• 周永康事件の「その他の事件にかかわった疑い」って何?

    by  • December 16, 2014 • 日文文章 • 0 Comments

    何清漣

    2014年12月12日

    全文日本語概訳/Minya_J Takeuchi Jun

    http://twishort.com/1jihc

    12月10日付の「人民日報」政の「周永康の所業は反逆者並み」という記事は同6日付の新華社のプレスリリースが巻き起こした波乱を再びヒートアップさせました。新華社の記事は主としてどんな「国家秘密」を漏らしたのかという憶測に憶測が集中したのですが、「調査の中で周永康が他の犯罪にも関わっていたことがわかった」 「司法機関が法に基づいて処理している」というくだりにまだまだ隠された重大秘密がある可能性が洩れ落ちていました。各種のデータを当たってみると、周永康事件のその他の犯罪、とは以下のようないくつかの項目がありえるとわかります。

    《2012年3月に何が起こったのか?》

    2012年3月といえば、薄熙来や周永康ら数人の中共最高層の運命の分かれ道でした。事件発生のタイムテーブルを書き出してみるだけで脈絡がはっきりみえます。

    3月15日は人民代表大会が終わって薄熙来が重慶市書記を免職となり、この数年来の権力闘争が明るみにでるとともに、その後2年間にわたる「大虎退治」の幕が開いたときです。8か月後の2012年11月に周永康は中央政治局委員と中央政法委員会書記の職を退任。この八ヶ月の間に周永康は座して死を待つに等しいままに過ごしていたわけではありません。

    3月18日未明、薄熙来が解職させられて3日後、胡錦濤の腹心の令計劃の息子の令谷が黒いフェラーリで交通事故を起こしました。場所は北京の雪で滑りやすくなっていた環状線路上です。事故発生後、中国のゴシップメディアは数時間のうちに運転していたのは中国の高層指導者の息子だと騒ぎ始め、どうしてこんなすごい車を運転していたのだと問題にしはじめ、さらに深刻だったのは車の中には全裸か半裸の人間がいたということでした。救急隊員と記者は上からの命令で沈黙させられ、この事件に関連するネットの書き込みは抹消され、生き残った当事者の名前は伏せられ、北京大学の同級生たちは王子雲(令谷の北京大学での仮名)は外国にいったのだ、と告げられました。(神秘の交通事故ーウォール街ジャーナル2104/10/22)

    もう一つの事件は2012年の”3.19事変”と言われるものです。3月19日に北京で大事件がおき、微簿ネット上には銃声が聞こえたという噂が流れました。のちにそれは周永康がクーデターを引き起こそうとしたと伝わりました。私はこれは疑わしいと思っています。というのは周永康は中央警衛局に命令する立場ではありませんでしたし、かつての汪東興(*毛沢東のガードマンだった)が「4人組」を逮捕したような宮廷クーデターは不可能だからです。ましてや周永康ははクーデター後の大局をどうこうすることはできませんでしたし2013年12月13日の亜州周刊は

    「周永康堕落の内情、習近平にやられて肝を潰す」の記事でいわゆる3.19政変は実は周永康が武装警察をつかって徐明(大連の実業家で薄熙来と親しかったと言われる)の身柄を奪おうとした、と。薄熙来が免職されてのち、温家宝は自ら手紙を書いて中央規律委書記の馬馼に早急に徐明の身柄を確保するように命じました。馬は腐敗調査の名目で公安系統に徐明の身柄を引き渡すように申し入れましたが、公安側は周永康にお伺いを立てダメだといわれてこれを拒絶しました。そこで誰かが周永康の息子の周滨の商売について調査させようとしたので周永康はよからぬ事態が身に迫っているのを悟って、3月19日に武装警察をつかって徐明の身柄を移すと同時に公安の警備を固めさせました。

    中央規律委側もすぐさま警備人員を動員し除明の身柄確保の機を伺うにいたり、この事態に仰天した高層指導者が不測の事態に備えるために中共中央から中央警備局に防衛強化を命じました。各ルートの警備人員がよくわからないままにそれそれ押っ取り刀で大騒ぎした一夜によって首都に騒動がおき、流言が四方に飛んだのでした。

    この三つの大事件はいずれも3月中旬の15日から19日にかけての5日以内に起きています。大変な”偶然”といえましょう。これに周永康の件を「司法機関に移す」と「そのたの犯罪の容疑」が含まれている可能性は極めて高いでしょう。

    《周・薄熙・令の三角関係はあったのか?》

    海外のメディアのこの件に関する憶測は大変多く、ある説では周永康が令計劃が息子の事故を隠蔽するのを助けて仲間にしたとか、別の説ではこの事故は周によって仕組まれたもので、目的は令を屈服させるためだったとか、真相はいまだに藪の中です。ただこの事故によって令計劃のキャリアに大きな暗雲が立ち込めたのは事実です。

    しかし周、薄、令の三角同盟という話は日付の上で合いません。この事故が起きた時にはすでに薄熙来は自由を失って三日目ですから。しかし薄熙来と周の関係となると薄事件の法廷での供述で出ています。NYタイムズはかつて入手した法廷の未公開資料に基づいて「薄熙来は中央の命令で王立軍を処理した」という記事を発表しました。(2012/8/31)

    薄熙来は未公開の証言の中で、王立軍事件にかんしては自分は中央法政委員会の「6条の指示」をうけて、そのひとつは「人道か健康を理由に」王立軍の行方不明を説明するように、とありその時期ですと周永康が中共政治局常務委員兼中央政法委書記でしたから。このNYタイムズの報道はもうひとう重要な経緯を明らかにしています。それは王立軍が北京に送られてのち令計劃が責任者として中央の秘密命令で首都のある部隊の病院に王に対する精神鑑定を行うようにと命令し、その病院は王が断続的な精神疾患を患っていると確認したことです

    もしこのニュースが事実なら王立軍の謀殺に関する証言やかれの(薄熙来に対する)指弾は疑問を持たれることになり薄熙来にとって有利になる可能性がありました。しかし、ずっと薄熙来の盟友だとおもわれていた劉源将軍は薄熙来が王の検査結果を漏らしてくれという要求を断ったといい、その理由を自分は薄熙来はもう終わりだとしっていたからだ、といいました。

    同時に、令計劃もこの検査結果を対外に公表しませんでした。ということは3.18の交通事故以前に令と周の同盟はまだできていなかったということを意味しますから、周薄谷三角連合という言い方は根拠がありません。

    《周永康はなぜ「平穏な引退」をしなかったのか?》

    薄熙来が身柄を抑えられてのち、温家宝が路線闘争という説を唱えてより広い攻撃をおこないたがったのを除いては、胡錦濤も習近平もともにこれを反腐敗闘争の枠内で収めたがりました。NYタイムズ、ブルムバーグ社、国際調査記者連盟が相次いで紅色貴族階級の財産の話を掲載したのはすべて2012年6月以後でした。
    つまり周永康は本来、もうちょっと大人しくしていれば、あるいは低姿勢だったならその末路がこんな悲惨なことにならなかったでしょう。だとするならひとつ疑問が生まれます。周がこのような行動にでたのは自分の意思でやったのか、それとも誰かに命じられてやったのか、ということです。もし自分からすすんでやったとしたならば、周永康は安全部門だけが握っている情報をたいしてたくさん得ていたとは思えません。なぜなら周の国家安全系統に対する支配力は限定的なものだったからです。北京市の国安局の梁克は周に安全局がスパイ網や電話盗聴、北京の密告者の情報を『違法に』渡していた、とされていますが、NYタイムズに対しての前安全局の高官の証言では「許されたやり方でなく違法におこなった」とされます。

    ということは周は安全部に対して直接の上下の統括関係は持っていなかった、ということになります。すくなくとも周は安全局の調べたデータを合法的にみる権力がなかったわけです。この意味するところは梁克があえて危険を冒して周にデータを渡したのは、別に命令の源があったということ、つまり、薄熙来逮捕後の周永康の動きは誰かに言われてやった動き、ということです。(*安全部はさらに引退した大物の曽慶紅系で抑えられている)

    周が支配層家庭の財産の事を漏らしたとしても、実は中国の法律には別にそれが「国家機密だ」という規定はありません。ただ慣例で国家機密罪については公開審理されませんから、判決がでたところで外部ではその判決書から一体どんな国家機密を漏らしたというのか、ということはわかりません。ただ「党と国家の利益を売り渡し、党のイメージを深く傷つけその結果は深刻である」ということがわかるだけです。

    令計劃の運命が明らかになるのも時間の問題です。令一家の兄弟姉妹は計5人で計画、政策、方針、完成、路線という名前ですが政策(山西省政治協商会議元副主席)はすでに取り調べを受けています。「令のなしとげた財産の物語」が最近、財新ネットに掲載されましたが、国内外はいま静かに「もう片方の靴が地面に落ちる」(*一族の他のメンバーの蓄財の醜聞に続いて本人の立場も地に落ちる)のを見守っています。

    以上述べたようなことと、巷で言われる「周は妻を謀殺した」話がすべて「その他の事件の手がかり」となりえます。いかにこうした材料を使うかは「検察の重大な政治的任務」というわけです。周一家のお話は何千年も中国で上演されてきた「一人が道を得れば一家全員が天に昇る」と、その末路は「巣がひっくりかえって無事な卵はない」という歴代王朝の奸臣権臣と同じ運命の轍を踏んだわけですね。

    最後にひとつお話を。2013年薄事件の開廷前に海外のメディアはいろいろと死刑かどうかを推測するゲームに興じました。新華ネットは7月22日に「陳雲は江青の死刑に反対し「党内闘争は政敵を殺すという禁断の扉を開けては後世のためにならない」と極めて思わせぶりな記事を掲載しました。これに対し、周事件が検察に任されたと報じられた途端に人民日報は「周永康の仕業は反逆者と選ぶところがない」というのを発表し、その罪を顾顺章((1903年-1935年、中共初期指導者で国民党に投降)や他の数人の 死刑判決を受けた党内の中高級幹部と比べる内容で、周が死刑になる可能性、もっとも楽観的に見ても死刑の猶予か無期の間であることを暗示しました。

    しかし周事件がかかわっている数々の糸口にそれでピリオドを打てるかどうかというのは、習近平の中共高層に対する政治的判断と自らの地位に対する自信のほど如何によるでしょう。(終)

    節約御免。
    原文は「周永康案的“其他犯罪线索”是什么?」http://www.voachinese.com/content/zhouyongkang-20141210/2554486.html

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