• 中共の「鄧以後の30年」は「毛の30年」をどう否定したか?

    by  • August 24, 2014 • 日文文章 • 0 Comments

    何清漣

    2014年8月18日

    全文日本語概訳/Minya_J Takeuchi Jun

    http://twishort.com/Jdjgc

    鄧小平が改革をスタートさせて後の30年はそれに先立つ毛沢東の30年と結局の所どういう関係だったのか?

    中共当局は自分達の政権の合法的継承性への配慮から様々なやり方で懸命に「継承関係」だと言い張り、一方、結構過激な批判者側でもこの二つの30年の暴政はずっとつづいている継承関係だといいます。

    今回は鄧小平の改革、1989年以前とさらにそのまえの毛の30年の関係を分析します。

    《鄧の30年は毛の30年の否定から》

    専制政権(共産党独裁)からすれば鄧とポスト鄧の中共政権は確かに毛沢東とは継承関係です。しかし、それを除けばこのふたつの30年には実際は大きな違いがあります。「毛の30年」のテーマは革命でした。中でも「文革」の十年は「無産階級専制政権下の継続革命」でした。

    「鄧以後の30年」のテーマは「改革」でしたが、1990年中期以後、とことん紅色貴族の私利私物化に堕落しました。

    改革の初期にすでに成人になっていた人々ならば鄧の改革の初期と毛沢東の道が違う事はみなはっきりわかっています。毛は「専制独裁政治・計画経済・鎖国」の暗黒独裁でした。一方、鄧の30年の初期は「専制独裁・市場経済・改革開放」で開明的専制政治でした。この時期は「それまでの誤りを正す時期」だと公認されており、文革の否定であり、それは文化教育、経済、政治の分野を含んでいました。

    《1;”文革”の”教育革命”の徹底した否定から》

    鄧小平の改革で中国が大きな利益を得たその最初のはじまりは、文革の労働者・農民・兵士を大学に推薦入学させる制度の廃止と大学入試センター試験の復活させ十年の間、行き場が無く溜まっていた青年の優秀な者を今後の中国の発展のための人材養成のために大学に入学させたことです。同時に「科学技術は生産力」であり知識分子は労働者階級の一部分だ」として政治的にちゃんとした位置づけをしました。

    この表裏一体をなす大きな措置はきわめて重要で文革時代のならず者プロレタリアートの心中に色濃く存在した「知識が増えれば増えるほど反動になる」といった間違った理論を一掃しただけでなく、社会に知識を尊重し、人材を尊重するという意識を改めて樹立したことで、中共から革命党の遺風を除く重要な仕事でした。

    革命党は社会秩序を破壊する事をやるべき事だとしており、毛指導下の中共はついに革命党から政権政党への転換ができませんでした。毛本人もついにその一生を通じて革命の山賊大王から現代政治のリーダーには転身できませんでした。毛は社会秩序をひっくり返すのが大好きで様々な運動を起こしました。毛はインテリ(特に人文系の知識人)が大嫌いで反抗する奴らと見なしておりました。

    しかし、現代国家の政治リーダーが社会を管理するにあたっては必ず社会秩序の構造と維持に意を用いるべきで、そのために高等教育を受け様々な専門能力をもった社会の管理者が必要です。今、中国の政界、文化界、学会、どころか政府に異議をとなえる民主人士の中でもこれはといわれるような人物はみなセンター試験復活後の77、78、79年の大学生です。鄧小平が彼らの人生を変え、彼らがいま各種のやり方で今日の中国を形作ったのです。

    《2;毛の階級闘争を立党治国の方針としたことを徹底して否定した鄧小平》

    1978年、中共第11回党大会三中全会は(*毛沢東が決めた)「階級闘争をカナメとすること」の停止を決定し、「無産階級の専制下での継続革命の堅持」を廃棄し、重点を社会主義現代化の建設に移しました。また続いて反右派闘争の拡大化を承認{全国各地に林希翎(1935年—2009年パリで客死の女性)のような右派がいるということは右派闘争が不徹底だったから、として}、また(文革時の)冤罪者の名誉回復もおこないました。体制内部の老幹部の名誉回復以外にさらに重要なのは毛沢東の「階級闘争論」によって「階級の敵」とされた人々、つまり富農、右派分子の子女が政治的差別と迫害を受ける悲惨な生活に終止符を打ったことで、中国歴史上もっとも馬鹿げた逆身分差別がここに終り、億を数える人達の運命が変わったのでした。

    《3;経済改革の始まり》

    80年代前中期の改革はいろいろな方面でそれぞれがみな利益を得た時代だったのです。毛時代、中国の人口の7割は農村に暮らしていました。人民公社体制の下で極度の貧困と自由のない生活でした。1949年以前の自由な状態と比べると農奴のようなものです。

    1979年に世帯(戸別)生産請負責任制の農村改革から始まって、1984年に制限が解除され農民が都市で働く事が許可され毛時代の農民を土地に縛り付け「死んでも郷里をから出られない」という前現代社会の支配された体制モデルが変わったのでした。都市では個人経済の存在が許される様になり、「個人経営は公有経済の隙間を埋めるもの」として支持され、数年後には私営経済の存在まで許される様になりました。

    当時、反対者は大変多かったので、(*これを黙らせるため)誰かがマルクス主義の著作から理論を探し出し「8人以下でかつ自分も労働に参加していれば搾取とは言えない」(*とマルクスも言っている、からOK、文句言うな、みたいなー(笑)ことでした。この改革は都市での就職への制限圧力を弱め、中国で最初の一群の「万元戸」達が登場しました。続いて中国は都市経済改革にはいり国営企業と集団企業が改革の目標になりました。最初は出来高制やボーナス制度で労働者のやる気をおこさせることから始まりこれが公有制企業の利益が極端に少なくても「大きな鍋でみんなメシが食える」状態を変えました。こうして90年代中期まではずっと労働者階級は改革の直接の受益者と成りました。

    対外開放はそれまで閉ざして来た鎖国から開国へ、という意味でした。鄧小平が深圳、珠海、汕头、厦门で経済特区の実験を決定しました。経済特区の解説は経済学における中国の国際分業は比較的有利だという理論を利用したものでした。

    当時の中国が比較的有利だったのは土地と労働力の価格が低廉だったことで、対外資本に優遇税を適用して香港や台湾、日本、韓国から大量の投資を誘致し中国に大量の就職のチャンスを作り出せた事で、ここから対外貿易が中国経済の発展の主要な柱になり中国は世界経済の一部分になりました。

    (*資本主義国の企業に社会主義国内で特権を与える)特区を許すなどというのは社会主義国家に先例がありませんでした。社会主義国家の統治というのは外の世界に扉を閉ざす事に依って、内に対しては愚民政策と高圧的暴力で挑んでこそ維持出来るものだからです。

    鄧小平は1997年に世を去りました。対外開放がそのあと中共にとって吉とでるか凶とでるかに関しては彼が世に有ったときは吉、の方が多い用にみえましたし、また対外開放が中共にとってみれば「パンドラの箱」を開けるとは予想で来ませんでした。ましてや今日、中共がインターネットから情報が入らない様に封じるために数百億ものカネを毎年使うようになるなどとは思いもしなかったでしょう。

    毛沢東の「さらばストレイト氏(蒋介石が台湾に逃げるまでの米国大使)」(1949年8月18日)が出て以来、中国人は人民日報などの政府メディアからの情報に基づいて世界を知れるだけでした。米国や英国の対中国向け放送を聞いてみつかったら厳罰でした。海外に親戚がいるだけで「海外関係者」とされほとんど「特別容疑者」扱いを受けました。

    中共の宣伝洗脳教育の下での中国人はみな「世界にはまだ開放されてない3分の2の人民が塗炭の苦しみを舐めており、我々が彼らを解放するひを待ち望んでいる」と”知って”いました。それが開国の結果はずっと中共当局に依って盲目状態にさせられてきた中国人は目を見張って世界を知ったのです。香港の繁栄は大陸人を仰天させました。そして塗炭の苦しみを舐めて解放を待ち望んでいるというのはなんのことはない自分達中国人の方だった、とわかったのです。これによって、以後中共当局は困難な任務がひとつ増えました。対外開放の経済の成果は享受しなければならないけれども、同時に西側の腐敗した資本主義的思想が中国人を腐蝕するのは防がなければなりません。

    1989年以前、中共当局は鄧小平の支持のもとですでに精神汚染除去と資産階級の自由化反対の両輪を党内外の知識界で運動を展開していました。このため鄧小平は1978年以来鄧小平、胡耀邦、趙紫陽が中国の改革のトロイカといわれ開明的だった胡耀邦書記を廃しました。

    《鄧政治の名声のクライマックス;「鄧さん、素敵」の横断幕》

    いま1980年のあの頃の歴史を解雇するなら、天安門事件という国家による犯罪があったにもかかわらず鄧小平はその時代の革命領袖連でもっとも進んでいたと認めざるをえません。多くの改革開放の動きは衆知をあつめたものであったとはいえ、鄧小平がそれを受け入れ、固い決心で実行しなければほとんど実現は不可能だったでしょう。「机、竃一つ動かすにも流血が伴う」中国において鄧小平が実施したあらゆる革命は一歩毎に激烈な論議の的でした。

    最初は「社会主義商品経済」という言い方で提案された市場経済、特区設置など今日から見たら当たり前のように思われる事もかつて実行時にはみな党内の保守派がマルクスの聖典から引用した句によって「それはマルクス経の基本原則に反し資本主義復活への道である」とされ、農業貿易産品の自由市場開放で社会主義商品経済を認める事は「商品経済の姓は『社』か『資』か」という大論争を引き起こし、多くの一昔前の世代の経済学者を巻き込んだものでした。

    特区設置と外国資本企業から税をとるやり方は当時は中国が外国の植民地に成り下がることだとそしられ、1949年以前の租界に匹敵するもので国を辱める行為だともいわれました。鄧小平はこれらの”理論問題”が大嫌いで、ハッキリと重大理論問題とは「論争するな」と支持をだし、「左に曲がる信号をだしながらハンドルは右に切る」実用戦略で一歩一歩経済改革を前進させていきました。

    そのとき、鄧小平が言った言葉「改革開放をやらなければ地球人じゃなくなる」は人口に膾炙しました。1984年国慶節の閲兵の時、北京大学の学生が天安門の城楼を通過するとき突然「小平、ニンハオ!」の横断幕を掲げたのです。この一幕は瞬時に世界に伝わり国内でも国際社会でも鄧小平の政治家としての声望はクライマックスに上り詰めました。世界は彼に中国を新しい時代にみちびくことを期待したのでした。

    テレビ劇「鄧小平」は1984年までを選んで撮影しました。おそらく1985年からは鄧小平の政治生涯の中で非難されることがますます多くなることを配慮したのでしょう。2人の総書記を廃したことや天安門の虐殺、90年代以後の経済改革が紅色貴族私有化全盛を齎したこと、などはどれもこれらはずべて回避して通る事のできない真実の歴史ですから。(続きは「鄧大人から64虐殺者へ」をどうぞ)

    拙訳御免。
    原文は;何清涟:中共的后30年怎样否定前30年? http://www.voachinese.com/content/he-qinglian-20140818/2417839.html

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