• 王岐山ーF・フクヤマ会見/「歴史の終焉」は書き直すべきでしょう

    by  • June 22, 2015 • 日文文章 • 0 Comments

    何清漣

    2015年5月18日

    全文日本語概訳/Minya_J Takeuchi Jun

    http://twishort.com/jGoic
    最近、王岐山(習近平の反腐敗・中央規律委の実際の指揮官/経済官僚、元北京市長)が「歴史の終焉」の著者、フランシスフクヤマと会見しました。何のためにということは様々な意見がでています。じっくり読んでみましたが、ふたつの側面からそこに含まれる意味は注目に価するとおもいました。

    ひとつは王がはっきりと中共政府は西側の予想するような民主主義の方向には進まないと表明したことです。

    ふたつ目は、フクヤマはひょっとするとこのプロ同士の対談から、自己の「歴史の終焉」にふたたび修正を重ねるかもしれないな、ということです。

    《王岐山はきっぱり何を伝えたのか?》

    1;中国的特色の「政治」の理念。王は「政治は中国の解釈では文字通り『大衆を管理すること』であるということを理解すべきだ。

    この解釈は西側の理解と全く違います。西側の政治学では政治とは団体または個人が各自の利益のために特定の関係を結び、各種社会団体が集団的な政策決定を行う過程です。「特定の関係」は必ず選挙を経なければなりません。政策の集団決定には民選の政府の他に、まだ民意を代表する各種機関が監督します。王は政府の権力が何によって生まれたのか、という根本の問題はまったく論じていません。

    2;一党独裁(専制)は変えることはできない。共産党は法の上にあるというのが大原則。

    フクヤマはやっと会話の中で自分の研究してきた法治についての考えを喋れる機会をみつけてこういいました。「肝心なことはrule of law(法治、法的统治)だ。私の「政治の起源」のなかで分析した法律の源は宗教です。各教派の間の衝突が「一定の相互監督」という働きを生み出し、最終的には神を真理を弁別する標準とし、また統治支配する力としました。ですから「法律」(神)の前で人は平等であり、だから宗教精神からきた法律というものに統治者も含まれるわけです。司法が政府から独立するということもこうしてできました。中国の憲法は果たして法治となって、司法の独立になっていますか?と。

    これに対して王は「我々の信念は実践のなかから得られたものでありこれからもそうだ」と答えました。フクヤマの出した中国が法治と司法独立についての問題には、王は実行できないと断言し「不可能だ。司法は必ず党の指導の下でおこなわれねばならず、それが中国的特色である。それに憲法は文章であって、つまりは人間の書いたものだ。大統領、国会以外に憲法があり憲法の神聖さはあるがしかし神ではなく、人民の法である」と述べました。

    この「人民の法」という言葉は字面の上では問題がありません。問題は人民が民主国家における政治的な自主的権利を持った人民をさすのか、中国のように完全に政治的自主権がない人民をさすのか、です。米国では憲法は「人民の人民による、人民のための」です。しかし中国では「中共は中国各民族人民の指導をし、代表する」と規定されています。中共が「憲法」を制定したとき中共はみずからが立法、司法、行政の三権を独占する「法的権利」を規定したのです。

    三番目に、中国は西側から学ばない、とはっきり言いました。王は「我らは孔孟の道を研究する必要があるのであってフクヤマに対して「あなたのいう国家、法治、責任の三つの要素は中国の歴史にすべてDNAとして存在する。中国の文化のなかにこのDNAはあるのだ」と。この意味は中国ははじめから政治的知恵はもう十分にあり、西側から学ぶ必要はない、ということです。この点では王は習近平と共通しており、王岐山・フクヤマとの会見後、アジア太平洋関係の責任者の前副米国務長官の中国大使のウィンストン・ロッドは習近平の強烈な反西欧的な色彩の言行が米中関係の発展を妨げており、目下のところ米中間には深刻に相互信頼が欠けていると表明しました。

    《フクヤマは「歴史の終焉」を書き直すべき》

    「歴史の終焉」(The End of History and the Last Man)はフクヤマが1989年の論文に書き加えて1992年に本になったものです。そのなかでフクヤマは希望に満ちて人類のイデオロギーは最終地点に到達し、自由と民主はすでに最終的な勝利を収め、西側の自由民主政府は人類政府の最終形式であると述べました。未来の人間はもはや思想闘争に力をそそぐことなく、人間社会の経済と技術の問題の解決に努力できる、と。世界には多少の衝突や矛盾はあるが大きな戦争や激烈な衝突は存在しない、と。

    時あたかもソ連が崩壊したときだったのでこの観点はまるまる当時の人々に大きな影響を与えました。しかし、フクヤマの師匠であるハッティントンはフクヤマの見方は楽観に過ぎるとして自分の「文明と世界秩序の再建」のなかで、「一つの世界が和諧するという楽観は不可能なことであり、共産主義制度が崩壊しても世界は依然として和諧できない存在であり、共産主義が消滅したこの世界で最も普遍的かつ危険な衝突は階級間や豊かな人と貧しい人の間のものではなく、異なった文化の実体間の衝突であり、この新しい世界の政治は民族的な政治であり、文明の衝突である」と書きました。

    冷戦終結後の歴史はみたところハッティントンの観点を証明しています。そして文明の衝突は俄然、主流となりました。特にイスラム過激派勢力の急速な興隆後、それは西側世界の最大の頭痛のタネになっています。中国の外では一世紀以上にわたって人類の歴史に登場していた階級政治的な幽霊はみたところ消滅したようにみえます。

    しかし中国ではウィグル人、チベット人との民族衝突以外に階級の衝突は避けて通ることのできない問題です。最近起きた徐純合事件(82歳の母親と、精神病の妻、3人の子の父親ののんだくれの徐という男が駅で警官になぐりかかり射殺された、とか。)の後、世論は警察の暴力、射殺したことと、また当局がビデオを削除改ざんして真相を隠そうとしたことに集中していますが、しかし、最後にはやはり徐の長期失業が原因で、家庭に責任を負わず、どうしようもないあのような境遇に陥ったことにおよび、孟晖が微簿で徐を「ゴミのような輩」と書いたことで極めて大きな反発を呼びました。五岳散人は賢明にもこのテーマの持つの危険さを理解し、このような論議の方向は三つの落とし穴、すなわち多元的な価値観の消失、権利平等の消失、最後に日増しに厳しくなる判断基準によって最終的には(貢献度によって人間を価値評価する)ファシストの世界になってしまうということを指摘しています。

    《中国経済は”鉄の時代”に》

    米国の「フォーリン・アフェアーズ」は最近「もし今後10年、中共当局が重大な改革を実行しなければ生き抜けない、とおもうか?」という質問を32人の中国問題専門家や学者(華人、華人系を含む)に問いました。質問は「重大改革」が政治体制なのか、中共が自分でいうところの入内改革なのか判明せずいささか曖昧ですが、回答者はそれぞれ自分が思うところで理解して投票した結果 「大いに同意」が4人、「同意」が3人、中立が6人、「不同意」が16人、「強く不同意」が3人でした。習近平と王岐山が何度も「絶対に西側のやり方をとらない」という言葉に鑑みて私はさらにあと幾つかの問題に思い至りました。

    ❶前途が崩壊でなくても、中共は改革が危機を解消できるとは考えていない。王岐山はかつておおいにトックビルの「旧制度と大革命」を推奨していました。でもやがて判明したのは実は彼の惚れ込んだのは”トックビルの定理”の「悪い政権にとって最も危険なのは最も邪悪なときではなく、それを改革しようとするときだ」というところでした。

    中共の現在の危機感だと、おそらく政治体制改革を行うことこそ危険そのものである、と認識しています。もし改革を行わなくても選択肢はふたつで、ひとつは中共が反抗にであい自ら政権を”大政奉還”する道で、歴史上共産党が自分から政権を差し出したのは二つの状況のもとでだけです。それはひとつは鎮圧未遂型。東ドイツ、ルーマニア、ソ連のような。二つ目は自らすすんで協力したポーランド、チェコ、ハンガリー型です。そして第二は革命を通じて政権を転覆させることですが、これには反対派が十分な力量を蓄積していなければなりません。

    ❷たとえ中共統治が継続しようとしまいと、経済がもたらした「良き日々」は終わりました。胡温時代の「黄金の10年」はすでに終わりを告げ数年間もがいた挙句、ついに「鉄の時代」に突入しました。中共統治が続こうが、将来民主政府ができようが、どにみち経済を盛んにして、何おくもの失業人口に仕事を与え、2、3億人もの老齢人口を養い、資源生態環境を改善しなければなりません。それには莫大な金が必要ですが、中国国内の在府は流出(資本逃避)し、中共政治の時期には儲かれば流入、損とみれば逃避と流入出を繰り返しましたが、中共政権がもし終わりを告げても中国はさらに政権交代機の不可避的な動揺によってさびれる時期を迎えますから、こうした資本が短期内に流入するようなことはありますまい。

    ❸中共が1949年に「人民を解放」し、1978年以後、「生産力を解放し、先に豊かになった者があとのものを豊かにする」にしてもどちらも食うや食わずの貧困ライン以下の人口が6割以上を占めるという底辺人口の多すぎる膨大な階層構造を変えることはできませんでした。ですから、毛時代から今も実質的には続いている中国における「人の頭をぶった切る」(*敵とみなした人間に容赦ない弾圧を加える)ような強権政治の中で、徐純合の事件によって引き起こされた運命共同感によってわきあがった世論の力というのはすでになかなか”見もの”でした。もし幸いにして中国が民主化されるようなことになったならば、この膨大な階層が今度は「頭をぶった切る」のではなく、「頭数」による政治におけるエネルギーの中心をしめるでしょう。

    中国には一部の人々があこがれる米国型の民主主義はやってこないでしょう。米国型民主主義の粗悪品版であるベネズエラやブラジル型の民主主義が中国の未来の民主の姉妹編となることでしょう。ですから、みなさん民主主義への期待値を修正したほうがひょっとすると比較的現実的かもしれません。(終)

    拙訳御免。
    何清漣氏の原文は;“王福会”效应:《历史的终结》应重写 http://www.voachinese.com/content/he-qinglian-blog-wang-qishan-fukuyama-end-of-history-last-man/2775486.html
    何清漣氏のこれまでの論考日本語訳は;http://heqinglian.net/japanese/

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