• 「中国芝居 権力の譫妄と『傻伯夷(shǎ bóyí)』」

    by  • May 25, 2013 • 日文文章 • 0 Comments

    何清漣氏 @HeQinglian ブログ

    05.24.2013

    日本語全文概訳

    http://twishort.com/yYsdc

    05.25.2013
    偶然とは不思議なもので、最近中国では相次いで二つの”芝居”が登場した。(*「傻伯夷」;発音は”シャボイ”、意味は「傻B」=シャビィ・阿呆=に近い。今月23日発表の艾未未氏製作のロック&映画?のタイトル → aiweiwei.com/music/dumbass )

    ひとつは『人民日報』『解放軍報』『紅旗文稿』(党理論機関誌『求是』の分身)。この3つのメディアが同時に、華やかな言葉を飾って「党権神授説」を打ち出した。 もう一つは艾未未製作による現代ロックンロール劇「傻伯夷」で、思いっきり粗野な俗語をふんだんにつかってこの政権を馬鹿にした内容で、「抵抗を放棄し政権と和解せよ」という似非改革者連中に対する怒りに満ちたものだ。中国の統治集団と民衆の間の分裂・対立がいかに激しいものかは、これをみてもわかる。

    《権力の譫妄『党は宇宙の真理を掌握し、党は上帝の如きものだ』》

    党のメディアが重々しい宗教用語を借用して「党は神の如きもの」などと論じるのはまるで人類歴史の中世の理念「王権神授説」である。『君主』が『党』になっただけだ。劉亜洲大将は中共の「儒教将軍」で、この度発表した「神聖な党性を堅持せよ」は党員に党章に対してひれ伏して拝するようにという”思想”がその中心テーマ。「キリスト教徒が神を拝むように党性を」という内容。

    本当は党性(「党の階級的自覚」)なんてとっくに中共党官僚の各種腐敗淫行悪行で踏みにじられたボロ雑巾の如きものになっているわけで、劉将軍の「党性は神である」論ときた日には「私は光であり、私は塩であり、私は真理で有る。真っ黒なバッチイ自分は実は真実の姿ではなく、それはみかけの肉体にすぎない」と言ってるのと同じで、こんなへんてこりんな文章は笑っちゃうしかない。

    中共の「全中国人民の解放」という過程は、実際には共産主義信者の端くれインテリ達が無産階級のならず者を率いて暴力的にまず有産階級を消滅させて「私有財産を公に変え」その後で、今度は権力的に市場化という手段で「公を私のものに」し紅色貴族と党官僚を「先に金持ちにさせた」のである。

    これが劉将軍の筆にかかると「共産党が人民を率いて新生国家を建国したのは『モーゼが民をひきいてイスラエルの荒野を四十年流浪し最後に”蜜と乳の流れる約束の地”に着いた』様なもの」となる。まあ、確かに中共が「紅色家族と官僚達を引き連れて」なら「ゼニと妾がわんさといる約束の地」に導いた、というのはまんざら噓ではないが。

    馬鹿馬鹿しい話はまだまだある。『解放軍報』の文には『我等が信ずるのは宇宙の真理』と題し、宇宙の全ての星の生命がココロに刻み込む永遠の真理だというのだ。これはもう太平天国のボス、洪秀全が「神の子」と自称したのに匹敵するレベルである。

    『紅旗文稿』の文は楊暁青・中国人民大学法学教授が書いたもので、「憲政の鍵となる制度・理念は資本主義だけのもので、社会主義とははじめから無縁」というもの。彼の目には公共の財産を略奪し、民の生存資源を搾取して太った官僚資産階級であろうと「社会主義」の旗さえ掲げていれば、民主や自由や、憲政などはほっぽりだしてもよく、独裁政治は法理論上も根拠がある、というものだ。もし連中の”理論的指導者”のマルクスが墓場の中からでてきて、強制取り壊しの現状をみたら資本蓄積段階の「ヒツジが人間を食う(*爺注;英国の囲い込み時期のたとえ)」より酷い「人が人を喰う」制度と大いに仰天し、自分がこんなものの教祖になっていることを大いに恥じて「これはニセモノだ!」と怒鳴ることだろう。

    憲政非社会主義論、共産党は上帝論、宇宙真理論、ちょっとまえの禅譲論、新国父論、「7つの大学で教えてはダメ」等、中国人は「つまるところ自分達は不幸なる北朝鮮人民とさして変わる所が無い」と悲哀のうちに認識したのだ。

    《傻伯夷は権力とそのイヌをぴしゃりとやっつけた》

    上述の連中が中共の頭にせっせと聖なる冠をかぶせている時に、ロック映画「傻伯夷」が突然登場した。艾未未が得意とするユーモアあふれるやり方で、中国の現実の馬鹿馬鹿しさを再現したのだ。故事の「周の粟は喰わない」と商に殉じて山の中で餓死した「伯夷」(bóyí )は気の毒にも「傻逼」(shǎbī =アホ)の代名詞にされてしまった。

    「傻伯夷」はまず艾未未自身がみずから体験した監獄生活の、暴政が異議人士にいかなる圧迫を加えるかの描写からはじまる。無論、高智晟や倪玉兰はもっと酷い目にあっているが艾未未が遭遇したのは残忍な血なまぐさいといったものではない。この映画には馬鹿馬鹿しい光景に一曲のロックがついており、痛罵を浴びせているのだがその対象は(艾未未が前から様々な芸術表現で軽蔑し切っている)中共政府ではないのだ。「傻伯夷」の歌詞が痛罵しているのは、中国の異議申し立て人士たちの間で近年おきている大部分のテーマの「非暴力」「私には敵が居ない」「寛恕」「容認」などのブームに対してである。

    歌詞は
    ♫キミが出撃しようとすると、ヤツは「非暴力で」というんだ。
    ♫キミがヤツの耳をつねると、それじゃ下痢はなおらないと。
    ♫この馬鹿野郎というと、天下に敵等いないのだ、などと。
    なにが寛容、寛恕で敵をゆるせのへったくれのと…
    When you’re ready to strike, he mumbles about non-violence.
    When you pinch his ear, he says it’s no cure for diarrhea.
    You say you’re a mother-fucker, he claims he’s invincible.
    Fuck forgiveness, tolerance be damned, to hell with manners, the low-life’s invincible.(aiweiwei.com/music/dumbassより)

    私ははっきり艾未未のこの憤怒が理解できる。中国の現実がかくも多くの邪悪で、歴代の暴政の集大成。中国史上の荒淫無道の帝王達の悪行はすべていま実現されている。

    酒池肉林は中国の政府官僚の毎年9000億元にのぼる公費濫用。
    秦始皇帝の焚書坑儒は言論の封殺と不断の「文字の獄」。
    隋の煬帝の無謀な大工事は三峡ダムや南水北調、民生を顧みぬ巨額の対外援助。
    明の武宗の淫楽は、役人が数十人の妾をもち、幼女を弄び、下劣な色情日記を書く現実。

    党を支える官僚達はかくのごとく国民の汗と血の金銭を湯水のように使うばかりか、祖先から伝わった山河をも。中国人はすでに最も基本的な生存条件、清潔な水や新鮮な空気さえ失った。歴史上の暴君の治世でも庶民は水と空気は享受できたというのに、民と共産党の事実上の利害対立の戦争状態が”平和”で、自由は奴隷になる自由しかなく、無知こそが”力’になる(*知らぬが仏、の意味か?)、などというこの無茶苦茶な黒白逆転の正邪ぐちゃぐちゃの「1984年」(*ジョージ・オーウェルの著書)の様な世界に対し、艾未未の反抗はおのずと痛快きわまりないものになるのだ。

    先述の政治的たわ言にみちた奇々怪々な文章と、艾未未の「傻伯夷」はネットの上で期せずして同時に発表され、ともに現代中国をみせる「演劇」となった。

    「人民日報」等御用メディアは華麗な空文句を積み上げ、政治的たわごとのうえに神と宇宙の真理まで載せて、独裁は天道に合致すると宣言し世界中にその腐った中味をさらけだした。

    一方、「傻伯夷」はまさにこの中共政権の暗黒と恥知らずと、中共のシッポについて、「反抗を止めよう」と求める泥棒インテリや犬儒派を痛罵した。言葉はキタナい罵詈讒謗だが、それは却って人類が自由を追求する尊厳を表現している。

    誰が勝つかって?
    微簿やツィッターみればわかる。前者のたわ言に対してのブーイングと、「傻伯夷」に上がる歓声と。北京政権はすでに民意の基盤を失っている。さっさとコソコソ幕をおろしなさい。(終)

    拙訳御免。
    原文;www.voachinese.com/content/delirium-of-power-heqinglian-blog-20130523/1667932.html

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