• 歴史状況の肝心カナメをお話にしてしまったー『歴史転換点の鄧小平』をを見てー

    by  • August 24, 2014 • 日文文章 • 0 Comments

    何清漣

    2014年8月14日

    全文日本語概訳/Minya_J Takeuchi Jun

    http://twishort.com/4Gfgc

    最近、中国中央テレビ(CCTV)の『歴史転換点の鄧小平』(以下『鄧小平』)の前編6回を見て、鄧小平と毛沢東の違いのつじつまをなんとか合わせようとする30年にわたる中共政府の苦心を深く感じ取ることができました。ちょっとこの間の歴史を知っている人なら誰でも党招聘の改革は毛沢東を否定したものであり、特に文化大革命を否定した基礎から出発していることは明らかです。

    毛沢東の30年がなければ(それに加えて華国峰の「ふたつの全て」=「毛主席の決定・指示はすべて変えない」=の約2年間と)鄧小平の改革開放の局面(*鄧の30年)は無かったのです。

    『鄧小平』の劇の脚本ライターはこのふたつの相容れない「ふたつの30年」を継承関係にしようと大変な苦労をしたことが察せられます。今のネット時代にこのやり方は多くの当事者の記憶・回想と各種の既にある記録の解明結果と衝突します。

    《大事なことについて真実を述べなければ、それは”お話”にすぎない》

    政治宣伝である以上、歴史の真実性は政治に服従するしかありません。劇中の数有るエピソードが真実ではないことはまあいいでしょう。例えば鄧毛毛(*鄧小平の娘)と劇中の男性が1976年に80年代以後の洋装をしてた、とか華国峰がオールバックの髪型だとかそういったことは登場人物のイメージでつくられたものです。田家や夏家の食事会の料理が豪勢なことは当時の配給制では無理だったというのも沿海の気分をだすためにしたことでしょう。劉金鎖が明の太祖(朱元璋)が北京に皇居を建設したとか(*首都は南京だった)鳳陽皇城(*明が最初に安徽省凤阳县につくった都)が北京より大きかったとか明らかに常識の部類の間違いも監督が言わせただけとか。

    しかしいくつかの大事なことはマジメに事実と比較して考察しなければなりません。

    ここではひとつだけ重大な歴史の事実が嘘っぱちになっていることを指摘します。「四人組粉砕」は中国現代史上の一大歴史的事件です。”四人組”が打倒されなければ鄧小平が復活することも後に第11回党大会(*1978年、文革否定、改革開放路線が決定)もなかったしましてや今日にまで影響を与えている巨大な改革開放もなかったわけです。

    この劇では華国峰、葉剣英、汪東興らが時勢に明るく、情勢に応じて機敏に対応して宮廷クーデターを行った事になっており、ただし『鄧小平』は依然としてそれは「毛主席の生前の配慮からでた」としています。

    これは太い針で無理矢理「前の30年」(文革)と「後の30年」(改革開放)を無理矢理縫い合わせようとするものです。ネット上の質問に『鄧小平』側はブルムバーグニュースに、四人組粉砕後国内各単位に向けられた中央文献に基づいていると文件を提供しました。

    そのうち最も有名なのは1974年3月20日に毛主席が江青宛てた手紙で「良くなってない。過去長年キミと話したが良い事はやってない。キミはマルクス・レーニンや私の本をちゃんと読んでいない。私は病気で81歳。キミの特権は私が死んだらどうなる?」「キミは大事なことを話さず、くだらない事を毎日いってくる。よく考えなさい」と。外にも江青の側近達にも感情を害した様子が窺える話があります。当時この話をきいたことがありますが、これらの文献はいまでもネット上で検索してさがしだせます。

    主に毛沢東が”4人組”を批判し教育した羅列ですが、それによって毛が”四人組”に対して長い間不満だった事が証明されます。毛沢東は一生、戦友だろうが家族だろうが満足した相手はほとんど居らず、周恩来のように何十年もの間、長年忠実に仕えてきた人物でさえ満足させられず、死ぬ数年前には「批林批孔批周公」で恥ずかしめを受けました。

    江青の性格と策略の乏しさが毛を苛立たせたことは不思議でもなんでもありません。この話が聞こえて来た時、私は友人とまさに毛が江青に対して不満は心配からうまれたものでその意味は「キミの能力はなってない。どうでもいいことにばかりこだわって事を成功させられない。今は私が保護しているからいいが、私が死んだら誰もキミを保護しない、そしたらどうなる?」ということだと。

    つまり毛は江青に不満でしたがそれは人を団結させられない狭量さに対する不満であって劉少奇達に対する様な絶対やっつけないではおかない、という不満ではありません。華国峰や葉剣英らの当時の中共中央がこうした文書を出したのが毛沢東が生前にそのように手配したなどというものではなく、「毛は江青達に不満を持っていた」ということを示す事に依って「四人組粉砕」の正当性をあらわすのに使おうというだけのものです。

    《毛沢東の真の遺志は何だったのか?》

    毛は本当は何を望んでいたのか?この十年来様々な回顧録が出されていますので考証するのは難しくありません。”四人組”の1人の姚文元はその回顧録で毛が生前に何度も江青を主席にする手配を提案したことを挙げています。別人の考証では後継者を誰にするかで毛は前後して3人のリストを残し、第一のリストには確かに妻の江青を主席に、他の二つには甥の毛遠新をトップにし江青を三番目にしていました。華国峰をセットにしたのは毛が華ならマジメで江青らがコントロールできるとみたのでしょう。

    妻の江青と甥の毛遠新がうまく後継者になれるようにと毛は一連の人事を手配しましたがそのポイントは江青らに打撃を与えうる一連の有能な人材を取り除いておくことでした。鄧小平はそのトップです。

    鄧は第一次復活後、1975年7月に提出した「三つの指示」(*学習、団結、経済向上)をだして、経済発展を主要な戦略に位置づけた鄧小平は頗る人心を獲得しており、もうた右党は周恩来が1976年1月に死んでから華国峰を総理代行にして全面的に1976年2月6日から一連の措置をとって鄧小平に打撃を与え軟禁し鄧小平が1975年からとって来た各種の措置を全面否定し鄧小平批判を展開して「右傾化の風に反撃」する運動をおこし「党内最大の走資派」ときめつけました。

    ”4.5運動” (*1976年4月5日清明節に周恩来を悼む動きが天安門でおきた事件)が爆発してからは毛はこれを「天安門反革命事件」ときめつけ鄧小平がこの一連の動きの背後にいるとし、毛の提案で中共中央は「党内外の一切の職務を鄧小平から剥奪する決議」を通し、全国的に鄧小平批判を展開しました。

    このように処置してもなお毛沢東は安心できず1976年2月2日には毛沢東は葉剣英を病気療養の名目で休養させ陳錫聯をこれに変え中央軍事委の仕事にあたらせ葉は事実上中央軍事委指導者の仕事を停止させられました。これらの手配の意味はきわめて明白だったので葉と華国峰、汪東興が”4人組”打倒の連合を組んだ時に「我々は早くやつらを”解決”しないと、やつらが我々を”解決”するだろう」「急がなければ。早い者が勝つ」(鳳凰歴史2014年8月10日『葉剣英”四人組を解決;生死かけた対決)

    これでわかるように、「四人組粉砕」が毛主席が生前にそのように取りはからっていた、などというのは完全に事実と一致しないのです。

    《専制独裁国家の政変をどうみるか》

    専制独裁国家の権力交代はブラックボックスで不確定性に満ちています。政変は権力交代時期の常態なのです。これらの政変についての歴史の評価は一般に政変後の執政者の政績からみており、政変そのものの正当性から考察されることはほとんどありません。

    例えば唐の大宗の「玄武門の変」(*李世民が兄の皇太子を殺して帝位につき「貞観の治」を実現)がそうです。

    今日、1976年の”四人組”粉砕から四十年近くを経て、なぜ中共は依然として「毛沢東の遺志だった」などというのか?その理由は2つの懸念からです。ひとつは中共の政治的合法性からの考慮です。中共のそれは毛沢東のところから継承されていますので、毛沢東を否定すれば中共は自らが立つ政治の合法性の 根底が崩れます。ですからこの政変には「毛主席の生前の遺志」なる皮を被せておかないといけないのです。

    『鄧小平』が放映されてから、人民ネットはハッキリとその意図を「党中央は去年、厳粛に毛沢東誕生120周年を記念しこの共産党と共和国の締造者、現政権の合法性にふさわしい尊敬を表した。中共中央はゴルバチョフのようなスターリンの全面否定による政権執政党の同様を招くような愚を決して犯さない」と述べました。二つ目は中共は党内に政変の先例をつくることを避けて、後々の患い予防に効果がある様にと願っているからです。

    葉剣英はクーデターは集う前に、王震を陳雲家に派遣して、葉の”四人組をやっつける”方法を陳と話あったとき、陳は何度も考えてから王震を通じて葉に「どうもそれ以外方法がないようだな。しかし党内闘争はこれっきりにして、前例としないように」と言いました。

    実は政変は政変であって、それがはたして正当かどうかはそれによって除こうという相手を具体的に見なければなりません。政変というやり方で暗黒統治をおわらせるならそれ自体が正当性を持ちます。当時、四人組粉砕は”文革”の受益者以外は国を挙げて上から下までこれを歓迎しました。

    中共党内の改革派と知識人たちは鄧小平を擁護し、それは1983年の「精神汚染の除去」まで続きました。ここに至ってようやく人々は鄧小平の対外開放は経済だけの話であって思想の開放ではないことを知ったのでした。

    毛沢東の間違い(そのうちのある部分は罪悪)を「7割は正しく3割が間違い」と言い続けている「晩年の誤り説」を用いて未だに文革終息時がほんとうはどうであったかを整理できないために毛沢東左派の捲土重来の患いを今に残したばかりか、中共自身が「ふたつの30年」という互いに否定し合う論をいまだに残していることについては別の原稿に書きたいと思います。(終)

    拙訳御免。
    原文は;关键历史情节成戏说——《历史转折中的邓小平》 观后 http://www.voachinese.com/content/heqinglian-201407813/2412673.html

    Share Button

    About

    Leave a Reply

    Your email address will not be published. Required fields are marked *