしても無理だという事を示している。中国の”経済改革”とビルマの民主化の道は最初から目標が違っていた。ビルマの反対派が求めたのは独裁制の終焉であり、民主化の実現でこの方向と目標は20年間不変だった。一方、中国共産党政府のが推進し、人もまたこれを歓迎した経済体制改革の目的は共産党統治を危機から救い、あらたに自分権力者が生きのびるのが目的だった。

    中共は最後にその目的を達し、鄧小平が約束したその半分、「少数の人が先に豊かになる」を実現したが、大部分は「これから富むのを待っている人々」になった。

    《ソ連の教訓で中国は鉄壁の守りを強化》

    8888民主運動の後、危機意識に駆られたビルマ軍政府は一種の緩やかな政治的改良を行った。翌年、中国では89民主運動がおこり、当然中国政府は危機を感じたが、対応はビルマ政府と完全に反対だった。中共は専政を強化したのだった。まず一歩一歩党による統制を強化。趙紫陽時代の政治と企業の文化は「党が一切を主動する」に後退し、胡錦濤時代には中国の外国、国内企業にはすべて各級の党支部をつくり、共産党員の人民代表大会メンバーがが現地で党政と兼任し権力を握った。

    次にニュースメディアとインターネットのコントロールで世界に冠たる技術を開発、さらに二度と天安門事件のようなことを起こさせない様にイデオロギー教育を強化した。特に注目すべきは、第四の点。それは西側民主に対する批判である。この批判は80年代に鄧小平が「精神汚染を除去する”としてやった「反資産階級自由化」が抵抗に遭いしばらくなりを潜めていたもの。

    それが胡温時代には中共政府は理論的に「中国は既に中国的特色ある民主史政治を実現した」と称して、2005年に「西側が中国で狙うカラー革命の陰謀」に続いて、2011年には呉邦国が「5つのダメ出し」(多党制、思想の多元化、三権分立と二院制、連邦制、私有化)、最後に習近平が「西側の邪道を歩まないー3つの自信」と「文革」「大躍進」「反右闘争」肯定(「三十年後で三十年前を否定してはならない」論)。中共は政治上でますます保守反動となった、その源は自らの路線選択であった。最初の改革の動力は党の統治を回復するためだった。

    経済改革は毛の文革が産んだ「党の統治合法性の危機」から中共を抜け出せるためだけのものであるから、それ以上のいかなる政治改革も中共の3つの独占(権力、資源、世論)を脅かすだけで、一党独裁の核心利益に反するものであった。だから胡温の10年の任期で政府の腐敗が日に日に酷くなり、各種社会矛盾が鋭くなっても、中共統治の合法性がまた揺らいでもますます保守化するだけであった。
    江朱時代につくられた治安維持体制は十分すぎるほどで、秘密警察やタレコミ制度は中共が社会をコントロールする主要な手段となった。ソ連共産党滅亡の教訓はしっかりと中共の教訓として活かされたのだった。

    もしビルマの8888運動後、軍政府が危機に対応してとった民主化制度への多党制、憲法制定、スーチーら政治犯釈放、そして最後に「軍装を解いた」のに比べれば、中共がやったことは完全にその反対で、一党独裁制度を死守するという意外、いかなる自由の隙間も民間に残さない、ということであった。

    《「中国ブーム」が中共を国際的孤立から救った》

    ビルマ軍政府に改革を強いた要因のひとつが国際社会からの制裁と孤立だった。しかし、中国政府は過去20年、まんまと国際社会に返り咲いただけでなく国連の中でも重要な地位をもつ大国になりおおせた。これらはすべて、中国の対外開放によって国際社会がつくった無数の利益関係のおかげである。1989天安門虐殺事件後、ベイックはすぐ対中経済・軍事制裁を宣言した。国連総会で中国制裁を投票した結果、賛成213、キケン23、反対2票だった。反対票のうち一票はパキスタン。パキスタン政府の専門家は「大変高価な代償を払って中国との永久の友誼を…それは我等の巨きく深い友誼の財産の蓄積である」とした。現実的な日本は当然西側7か国の北京に対する制裁に追随し政府借款を凍結し高官往来を停止したが、1990年7月11日に対中政府借款を復活すると宣言した。

    1991年8月10日、海部俊樹首相が西側で最初に中国を訪問し、中国外交の孤立状態を改善した。鄧小平は老練な政治家のボスだけあって、1992年春の『南方巡行』語、再び『改革開放』を中国発展の大計とした。このあと、多国籍企業は相次いで中国をおとずれ、中国の為に自国政府を説得する責任を担ったのだ。例えば米国の多くの多国籍企業は中国のために「最恵国待遇」を説いた。2001年WTO加入後は、中国のいいなりに各種の中国優遇経済政策を米国政府に説き続けた。

    つまるところ中国の”発注外交”がEUをなだめすかし、援助と投資(資源外交)がアフリカや一部南米国家をまるめこんだ。開放された中国市場は全世界の五百にのぼる多国籍企業の大半を引きつけた。これらと各国の密接な防疫関係は世界各国の中国への『友好姿勢』を決定した。中国政府が獲得したこの種のゆる〜い国際環境、というのはかってのソ連は勿論、ビルマのそれとも比べ物にならない。私はかって「中国外資神話の幻滅」という一文で詳細に分析したがそれは「外国資本が中国制度環境を変えないで、中国の腐敗した制度環境に適応するなら、中国の政府官僚とともに、新たなる『政商連合』が産まれ、外国の『反中国勢力』が中国に『平和的民主移行』に成功するのではなく、米国やEUが共同の利益の上に社会主義中国との『平和共存』を望むだろう、と。

    国際文化人のなかには中国に『お宝』を提供する者もあらわれ、ゴールドマンサックスのJoshua Cooper Ramoは2004年に「北京コンセンサス」なるものを発明し中国新左派文化人による「中国モデル」理論のお先棒を担いだものだ。北京も「ワシントンコンセンサス」に変わる「中国モデル」を海外輸出しようと夢見たことがあるぐらいだ。(*爺注;米国で信用・経済危機の結果一時、「中国モデル」がもてはやされたこと)

    一部の外国人は中国が今、『平和的台頭』し2025年には米国を抜いて世界一の大国になると予測し、中共は当然その気になっているわけで、中共の”核心利益”を台無しにする政治改革を中共に求める等、お話にもならない。

    《中国の政治反対運動の難しい情勢》

    1989年の天安門事件は後に続く運動に思想的遺産、組織、指導者の3つのリソースを後に残せなかった。21世紀始めの護憲運動は、出発点が経済的権利を擁護することを柱に、「脱敏感」(政治、天安門、法輪功などの政治的に敏感な問題を避ける)方法で危険回避したが、結局危険は避けられず、活動も広がらなかった。

    その原因は当然、なによりまずは中共の容赦ない弾圧があったからなのだが、更に深い内部要素は参加する人々自身が考えるしかあるまい。

    一考に値するのはこの時期に一部の「異議派」を中心とする政権協力派や和解派という一種の大変妙な政治現象が出現したことだ。この人達は同じ穴の狢でヤマタの大蛇のように上は別のようでも胴体ではつながっている。第一の時は「党内の改革派と協力しよう」と唱え、その相手は何度も口先だけで改革をとなえていた温家宝総理だった。また別の時には「政治的和解」を唱えて、ポーランドの経験に学んだと称した。実はポーランド、チェコ、ハンガリーの民主化に成功した国家はみな共産主義の”垢”をこすりおとし、共産党の統治に深刻な批判を加え、かって当局に協力した人々に懺悔反省を要求しているのだ。こうした中欧の国々の社会を”みそぎ”する過程に対し、中国の一部の『異議人士』達はこれを「和解」だと誤解している。そうした意見を、中共の治安維持費が軍事費を超え、専政の城壁は増々高くなり、民間の反抗は増々残酷に鎮圧されて反抗の術も無く訴えることもできないこのときに「和解」を言い出すのである。

    こうした人達が「和解」を言い出し、影も形もない「暴力革命」の怖れを人々の前に描き出し、社会の被支配者を脅かそうとするのは、反抗者に首を伸ばして斬られるのを待てというようなものだ。こうした常識とは反する知識人異議分子が出現しかつある時期に主流となり、あまつさえ『精神的指導者』などになる、というのは将来、この時代の歴史を研究する上で重要なテーマにとなることだろう。(終)

    概訳意訳拙訳御免;原文は voachineseblog.com/heqinglian/2013/04/china-burma-2/

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