• 中共歴代”大番頭”の3傑物

    by  • September 5, 2015 • 日文文章 • 0 Comments

    何清漣

    2015年9月1日

    全文日本語概訳/Minya_J Takeuchi Jun

    http://twishort.com/Y8Vic

    中共が政権についてから、中国共産党中央委員会事務局長は楊尚昆(*1907年- 1998年、中国8大元老の一。文革で失脚、のち復活)が16年の長きにわたって1965年11月、「盗聴事件」 で毛沢東に忠誠心を疑われて職を解かれるまで務めました。楊尚昆の後、中共には10人の事務局長がおり、この職で迫力ある存在として楊尚昆に次ぐ任期をつとめたのは汪東興(13年)ただひとりです。胡启立、乔石、王兆国ら三人は任期も1〜2年間で、王刚は影のような人物で外からはその軌跡は伺えません。曽慶紅は中国の政局に与えた影響は極めて大きく、国家安全部門を社会政治生活に持ち込んだキーマンですが、彼の物語は未だに終わっておらず、その行状はそれだけでも伝記となるような存在です。曽慶紅以外には中国共産党中央委員会事務局長をつとめた三人の人物が特別に言及されるに価するでしょう。「最も〜」という言い方でいえば「肝っ玉の最も太かった汪東興、運が一番良かった温家宝、不運の最たる令計劃」です。ま、大雑把に言えばこんなところでしょうか。ご意見があればどなたかまた別のをお書きください。

    ★肝っ玉の一番大きかった汪東興は、肝心な時に本領発揮。

    汪東興の一生の重要性と神秘性は、ひとつは「毛沢東に一番近かった」、もうひとつは「江青を捕まえた」の二言で言い表せます。前者は彼がクーデターを成功させた政治的なリソース、後者は彼が歴史に名を残した所以です。

    汪東興の一生の功績はその「首謀者としての功績」にあります。多くの論者に「宦官」などといわれるのですが、この「宦官」は実際大変なことなのでした。よく「君主に仕えるのは虎に仕えると同じ」といいますが、汪東興は毛沢東に仕えたのですから、まさに最も仕える相手としては難しい「虎」であり、毛の秘書だった陈伯达、田家英らの末路は悲惨でした。(*陳伯達;1970年8月 – 9月の廬山会議(第9期二中全会)で失脚した。文革終了後の1981年1月、懲役18年の判決、1989年に釈放された直後に病没。田家英は1966年彭真、羅瑞卿、陸定一、楊尚昆らの”右派”の仲間として批判され自殺)。秘書としてはあまり長く勤めなかった李鋭氏でさえ秦城牢獄に長年繋がれました。

    これにくらべて、汪東興は”虎”のそばでいかに自らを全うしたのか?本人が自慢する忠誠心以外に、彼には口にするまでもない「君主に仕える道」をわきまえていたのでした。毛沢東の侍医として長年使えた李志绥はその回顧録で、毛が「王様の病」(*好色スケベ病)だったことを述べています。汪東興は極力、毛のその種の需要に応え、毛沢東はこの至れり尽くせりながら表に出せないサービスを提供する汪東興手放せなかったのです。これによって汪東興はいつもなんとか災難にあっても幸運に変えることができました。1970年8月 – 9月の廬山会議(第9期二中全会;毛沢東が発動した大躍進政策の失敗が明らかとなったあと、1959年7月から8月に開催され、問題点を批判した彭徳懐らが失脚した)で林彪を支持して、毛沢東に厳しく批判されて”速やかに徹底的に悔い改め”て、引き続き毛の寵愛と信頼をうけつづけ、林彪事件後の第十次全国代表大会では政治局委員に昇格しました。

    汪東興は「毛沢東の”帝王のスケベ病”」に迎合したからには、江青からはよく思われませんでした。江青皇后は何度も汪東興をやっつけようとしましたが、その度に毛沢東が汪東興を保護しました。江青のこの恨みは当然、毛の背後にいた汪東興もまたやがて江青に対する”クーデター”発動の原因となりました。汪東興は兵をもちいず血を流さずして(*華国鋒に協力し、自らが指揮する8341部隊で四人組を逮捕)政変を成功させたのでした。この大功績は国家副主席になるほどのものでしたが、しかしこの種の辣腕をもつ反乱の能力は当然のことながら鄧小平や新たな指導者連からは三国志の蜀の将軍・魏延型の(*上層部のいうことを聞かない危険人物)だとおもわれ、それが彼の運命を決めました。(*1978年に鄧小平が復権すると華国鋒派は次第に劣勢に追い込まれ、第11期3中全会で批判を受け、汪東興も中央弁公庁主任などの職務を解任される。)

    汪東興が政治の舞台から退出した理由は誰もが知っているように彼が華国鋒の「二つのすべて(*毛沢東のいうことはみな守っていくべきだという華国鋒路線)」という方針堅持の”大きな黒幕”だったからだということですが、その地位の不穏な前兆としては、はるか以前に武漢の街での大字報にちらりと見えます。1978年夏、私の田舎のある青年が武漢に出張した時に大字報の要点を書きぬいた文書をもちかえったのですが、それは「首都工人」の名前で「尊敬する汪東興副主席よ、俺は北京の労働者なんだけど、家がなくて結婚できねえ。あんた、1万平米以上あるすごい豪邸にすんでるっていうから一間俺に貸して結婚できるようにしてくんないか」とか、家の値段とかいろいろ書いてありました。当時、全国一斉大学受験テストをうけようとするわかものたちと議論したのですが、これは全然、労働者の書いた大字報らしくない、だって「北京の一労働者」が政府の大高官の汪東興の家の値段だのなんだの知ってるわけがない、ということになりました。

    でも、汪東興の豪邸の話は本当でした。何年もあとに、前人民日報の編集者の胡績氏が書いた「劫后承重任 因对主义诚——为耀邦逝世十周年而作」という文章に、1979年6月の5節二次人民代表大会の時、汪東興が中南海に住居兼事務所として690万元もの私邸を建てるのを強行したという演説原稿を書いた、と言ってるんですね。「簡単な計算でも彼のこの公館兼用の豪邸は4つのホテルを建て。1000人の住宅問題を解決できる金額。57平米の運動室、45平米の食堂、199平米の映画室をもち9級地震にも耐える、毛沢東記念堂と同一の基準で北京飯店より倍も丈夫であった。この汪東興家のホールは現在、中共中央書記局の事務所になっている」と。(《书屋》,2000年第4期)購買力から計算すると1979年の690万人民元というのは今なら1億人民元(*約19億円)に相当します。

    汪東興の肝っ玉の太さはこれでもその一斑が伺えます。当時のメディアの言い方でいえば、1978年「10年来の(文革の)大災難が終わり、様々な面で復興が待ち望まれ、政府財政は困難の極みにあった」時期で党内の今のような腐敗もまだ生まれておらない時期に自分の”御殿”に数百万元を投じるというのは汪東興というこの肝っ玉の持ち主でなければできなかったことです。鄧小平がむりやり汪東興を無事に引導をわたして引退させたというのはこれは汪東興を排除したというよりはむしろ救った、といえるでしょう。

    ★温家宝は大きな福運に恵まれた人です。その経歴は出世街道を順調にトントンすすみ、失敗はあまりなく、10年間の平和な宰相としてその官僚人生に完璧なピリオドを打つことができました。

    1;温家宝が政界に入ったのは時勢がそうさせました。1978年、鄧小平が復活し、人材いないことを痛感し、人を選抜するにあたって「知識化、青年化、専門化」を基準としました。温家宝は科学の教育を受けており36歳で完全にこの条件をクリアしており、地質大臣の孫大光の特別推薦をうけ、北京の中央地質鉱物部の党委員会の仕事を得ることができました。その後、胡耀邦、趙紫陽、江沢民の三人の総書記の任期に、中国共産党中央委員会事務局の副主任、主任をつとめここからは一気に追い風を受けて、最後には総理大臣という地位にまで栄光のうちにのぼりつめ、かつ政治的な暴風雨にあうまえに無事、着地引退に成功しました。

    2;天安門事件の災難でも倒れませんでした。天安門虐殺の前、温家宝は趙紫陽総書記とともに天安門で学生を引見しました。天安門事件以後は多くの高官が「政治的に正しい」道を踏み外し、たとえば元中国共産党中央委員会事務局主任で中央政治局常務委員で、胡耀邦、胡錦濤とならんで「三人の胡」と称された胡啓立は趙紫陽に同情して転落しましたが、温家宝は影響を受けることなく、その出世街道もますます高みへつづいていったのでした。

    3;温家宝総理時代はまさに中国が経済発展の”世界の工場”にあって”黄金の10年”(2001-2010)といわれた時期で外資はどんどん流入し、中国は発展途上国の中でもトップをひっぱる資本流入大国でした。「メイドインチャイナ」が世界をダンピングで席巻しましたし、銀行には8000億にものぼる不良債権がつみあがりましたが、外資の「戦略的投資」が香港にも本土にもどっさりあったので問題にもならず料理は鉢に満ち満ちて、GDP総額は日本を追い越し、世界で二番目の経済体となったのです。つまり結構なことばかりがあとからあとから続き、問題といえば中国の環境が全面的に汚染され、世界一のお札印刷機となって、地方政府には巨額の債務が積み上がりはしましたが、こうしたことの結果は温家宝は責任をおうことはなく、すべて後継者の李克强がひきうけることになったのです。

    4;大いに国民に親しさをみせ、口では改革を唱え、あらゆるホメ言葉を一身にあつめた温家宝は、政府首脳としては胡錦濤のカラー革命反対とか呉幇国の「5つの『やらない』」(*民主化はしない!)をきにかけずに、自分ひとりだけおおいに「政治改革」を語り、西側の「外部勢力」に気に入られ、あまたの「異議人士」たちのお気に入りの指導者となり、全国各地で温家宝改革談話研究会が開かれました。口先だけの言葉でこんなに褒められて、朝野をつうじて支持された政治的人物は、中共とうちの60年を通じて、温家宝の他には誰もいません。

    温家宝にとって唯一残念だったことは、あまたいる新旧政治局常務委員の中で、彼と習近平一家の大財産の話が洗いざらい外国メディアで大々的にバラされてしまったことによって、「純白の毛皮」の経歴の上に汚点となってしまったことです。しかし、習近平とくらべればまだ温家宝は運が良かったと言えます。習近平のふたりの姉たちの蓄財は3億元以上でともに習近平によってビジネス界から退場させられ、そのうちのひとりは会社を解散して社員に還元までさせられたのにまだ悪罵を浴びているのです。それに対して温家宝の財産は27億米ドル(*たった2700億円ですな(^^;))であり、帰って”敵対勢力”にも「温家宝は自分の家の蓄財を知らなかった」とかあるいは「NYタイムズの報道はうそっぱちだ」とまだ信じてこれを非難する人にことかかないわけですから。

    ★令計劃は今、すでに囚われの身であり、その政治生命から言えばもう”終わった”と言えます。その一生の行状からいえばその成功は「慎み深かった」ことからうまれ、その失敗は初めからおわりまでその能力を隠しておかず、早すぎる”旗揚げ”をしてしまったことです。

    令計劃の官僚の道のはじまりはやはり鄧小平のつくった「若く、能力がある、専門家」という幹部抜擢基準のおかげで、共産主義青年団の選抜で青年幹部として頭角を現しました。彼がいかにして胡錦濤のお気に入りになったかというのはやはりその細心の”皇帝への仕え方”にあったというべきでしょう。すくなくとも胡錦濤が中共の唯一のトップであった第一任期内においては令計劃は胡錦濤の大秘書として中共中央委員会事務局の副主任を数年つとめ、徹底的に低姿勢で目立たぬように心がけ、外からはほとんどその情報はありませんでした。唯一の印象と言えば、その兄弟姉妹の名前が中国の50年代のホットなキーワードそのもので、“方针”、“政策”、“路线”、“计划”、“完成”だったことぐらいです。
    しかし、2007年、令計劃は中共中央委員会事務局主任に出世した後、彼は胡錦濤の指導力のなさに様々な危険、このままでは将来の政局の中で強い立場にいられることは不可能だと深く感じとり、”自ら動いて、うまいことやる”という自力更生の道を歩みだしました。習近平と薄熙来という大虎同士の争いにあっては自らの勢力を養い、まず地縁関係を利用して「山西グループ」を結成し北京で頻繁に活動しました。また。自分の影響力を利用して表からは見えにくい「秘書連合」グループをつくり、2020年1月30日に「首都秘書界新春連合名刺交換会」を開催して、400人以上の中央と地方の秘書界の指導者や秘書出身の大臣級が多数出席しました。これが罗昌平(*財経誌副編集長か?)に「地雷を踏むに等しい危険な行い」と評されたものです。

    しかし、天は令狐(*令計劃の元の姓)一家に味方しませんでした。2012年3月18日、すなわち薄熙来が職を剥奪され身柄を拘束された三日目、令計劃の子、令谷が家族の運命を木っ端微塵にするあのフェラーリ事故(*裸の女性と死亡)を起こしたために、彼はいやおうなしに周永康(*警察、治安関係を握っていた)と同盟するはめになりました。習近平がその地位を確固たるものにする前に、令計劃はすでに中央委員会事務局主任の地位を追われ統一戦線部長の閑職に追いやられ、最後には次第に現在の、一家まるごと全滅の羽目に近づいていました。令計劃の罪名のひとつの「政治規律の深刻な違反」というのはつまり「不忠の罪」です。汚職がどうとか、家族が蓄財したとか、合計27人の女を囲って5人の私生児がいたとかいうのは令計劃の本当の罪状では全然ありません。

    以上、3人は中央委員会事務局の三人の傑物で、その運命はどの人物も「空前絶後」でした。汪東興以後は、中央委員会事務局主任が”近衛軍総監”の地位を兼任することはありませんでした。兵がなければクーデターもありえないわけです。温家宝は10年の”平和宰相”を勤め上げましたが、これは前世の福の報いでしょうか。経済改革の功績、15.6年にわたる鄧小平(胡耀邦、趙紫陽もふくむ)、江朱の力がすべてうまくいきました。令計劃の運命の教訓は後から来るものへの警告であり、「もし仕える主人が力にならないとなれば、なにがなんでも勇退するべきであって、さもなければ昇進どころか一族誅滅の災いに遭う」ということです。(終)

    拙訳御免。
    原文は;:中共历任“大内总管”中最亮的三颗星 http://www.voachinese.com/content/heqinglian-cpc-20150831/2939808.html

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