• 「人間動物園(Animal Farm)」は如何に生まれたかー読書メモ⑵ 

    by  • December 1, 2014 • 日文文章 • 0 Comments

    何清漣

    2014年11月27日

    全文日本語概訳/Minya_J Takeuchi Jun

    http://twishort.com/Gfbhc

    「北京無戦事」(*「北京平和解放」連続テレビ劇)の登場人物はなかなか興味深い人達です。何人もの人々が新中国への期待をこめて毛沢東の詩・詞「海岸から遥かな海の中にすでに柱の頂を見せている船の様に」とか「高い山から今や登らんとする朝日の光芒の様」だとか「母の胎内から生まれ出でんとする嬰児の如し」と高らかにうたいます。しかし最後にその「船」が岸壁につこうとするときに、上級者や軍令、職責など屁ともおもわず、ただ中共と周恩来にだけ熱く憧れていた主人公の方夢敖はじめ、多くの人々が外国に去ってしまうのです。

    《『新中国』を待ち望んだインテリと中共の真の態度》

    方夢敖を懸命に他郷に行かせたのは早くも1927年以前に中共に加わって自ら妻の兄の家に20年間も潜伏活動を続けていたその叔父でした。あたかもその後、自分たちの活動が中共に認められることがないと見越していたように(潘漢年、間露=*共産党のためにスパイとなったが文革で弾圧され悲惨な最期を遂げた=が典型的なように)国民党の政府職員は粛清されるとして、『船』が着岸してしまう」前に悲惨な死を遂げた崔中石の妻と主人公を香港に逃げるよううながしたばかりか、その家族も国を離れるように計らったのです。

    これをみると、方の妹婿の谢培东は1949年(*中共権力掌握後の)以降の中国の状況を予感していたのではないか、と感じさせます。実際はこの種の地下党員は必ずしも中共の「新中国」はそうなるだろうと認識していたわけではありません。

    しかし、一部の知識人たちは早くから例えば储安平(*1909年-1966年?)のようにこれを予感していました。国民党政府の末期にはその支配地区の知識人は多く左傾し储安平もその一人で国民党に対して激烈な批判をしていました。ただ、そうであっても彼は大変はっきりと国民党と共産党の根本的な違いをわかっていたのです。

    「中国の政局」という文章で储安平は「真面目な話、我々はいま自由を勝ち取るために戦っているが、この『自由』はつまり多いか少ないかという問題だ。だが、もし共産党が政権を取ったらそれは有るか無いか、という問題になる」と書いています。

    この話はのちに彼が1957年に有名な「自由の多少と有無の違いを論ず」となりました。中共は当然この話を忘れず、1957年に储安平が光明日報に発表した「毛主席と周首相にもの申す」(有名な党天下、発言)で右派の典型人物とされ文革中に行方不明になり1978年以後、全国の55万人の右派とされたひとが名誉回復されても储安平は依然としてその扱いから外された「5大右派」の一人とされたままです。

    さらに残酷なのは中共のこうした「自由ブルジョア階級」に対する本当の態度です。国共内戦時期には民主党派の人士は中共、とりわけ毛沢東、周恩来に対して心から尊敬の念をもっていました。1948年11月、民主人士の彭泽湘(*農工民主党?)、张东荪(*中国民主同盟中央常委、のちスパイ容疑で獄死)张云川(*農工党?)らは北京和平会談のスタートを計画し、その「平和的解放」に大いに自分たちが役に立ったと思っていて、自分たちの運命が国民党時代より悲惨なものになるだろうとは全く思ってもいなかったのでした。

    彼らが自らの死までしらなかったのは、中共はは革命の前に早くも彼らを「革命対象」としていたことです。1947年10月27日に自分たちの「敬愛する周恩来先生」が毛沢東の修正加筆を受けて「蒋介石反動集団がみな打倒されたあと、我々の基本方針はすなわち自由主義ブルジョア階級に打撃を与え、その右派を孤立させねばならない」という文章を起草していたことです。(《中共中央文件选集》第16册,中央档案馆编,中共中央党校出版社1992年版,第573页)。つまり、「自由主義ブルジョアジー」の支援は必要としていたが、最初から彼らが役割を終えたら「渡った橋」は壊してしまうつもりでいたわけです。

    《「人間動物園」はどうして生まれたか?》

    歴代王朝はみなその建国にあたっては前王朝の経験を総括します。中共は当然、国民党がなぜ滅びたかということを忘れず、二つの大きな措置を講じました。

    その1;圧力集団を消滅させ、社会活動空間を圧縮する;

    中共の成功は普段に各種の社会グループを利用しました。左派系メディアと民主党派は国民党の頭痛のタネを与え続けましたから、共産党は民間集団(宗教団体や任侠団体もふくむ)、多党制、自由メディア、私立教育機関と企業をすべて圧力集団ととらえ、最終的には共産党の統治に挑戦してくる存在であり、ゆえに政治、経済、文化教育(イデオロギー)などの権力をすべて党の手に集めて、一切の組織的な力が存在する社会空間を消滅させてこそ、統治を堅固なものにすることを保証できるのだ、と考えました。

    その結果、中共の特徴を備えた統治機構ができあがり八大民主党派はすべて共産党が飼いならす手先になり、労働組合、青年団、婦人連盟、及び各種の大衆組織(今ならNGO)はすべて中共によって指導されメディアは全部、統制を受けることになりました。

    毛時代には私有企業を消滅させ、改革開放以来民営企業の存在は許されるようになりましたが、各種の利益の手かせ足かせで民営企業が政治活動に踏み込まないようにしています。20世紀の90年代中後期から「市場化メディア」というのも生まれましたがその母体は現地の中共の党の新聞ですし、インターネット経営の大企業も政府のコントロール下にあります。

    この三つの独占は相当有効で、今に至るまで国民は結社の自由、言論の自由、集会の自由という現代国家の市民の政治的権利を知らないありあsまで、政治的な圧力を政府にかけるグループなどましてや生まれるのは不可能です。

    第二には「階級闘争論」をつかって一部の社会メンバーを「反動階級」にしてしまい、政治的に洗脳したり、「積極分子』を養成して動物園の内部で「4本足の動物はいいが2本足はダメよ~」という歌を先頭になって歌わせています。(*ジョージ・オーウェルの「動物農場」のスローガン。これに続く「すべての動物は平等である。しかしある動物はもっと平等である」を思い出すですな。)

    中共の政治が始まる1949年以前の資産を有する地主、富農、工商業者、国民党政府の役人、警察や憲兵、特務などは鎮圧され殺されて一掃され、生き残ったものも「国民党の残党」とされ、「搾取階級」同然とされ、その家族や子女はすべて政治的賎民とされ激しい差別をうけ、軍人や秘密に関係する仕事をしている者とは結婚も許されませんでした。

    この政治的賎民の数は不定で、政治運動がおこるたびに右派」や「反革命」としてあらたに新メンバーが増加しました。人々は恐怖のなかに暮らし、政治賎民の逆の立場の「紅5類」と呼ばれた「革命的な家族」は人間動物園のうちの高級動物として定休動物の監視役になったのです。

    《戸籍制度とメンバーの移住の自由の制限》

    中共政権成立後、戸籍制度を通じて都市と農村の分離に成功し、社会メンバーをその出生地で固定し、年では戸籍所帯を通じて食料、布、油、肉・卵などの生活用品を配給するようになって、いかなる人も自分の戸籍所在地を離れるとこれらの生活の基本になる物資が手に入らなくなりました。大学に通うか軍隊に入るか、企業の従業員になるか以外では基本的に出生地を離れられません。

    あらゆる外出や旅行、親戚訪問にはすべて仕事先の『単位』から紹介状を出してもらわないとなりませんし、もし仕事がなければ戸籍所在地の居民委員会や農村の生産大隊からの紹介状がなければ旅館にも泊まれないのです。この制度は改革開放の市場経済体制のおかげで多少揺らいで人口流動は当たり前になっています。

    しかし胡錦濤の第2期末から中国ではまた都市管理が強化され、近年ではまたあらたに外来人口は居住登記が必要とされるようになりました。最近メデイアでよく話題になる「穗府36号文」(*広州市でよそ者は居住地にきたら3日以内に街道・村委員会に登録が義務、大家も同じ。)とはつまり人口流動の管理強化です。
    毛沢東は生涯、知識分子を目の敵にしました。これを彼が昔、北京大学教授に馬鹿にされたからだというような皮相な見方をする人もいますが、結局のところ、真の理由は知識のある人間は頭脳もあり、簡単には騙されないので毛の愚民統治の天敵だったからなのです。

    毛の知識分子を貶める名言を遡ると「延安文芸講話」にまで遡れます。その有名な言葉は「労働者農民が最も清潔であり、彼らの手足が黒かろうが足の裏に牛糞がついていようが、やはりブルジョアジーやプチブル知識人より綺麗なのだ」があります。毛はなんども「本を読めば読むほど馬鹿になる」といい、さらに「知識が増えれば増えるほど反動になる」というのが毛の文革教育政策のスローガンのひとつになりました。

    政権を取るまでは知識人たちを「争って味方として団結すべき対象」と表面的には重視するようなふりをしていました。しかし北京で政権の帝王の座に着いてからは毛沢東は知識人を軽視、蔑視、敵視するようになり、知識人は教育し、改造されるべき対象となりました。その教育改造役は文盲か半分文盲の労働者・農民で、反右派闘争と文革の時代になって教育改造はもうきっぱりと批判、吊るし上げ闘争となりました。

    毛の時代は国営企業の労働者の暮らしは安定しており、福利厚生も良好だったうえ、政治的には「指導階級」と呼ばれており、農村の貧下層中農と共に、毛沢東時代の統治の基礎を構成していました。後者の経済地位は低下しましたが、しかし、中共は「貧下層中農は革命の主力軍だ」という言葉で、彼らに労働者階級同様に政治的優越感をあたえ、反右派闘争だろうと文革だろうと、毎回、大々的に政治的態度を表明させるときにはいつもこの「労働者と農民」を台上にあがらせ、知識人を徹底的に批判させ、その知識を軽視させるようにしむけ知識人を軽蔑することによって知性を嫌うように仕向けました。

    鄧小平の改革開放後に知識人の地位は以前より高められましたが、しかし複雑な政治的要因が原因となって90年代以後、全社会が尊重するのは「知識」ではなく「卒業証書」に変わりました。この十数年では中共は五毛(*政府ご用の提灯持ちツィットをする人間たち。最近バージョンアップの傾向にある)に世論をコントロールさせ、反知性の傾向がふたたび捲土重来しています。

    原稿の字数制限もあるので、本文は中国がいかにして「人間動物園」になってきたのかを大雑把に検討してみました。

    私が指摘しておきたいのは毛沢東は中共が築いた一党専制という基礎と西側の政治文明の考え方を排斥するための、型にはまった考え方は鄧小平時代にも正されず、習近平執政のこの二年間のやったことのすべては、中共政治制度はすでに構造的にロックオンされており、このような社会構造からはいかなる反対勢力も極めて生まれにくい状況だ、ということの表れなのです。(終)

    拙訳ご勘弁。
    原文は「动物庄园是如何筑成的」2014年11月28日 VOA。http://www.voachinese.com/content/he-qinglian-animal-farm-20141126/2536409.html

    何清漣氏のこれまでの論考の拙訳は;http://heqinglian.net/japanese/

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