• バンクーバー会議のこと

    by  • June 22, 2015 • 日文文章 • 0 Comments

    何清漣

    2015年5月14日

    全文日本語概訳/Minya_J Takeuchi Jun

    http://twishort.com/LNnic

    5月2日から3日、バンクーバーでの講演から数日経ちましたが、一部の人々がつまらないことを言っており、その陰険さに気持ちの悪い思いをさせられましたので、大多数のまともな人々は私の「 ★新常態ー中国が直面する6つのボトルネック(1・2)★」(2015年5月9日/http://twishort.com/UHlic)をお読みいただけばおわかりいただけるとおもいますが。この会議の経緯を書いておきます。

    《招待を受けることにしたわけ》

    豪州のシドニー科技大学の政治学教授・冯崇义さんがこうした会議を呼びかけたのはこれまでに5回も開かれており、特にこれといった騒ぎにもなりませんでした。今回、いろいろ注目を浴びたのは私が参加したからです。ですから、私はこの間のいきさつをはっきりさせておく必要があります。そして最後に、この会に対する悪意に満ちた憶測に対して、自分の考えを述べておきます。

    始めに会議への招請を受けたときたしかにちょっと躊躇しました。でも参加予定者の名簿をみて学術討論に参加することにしました。そこには于建嵘、贺卫方、孙立平各氏の名前がありましたが、贺卫方は妨害にあって出席できず他のお二方も他の用事で出席できませんでした。この方々は一貫して自由主義の理念を堅持してこられた知識人でみなさんとても知識の豊富な方々です。旧知の友人もいますし、まったくお会いしたことのない方もいました。

    こうした方々の参加する会議なら学術レベルの中国の未来を語れる会議になるだろうとおもいました。かつていろいろな招請をうけたのですが、大部分は学術的なものではなかったので私は滅多に参加しません。講演会を主催したのは海外華文メディアの「世界華人周刊」で、この種のメディアにはVOA、BBC、RFA、DWなど中国語メディアがありますが、これは華人によるもので、最近大部分の華文メディアはみな中共の「対外宣伝」部隊になってしまい私に関するニュースは一切載せません。

    私は中国内で言論封殺されたのはもちろんですが、私が米国にきてからも、シカゴからニューヨークまで中国領事館は私に対する「深い関心」を放棄してくれません。以前、シカゴ大学で客員学者として講演したときは領事館が派遣した人たちが順番に「中国はこんなに大成功しているのに、小さなことをあげつらうのはどうしてか?」とか「家の中の醜聞は世間にしらせないのがルールなのにあんたはどうして国内問題を世界にばらすのか?」とか「あんたの気持ちはわかるが、小さなことを大げさにいうのは許せない」などという幼稚な質問をして撹乱しようとしました。当然、彼らはこっぴどく論破されてしまいました。

    そこでニューヨークの領事館ではなにがなんでも私に講演させまいとして、そうした機会があると直接学校側に圧力をかけました。ペンシルバニア大学で二度、講演が邪魔されたことは報道されています。二回目のときは同校の中国留学生学生会の会長がその職を免じられました。(*ジジ注;中国留学生は大使館の”統治”下にある)「世界日報」などのメディア(*同;中共系)は私が出席した会議でも決して名前は載せないようにしています。

    わたしの息子が8年生のときに州代表として全米Mathcount(*数学クイズのようなもの?)で第3位になったことがありました。世界日報の記者が英文記事をよんですぐ学校にわたしの電話番号をきいてかけてきまして今回のMathcountで4位までの参加者のうち3人が中国系で、中国人の誇りだから子供の教育方針に関してインタビューさせてほしいといいました。わたしは笑って、「わたしが誰だか知ったら記事をのせようとはしないはず。だから、おたがい無駄なことはやめましょう」と言いました。その女性記者はちょっと沈黙してから編集長にきいてみます、といってそれっきり音沙汰がありません。

    中国国務院新聞弁公室の副主任の銭小芋は「ドイツの声」にわたしのコラムをやめさせましたし、のちには张丹红事件(「ドイツの声」の女性記者に圧力をかけて大きな反響となった)を引き起こしました。これは中共が中文メディアに対しての浸透していく一つの例です。わたしの夫の程晓农が長年主催してきた「当代中国研究」はかつては中国の内外の学者のよき討論の場所でしたし、わたしも自分が重要だと思う学術研究の成果を発表しており、中国国内の大学にも比較的大きな影響力を持っていて、大学の教授が学生に読むのを勧めたりしていましたが、2009年、北京の命令をうけた人間につぶされました。

    こうしたことで、わたしは従来国内の重要な学者と交流する場がなかったので、今回の会議はこうしたチャンスでもあり、主催者が発言内容を規制せず、自分が言いたいことをいえるのだったら参加してもいいかとおもいました。これが参加にいたるまでの過程です。

    《バンクーバー会議の内外あれこれ》

    出発直前にドイツの徐沛さんから、バンクーバーの民主運動家・李一平の「中共対外宣伝の罠ー招待者に対してわなを仕掛けた会議や宴会に続々知識人」という文章が転送されてきましたが、わたしは李一平の参加予定の学者たちに対する評価には極めて不賛成でした。例えば呉国光さんは長年の知り合いですが、30歳にならないうちに趙紫陽のブレーンとなって、優秀な人々の中でもとりわけ目立った人でした。それ自体が彼の優秀さを証明していますが、香港中文大学時代にわたしは何度もお会いして、その憂国の気持ちのほかにもじつに独自の見解を持っていることを知っていました。例えば、だいぶ前に彼が書いた「憲政中国」は中国政治体制の改革の突破口は地方自治だと指摘しています。

    会議の初日は参加者が忌憚なく現代の中国に対する自分の考えを話せるように非公開で開かれました。出席したのは3人の憲政学者、3人の経済学者、さらに政治学者と教育学者で各自が20分の持ち時間で話したあと、たの人が質問したり、賛同したり疑問を語ったり型にはまらず大変熱い討議がおこなわれました。

    ひとことでいうとこれは滅多にないブレーンストーミングでした。みな深く中国の積年の弊を知っており、さらに時間も限られていることを認識し、しかし中国が解決への道を見出すことを望んでいるのでした。二日目は公開講演で基本的には初日のクローズドセッションとテーマは似ており、わたしは経済に力点を置いたお話をしましたが、原稿は英文サイトに「新常態ー中国経済の6大隘路」として掲載してあります。http://twishort.com/UHlic

    昼食時に「星島日報」社傘下の「都市報」の編集長・張暁軍さんがわたしの中共対外宣伝に関する何編かの原稿を読んだといいました。華文メディアの編集長がこんなことをいうのは珍しいので(*多くの華文メディアは中共支配下にある)どう思ったかと尋ねると「大変賛成です。ただ内部状況はさらに複雑です」と答えた。食事のあと、彼は会場までわたしを送りたいというので、会議主催者にその旨を告げて彼の車に乗ったら、「ある場所に連れて行きたい」という。変におもったがいいですよ、でも時間までに講演会場にいかなければ、といってあるホテルにいったら、そこには李一平、劉沙沙、楊匡(*いずれも民主運動家)いました。劉女史はツィッター上で「お会い」したことが”半分知人”です。で、李一平が自分たちがきた目的は会議に参加要請を受けていないのでチケットがないのだが、わたしにバンクーバー異議人士たちの集まりに参加させてくれないかというものでした。

    わたしは日程は予定がびっしりでその塩梅をみて時間を探してみるし、彼らが参加するのを歓迎するといいました。李一平は会議主催者は自分たちがいくと「会議をぶち壊す」のが心配なんだといいましたので「ぶち壊す」のでなく「話し合おう」というのならみんなもっと容易に交流できるし、第一、あなたは会議を聞いてもいないのにどうして「ぶち壊そう」というの?といいましたら、李も張もちょっと考えてから同意しました。

    午後には彼ら20人余りが会にあらわれ、当面の政治経済問題に鋭い質問をし、講師たちはそれにひとつづつ答えましたが、理念上では違いはありませんでした。会が終わってから、わたし、呉国光、暁農、張博樹ら数人が彼らと討論しましたが、時間が一時間程度しかなかったので、彼らは一人3分に発言時間を制限しました。みな観点の上での対立はなく、まあ記者会見みたいなものでした。

    李一平の文章の中の用語に対して私たちは批判し、お互いに尊重しあうべきでしょう、といいました。中国社会は進歩しており、行動者も必要だし、思想の人間も必要なのだ、と。主催者が彼らを現地の華僑たちのパーティに招待したので十数人が参加しました。李一平の文章の発表のあと、少数の人々が会議で「何かがおこる」かと期待したようですが、そんなことは何もおきませんでした。会議には異議(*中共に反対)作家の黄河辺もパーティに参加しあとで「バンクーバー中華系議員は『国際フォーラム』に参加しなかったが、なにを恐れているのか?」という一文を書きました。こうした議員たちは政治に関係することをおそれて参加しなかったのですがそれに対して、今後はこうした機会をのがさず、別に”反革命の洗脳”をおそれる必要はないよ、というものでした。

    《会議の余波おさまらず。「反逆者」とは笑わせないで》

    会議ではなにもおきず、海外の年上の世代から見ればこのような会議は当たり前のことで別に注意を引くようなものではないのですが、中国国内の反応は奇怪千万なものでした。なんでわたしが呼ばれたのか、これはどういう方向なのか、とかツィッターでは大騒ぎで、项小凯はこんな推論を発表しました。

    ;「世界華人周刊は海外の統一戦線の刊行物だが、その編集長の楊常均は、すでにカミングアウトした共産党の人間であり、だからこの2015年のバンクーバー国際フォーラムなるものは、内外のいわゆる自由主義学者、茅于轼、何清涟、吴国光、张千帆、冯崇义などがそのお先棒を担ぐために、招かれたらすぐ尻尾を振ってやってくるのだ。中共はこうした連中を必要としておりこの連中の影響効果を必要として買ったのである」とか、そのほかにもわたしが「民族の反逆者」だとか勝手に悪罵をたくさん浴びせて周辺で相手にされないものたちの失望感を表しました。

    まともな学術会議で中国の前途に責任を感じる学者は国内では自由に討論する場ありません。バンクーバーという場所を借りて、一度会議を開いただけで了見の狭い連中がこれは「政府が非合法組織を懐柔慰撫するための会議である」ときめつけるのです。もし彼らがいうとおりなら、彼らが自分たちの政権を実現する夢ははるか彼方だろう、としかいいようがありません。

    自分たちがこうした「慰撫懐柔の罠にかけるための会議」のことを大変、気にしているということを暴露したことをのぞけば、政府とどう付き合うかについて全くわかっていないということがはっきりしてしまいました。彼らがご存知ないのは、こうした各種の会議は90年代中後期にはたくさん開かれており、江沢民時代にも多くあって、国務院、中央規律委などがみなやってましたし、わたしもなんども呼ばれたことがあります。 それに参加したからといって、共産党が「こいつは我が方だ」などと思うこともありませんでしたし、参加した人々も参加したからといって自分が「慰撫懐柔された」などとおもうこともありませんでした。

    今回のバンクーバー会議の参加者は茅さん以外は、大部分が50年代生まれで吴国光、程晓农、吴伟の3人はみな「趙紫陽派」として、1980年代には中南海に始終出入りしていました。茅于轼さんは内外にいっぱい発言の機会をお持ちですし信力建は成功した民間教育家ですし、張千帆、張博と私はみな内政内の批判者でした。

    つまり私たちはほとんど全てがかつての「百戦錬磨」でずっと体制を批判してきており、ましてや一度の会議に招かれただけでたちまち懐柔されるなどいうことはありません。今回の会議に悪意をもって憶測を書き散らす人々、例えば呉国光の「”自由派・バンクーバ・スキャンダルに関する三つの問題」では二種類の連中が暴露されています。

    一つは他人を激しく貶めることで自分の地位を作ろうという人たち。「城を攻め落としたら自分がボスになれる」ということですか。二番目は失敗者。呉国光の文中でいう「中国モデルによって二極分解しこの結構な金も権力もいただける世の中の船に乗り損ねた多くの人々ーは転じて『民主』や『自由』を叫びはじめる」というケース。
    私はもっとはっきりいいます。こうした人々は本当の民主や自由のために戦う人々ではなく彼らはただ民主や自由を”飯の種”にしているだけで、殺人放火をしながら政府から梁山泊の賊たちのように「慰撫懐柔」されたいのです。こうした度を過ぎた渇望から嫉妬心のあまり、自らの器で他人を忖度し项小凯のようなものの言い方になるのです。

    项小凯にちょっとききたいのですが、習近平が世論を弾圧しているのを批判しながら、いまは逆に政府が私たちを買収して「集団論議のブラットフォーム」としているというのですね?私たち数人はバンクーバーで数日、毎日体制の欠点や経済の行く末を分析していたのですが、あなたは結局のところ、転向して習近平が「弾圧」から「お金で批判を買収する」度量をみせたことを賛美するのか、それとも、ご自分が「そのブラットフォーム」に呼ばれなかったから、嫉妬してるのでしょうか?(終)

    拙訳御免。
    何清漣氏の原文は;「温哥华会议之外风波恶
    http://www.chinainperspective.com/ArtShow.aspx?AID=43977

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