• 陳元はなぜ新興5カ国(BRICS)銀行頭取になりそこねた?

    by  • July 23, 2014 • 日文文章 • 0 Comments

    何清漣

    2014年7月21日

    全文日本語概訳/Minya_J Takeuchi Jun

    http://twishort.com/cpRfc

    中国、ロシア、ブラジル、インドの5国でつくるBRICS銀行が何処につくられて、誰がトップになるかは何年もの金融界の大きな関心事でした。最近ついにそれが決まって総本部は中国の願い通り上海設置と決まりましたが、頭取はインドになりました。ずっとブリ銀のトップは当然、陳元だとおもわれていたのに頭取でも理事会主席でも取締役会主席にもなれませんでした。

    《落選の背景に沈黙するメディア》

    これがもし薄熙来事件の結審の前に起きたならば大きな波紋を呼んだかもしれません。しかし今となっては国内メディアの多くは沈黙するだけで、ブルムバーグニュースだけが「陳元、BRICS銀行頭取落選の背景」(7月17日)というタイトルを掲げましたが、羊頭狗肉で肝心な点はほのめかすだけです。「中国の意外な落選は、外からは「計画で主導権をとらなかったから」とみられている」とか「中国が主導権をみずから放棄したのか、放棄させられたのか外界からは窺い知ることができない」などと言っています。

    しかし記者はそこでやめるのはいさぎよしとせず、そのほかにこうも書いています。「同じ様な国際金融開発機構のアジアインフラ施設投資銀行(Asian Infrastructure Investment Bank)の建設計画では中国は一貫してしっかり主導権を握った。この投資銀行は習近平が去年10月インドネシアを訪問した時に公に発起したもの。同銀行の直接のライバルは日本が牛耳るアジア開発銀行であり、予定している資本は1000億米ドルであり、その運営には中国財政部、、財政部全副部長、中国国際金融有限会社理事長の金立群が建設計画責任者である」と。

    陳元がもともと中国金融界にしめていた地位と、彼が牛耳っていた国家開発銀行(CHINA Development Bank)が2007年以後、重慶の薄熙来を金融面から支えて来たことがわかれば、実はこの記事が暗示しているのが国際協力の上で常に指導権を獲得するのが大好きな中国政府が今度のBRICS銀行に限ってはわざわざ主導権を放棄して、その結果、陳元がトップになれなかったということがわかります。

    他のメディアはタブーに触れるのを怖れてこの件には沈黙していますが、2007年以後の国家開発銀行が薄熙来を支持して来たそのツケがまわってきたと理解すれば今回の結果は意外ではありません。

    《陳元ー金融の帝王だった》

    まず往事を振り返りましょう。2013年、国際金融界に「68歳の中国国家開発銀行理事長の陳元が退職し、BRICSの開発銀行計画の責任者になったというニュースが流れました。時に陳元は68歳でしたが新たに全国政治協商会議副主席に任命されました。しかし彼が望んで退職したのではないということは誰もが知っていました。ただ彼が牛耳っていた国家開発銀行は薄熙来の重慶書記(重慶のトップ)就任以来、その金主として巨額の資金を傾けて応援していたのです。

    薄熙来は失脚しましたが、陳元は中共の元老の1人、陳雲の子で有るという「紅色貴族二代目」ということでは習近平と同じでしたから、習は”軟着陸”させ、BRICS銀計画に参加させはしたものの力のないお飾りにしたことはありえないことではありません。

    中国の銀行あまたあるなかで、中国国家開発銀行は特別な存在であり、中国政府の直属で三大株主は財政部と中央汇金投资有限责任公司(*国家出資の投資会社)と社保基金理事会(*中共中央委、国務院設立)です。その特殊任務は中長期の信用と投資など金融業務を展開することによって国民経済の重大な長中期戦略を担当し、普通の銀行と二つの点で違っています。ひとつには大部分の貸し出しは国務院と国家発展委員会が決定すること、もうひとつはその貸し出し資金の原資は預金ではなく他の銀行が債券市場で購入しなければならない債券だということで、その金額は2011年だけでも1兆元です。これは国家開発銀行の資金調達コストの面できわめて優位にたたせます。(*打ち出の小槌もってるとおなじですもんねw)

    それに加えて陳元はその(*紅色大貴族の一員としての)体制内の見えない資格を持った家柄出ということで他の人なら考えられない自由をもっていたのも国際金融界の常識で、流動性と資金ショートにある銀行からしたら国家開発銀行と協力することはものすごく有利なことでした。以上の有利さに依って国家開発銀は全地球の融資の「金主」となり、中国内地の大型建設プロジェクトのみならず、国内の大企業の海外進出をも支えました。

    その手はアジア、アフリカ、ラテンアメリカに伸び、特に中国の設備購入や中国の鉄鉱石や石炭など資源購入計画、中国企業の海外企業買収プロジェクトなどすべてが国家開発銀行のサポートのプロジェクトでした。英国ファイナンシャルタイムズが2012年8月に「陳元;中国国家開発銀行の主」という記事で当時の威勢を「いかなるときでも中国国家開発銀行代表団が発展途上国に資金援助計画で訪れたら、最高の待遇を受け陳元が同行すればさらにそれ以上になる。 なぜなら世界でもきわめてこのような銀行は珍しく、アンゴラ、ブラジル、オーストラリア、ベネズエラなどに数百億米ドルのプロジェクト資金援助をしている。陳元が王室並みの待遇をうけるのもけだし当然なのである」と書いています。

    このような金融界の”帝王”の地位から退職するのは、全国政協副主席という国家指導者の地位があったとしても陳元はしたくなかったことは容易に想像できます。しかし体制は既に決しており、陳元は退職した4月の11日の人民日報に文章を寄せ、区沢民が1993年に「金融管理電子化」の談話をひいて、自分がそれを実現した貢献を強調していますが、その行間からは金融の帝王の地位になお未練たっぷりな様子がよく窺えます。

    何が彼をこの玉座から引き離したのでしょうか?それは「重慶のツケ」です。

    《権力闘争のツケはぬぐい去れない》

    薄熙来が重慶書記に就任して人気取りをはかったのは西側社会の左派がやる福祉福利をもって票をあつめる左翼的なやり方ででした。当時、国内では「革命歌を歌い黒い悪人をやっつける」という薄熙来モデルを支える巨額の資金はどこからくるのか、といわれたものですが、薄熙来の失脚後、ある評論が「国家開発銀行の重慶のツケ」(《金融时报》2012年5月15日)を発表し2007年から2011年末まで重慶市の全部の地方融資プラットフォームの金額は4620億元で国家開発銀行のプラットフォームの貸金がその25%、1155億元あまり、と計算しました。つまりもし陳元の援助がなければ薄熙来の”重慶モデル”はすくなくとも一角は崩れていたでしょう。

    古今東西、専制裁政治の宮廷内闘争は大きな賭けで、勝ったものは”親の総取り”ですが、負けたほうは地位や冨どころかときには命まで失いました。中共は毛沢東時代以後、やっと宮廷内闘争でライバルの命を奪う血なまぐさい歴史に終止符をうちましたが、しかし敗北側はやはり監禁隔離されないわけではありません。
    薄熙来はこの争いにやぶれてすでに「悲劇の人」ですが、陳元もその大金主だったわけで、いまBRICS銀行の頭取にはなれなかったけれども、それでもなお政治協商会議副主席でいられるのは「良き末路」と言えるほうでしょう。(終)

    拙訳御免。
    原文は「陈元为何未能出掌金砖银行?」http://www.voachinese.com/content/he-qing-lian-20140721/1962395.html

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