• 越えられない「六四天安門運動」

    by  • June 7, 2013 • 日文文章 • 0 Comments

    何清漣氏@HeQinglian

    《中国人权双周刊》第106期 2013年5月31日—6月13日

    日本語概訳全文/Minya_J Takeuchi Jun

    http://twishort.com/gdwdc

    2013年6月7日

    毎年、天安門事件の起きた6月4日前後の言論活動は、私には中国の政治経済世論の変化を観察する重要な窓だ。今年は香港を含む中国社会の様々な動きは毎年の記念日以上にたくさんあって、中共離れしようとする動きはかってなかったものだった。

    《習近平の保守政治が産んだ中共離れの動きは》

    各種の記念活動のうち、最も中共離れの強かったのは香港だ。1989年以後、香港は中国国内で唯一、天安門事件の英霊を慰霊することのできる場所で、香港市民支援愛國民主運動連合会(香支連)等の団体は毎年真剣に取り組んで来た。しかし今年は香支連は従来のそのスローガン「愛国愛民」、「香港精神」、「天安門事件の名誉回復」のうちの「愛国」を永久放棄した。なぜなら「愛国」は「愛党(*共産党)」を意味し、香港在住の人士達から抗議を受けたからだ。

    これまで天安門事件を記念して取り組んできたのは海外亡命した参加者と犠牲者の両親達だった。しかし、今年の活動には社会各層から参加があり、その政治的なテーマは単なる記念活動の域をとっくに越えていた。数年前、当時国内の護権人権派人士達は「過去の(中共)アレルギーから脱出して」自由な空間を勝ち取ろうとおおっぴらに主張していた。この「アレルギー」はいくつかのテーマがあったが、その中で「天安門事件」は筆頭だった。それがこうなったのである。この変化は小さいものではない。作家の劉心武が中国現代社会の変遷を証言した「私は六四に産まれた(我生于六四)」が仏語で出版されたのも、ここ数年の中国情勢の変化のなさしめたところだ。(*爺注;中国本土、香港では未出版 p.tl/i_LE

    米国の態度も一種の「政治的中国離れ」をはっきり表している。米国は習近平に南米訪問の帰り道「ついでに」訪米をよびかけたが、米国国務省は六四天安門事件の24周年に際し中共が抗議する人々に対する迫害を止めるように呼びかけた。米国は毎年天安門の日だからといって、このような事をする慣例はなく、首脳会談の前には友好的な雰囲気を醸し出すために、通常はこのようなテーマは避ける。国務省のこの態度は婉曲に習近平の内政外交政策への不満を表明したものだ。

    簡単に言えば六四天安門記念活動の中で中国離れが明確に現れたのは、中国の近年の政治経済形態の変化、当局の「パンの契約」(*爺注;メシくわせてくれるなら黙っている)が継続困難になっていく、習近平政権の保守的な姿勢に関係しているのだ。人々は被害者が一方的に「和解」を表明させられることをみて、「(中共に対する)寛い心」は役に立たないばかりか、かえって統治集団の勝手なやり放題をますます助けるだけだということに気がついたのだ。

    《将来を見通せる「天安門運動」の二大目標》

    ある人は「天安門事件」は中国人の破壊された夢だというが、私はそうは思わない。破壊された夢なら捨てればいい。しかし民主は中国人にとって自分の基本的権利を保証する手段で文明社会に至るに絶対必要な階段なのだ。だから放棄することはできないし、放棄や退譲歩はすなわち中国人が共産主義政権の圧迫のもとで足踏みさせられるしかなく、紅色貴族の利益集団によるほしいままの略奪をじっと我慢して受け続けなければ成らないことを意味する。香港と中国本土が一体となって真の力を凝縮し、それぞれの階層の中国人が立ち上がり、”六四天安門”をテーマとして語り合うことは、かっての犠牲者を悼み、かれらに敬意を表するというだけではない。天安門事件の2つの大きな訴えであった「反腐敗」と「民主要求」は依然として中国人が直面する主要な課題なのだ。

    1989年、中国人の権利意識はまだ芽生えておらず、「納税者」という意識もなかった。人々は「中国政府は全中国人民を食わせてくれる」だろうとその宣伝を信じ、役人の腐敗といってもタダで飲み食いする程度だとおもっていた。しかし六四天安門事件は「反腐敗」を政治的要求に掲げた事で、はっきりと高級幹部子弟が中国政治経済におよぼしかねない重大な影響をきわめて豊かに見せてくれたのだった。

    運動の矛先は鄧小平の息子・鄧朴方の康華企業を代表とする高級幹部子弟の特権企業に向けられた。反腐敗の核心スローガンは「反・役人商売人」だった。こうした目標を明確にして掲げた事が鄧小平をして弾圧に踏み切らせたといわれる。今、紅色家族メンバーが中国経済を独占支配し政治上でも全面的に二代三代が占めていることをみれば天安門当時の参加者達が直感的に中国政治の根本的問題に目覚めていた事には敬服せざるを得ない。ブルームバーグ・ニュースによれば、王軍(八大元老の王震の子)、賀平(解放軍幹部の贺彪と鄧小平の3女の子)、陳元(八大元老・陳雲の子)の3人が率いる企業の2011年の総市場価値は1.6兆㌦で中国の一年度の経済の5分の1強にあたっており、政治では全面的に紅2代、紅3代が権力を受け継ぎ、政権引き継ぎの過程をほぼ完成の域に達している。

    ここ何年も「六四天安門事件の学生運動指導者達の方針は間違っていたと反省せよ」と要求する人が居るが、それはかっての六四リーダーたちの特殊な条件をわかっていない。彼らは長期にわたる学生運動の中から産まれたリーダーではなく、ただ時勢から産まれたリーダー達であり、この種の指導者は必ずしも深謀遠慮にたけた政治的眼光など必要としないのである。学生も他の参加者も急遽参加したわけで、組織化もされていなかった。深く運動にかかわった人も側で見ていた人々も、そのときの政治の渦に巻き込まれたので、そのとき何がおきているか全面的に理解する術はなかったのだ。年長のエリート達も「指導」というよりは運動の大きな流れに動かされていたと言ったほうがふさわしかった。

    しかしこのような深刻に準備不足の情勢の下でも、六四天安門民主運動が提起した2つの大きな訴え、即ち腐敗と特権による富の分配構造と、民主と反民主のぶつかり合い、権利意識の日々高まる民衆と特権死守を誓う中共政権の間の最後の戦いという中国の今後の歴史的命運を予見していた。

    《”64”は中国の早過ぎた春》

    24年経って改めて六四天安門事件を振り返ると、中国社会を前進させるためにはこの”六四”が提起した2大問題を避けて通る事ができないことに気がつく。私はかって深圳で”六四”応援活動に参加し、その鎮圧後の各職場等での「お前も応援したかどうかはっきり言え」調査から90年代、今に至るまでの権利意識の覚醒過程をはっきり理解している。第三の波の民主化、中東のジャスミン革命とビルマの民主化を深く分析した結果、世界の民主主義運動の一般規則がわかったようにおもう。それは民主運動は個人の権利意識の覚醒から産まれるということだ。英国の名誉革命がブルジョアジーの権利意識の覚醒を意味する「代表無ければ課税無し」という言葉は今日に至るまで納税者の権利意識の精髄を言い当てている。2011年のアラブの春は中東北アフリカ国家の民衆が権利意識に目覚めたから産まれた。

    チュニスの民衆は「パン契約」を経て権利意識に目覚める過程を歩んだのである。今日の現実から昔を振り返れば、六四天安門の反特権も民主要求も先見性に富むものだった。今日の中共の「弾圧による治安維持」、政治改革拒否、西側民主化の極力排斥などの目的は紅色貴族特権の利益を擁護するためだった。ただ惜しむらくは”六四天安門運動”当時にはこの内容豊かな「先見の明」は中国一般国民の平均的認識水準を遥かに越えるものであったことだ。当時大多数の中国人は鄧小平の改革による物質的向上の真っ最中で、国営企業労働者は政治上の「兄貴分」の地位を失ったとはいえ、経済上の報酬制度の改善で潤っていた。中国農民もまた中共統治以来、一番良い時を迎えていた。当時の彼らには六四天安門の2つの訴えが今後自分達の生存状態に密接な関係を持つということを認識するのは不可能だった。この二大階級の権利意識は90年代以後、国営企業をクビになって失業したり、強制土地収用によって自分達の利益が失われるに従って育って来たのだ。

    だから社会発展のレベルからいうなら”六四天安門”は早過ぎた春だった。春風は大地の上に吹いてきたが、大地はまだ春を迎える準備ができていなかったのだ。

    “六四天安門”運動は中共政権発足以来、唯一の学生と知識分子を主体とし、各層市民の支持を得た民主運動だったし、唯一の参加者が個人的利益を越えて反腐敗と民主を中心とした要求を行った運動だった。

    中共政権がこの運動に如何なる態度をとろうとも、”六四天安門”運動の反特権と民主要求というこの二つは依然として中国が文明社会に向かっていくにあたっての中心となる要求なのである。(終)

    拙訳御免;原文は;biweekly.hrichina.org/repost/7734

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