• 専制と革命の間にー「中国人・胡適」を読む⑴ 

    by  • September 5, 2015 • 日文文章 • 0 Comments

    何清漣

    2015年8月9日

    全文日本語概訳/Minya_J Takeuchi Jun

    http://twishort.com/pLKic

    歴史上、人類社会がある歴史的人物を活かし損ねる”すれちがい”はよくあることです。大きな功績のあった歴史人物、例えば明朝は万暦の中期以後衰えましたが、人々は「張居正(*明の中興の大臣;http://urx.nu/n6Mq)の様な人物はもういない」と嘆きました。しかし歴史の転換期の思想上の偉人となるとその価値を認められるのは至難です。これが「中国人・胡適」(《中国人胡适之》,田崇雪、刘乃顺著,上、中、下三册,台湾远景出版社2015年出版)を読んだ私の感想です。

    《胡適と陳独秀;中国現代化の二つの大きな道標》

    胡適(1891~1962)の思想研究の学術論文は少なくありません。しかし最近では落ち着いてそうした本を読んだことのある人はますます少なくなってきました。田崇雪、刘乃顺という二人の作者は胡適の一生を長編ノンフィクションの劇のシナリオとして描きだしました。ちょうどテレビの長編劇場という形で多くの人々に胡適をわかってもらおうとしたのです。作者は歴史的な主旨を再現するという観点に基づいており、

    いい加減なものではありませんで、全てにみな史実に基づいています。歴史に興味はあってもそれに大きな精力は使いたくないという現代の中国人にとってはこれはとてもよい本であるといえましょう。

    この本の中で再現された陳独秀と胡適は異なった道を歩みましたが、その友情はそれを超えて終始変わらなかったことにとても興味を覚えました。

    陳独秀(1879~1942)は晩年に「五四運動は中国の現代社会発展のための必然的な産物であった。その功罪はすべて個人に帰せられるべきものではないが、しかし蔡元培氏、胡適、そして自分はやはり当時の思想言論の上で責任をおわねばならない」と言いました。この言葉は間違ってはいませんが、しかし思想的影響の結果という点では1910年〜1920年代に、自由主義、無政府主義、ポピュリズム、社会主義などの各種の思想が一斉に中国に降ってわいた当時、そしてその後20余年間、中国青年のインテリの大部分が全世界ではやった左傾思潮、すなわち社会主義を選んだ、という点において、陳独秀のそれははなはだ大きかったというべきでしょう。

    胡適の生きた時代はまさに中国が現代化する過程での十字路を徘徊していた時期でした。この「十字路」は中国の知識人のエリート達が西側の二つの大きな政治思想のどちらを選ぶかというときでした。このときに英米の自由主義政治思潮を尊ぶ考えと、フランス大革命にくわえロシアの十月革命後の社会主義政治思潮を尊ぶ考えが同じに中国に入ってきて、その影響は当時の中国人知識界だけではなく、その後の中国の政治路線の選択、つまり英米を代表とする温和な発展モデルか、仏露型の革命激変型モデルかの選択にまで影響を与えました。

    胡適は10年間の米国留学中、アメリカの哲学者ジョン・デューイのもとでプラグマティズムを学び自由主義の影響を深く受け、生涯、米国民主主義に傾倒、礼賛しつづけ米国を近代化成功の模範と考えロマン主義の色恋フランス大革命には終始批判的態度で、「正しい方法は建築の正しい材料のようなものだ」ということがわかっていないと「ロマン病」「怠け者病」と退けました。晩年にいたってもその考えを変えず「米国は開国からわずか300年余りの歴史しかないが、その300年余年の間にあの広さを開拓し、最高の文化を築き、人民の暮らしは最も楽で国力は最強の国家になしえたのは人類の奇跡である」と述べました。

    その生涯を通じて胡適と親密だった陳独秀はフランス大革命の熱狂的崇拝者でした。「フランス人と近世文明」という文章で彼は「近代文明の特徴は古くからのやり方を変え、人心社会を一新したものには三つあって、人権説、生物進化論、社会主義である。この3つの近世の三大発明はみな、フランス人の賜物である。世界にフランス国なかりせば、いまだに今日暗黒の中にあったであろう」と陳独秀はフランス人の革命精神を崇めたばかりでなく、特にフランス文学を崇拝し、「欧州文芸談」の中で古典主義、現実主義、ロマン主義、自然主義などの学術芸術の流派を紹介し、フランス文学に対する中国人の興味をかき立てました。

    ロシア十月革命後には、陳独秀は溢れる情熱をもって「ロシア革命と我が国の国民の覚悟」という一文を発表し、「この革命は民主主義の勝利だ」と称え、「18世紀のフランスの政治革命、20世紀のロシアの社会革命はその当時の人は口を極めて罵ったがのちの歴史家はどちらも人類社会の変動と進化のカギとなったと評価する」と断言しました。

    胡適と陳独秀のふたりは1910年から20年代の中国青年の年代に巨大な影響を与えました。胡適は自由主義を信奉し、米国民主主義を崇拝し、五四運動時期におおいに、プラグマチズムを宣伝し、表面的にはその師匠であるデューイのプラグマチズム理論を伝道したようにみえますが、実際には米国民主制度の理論の精髄を掘り起こしたのでした。胡適は特に米国の民主主義の精髄が「民治」にあるという点を強調ましたが、これはその後の研究者たちが比較的軽視しがちなところでもありました。

    陳独秀はフランス大革命からロシア10月革命、ジャン=ジャック・ルソーの歌劇型民主主義からレーニンの社会主義に至り、中共創始者であり最初の総書記として自分が深く信じていたフランスやロシアのような革命的手段で旧世界を破壊し、強力に新制度を推進させることだけが中国の出口であると信じていました。陳独秀は有為転変を経た晩年、ソ連の経験を反省したりしていますが、それは引退後の個人の思想的な修練ではあっても、中国の社会思潮にはほとんど影響をあたえませんでした。

    「中国人・胡適」はドキュメンタリー文学のしなりをですので、この胡、陳のふたりの思想のやりとりを生き生きと描き出しマス。ふたりで話したり友人と飲んだり、雑誌のことを話し合ったりするときにふたりは激しく論争します。五四運動後、陳独秀は三度入獄しますが、胡適はそれを救うために奔走します。陳が出獄後、ふたりであうやいなやたちまち政治の観点で論争が始まってしまいます。このふたりのこの種の恩愛の複雑にからまった友情は、胡適が陳独秀へあてた手紙の中に「われらふたりは昔からの友人で政治上の主張は違うし、やっていることも違うがしかし昔からの友達であることは変わらず、まさに君のおかげでわたしの頭の中に、異なったもの対しての容認する気持ちがあるのだ」と簡潔に述べられています。

    この種の君子の交わりは、今日の知識人界の後輩たちの立場からみればまことに感動し、かつ深く羨ましくおもいます。いまや、どの政治的道標が正しいかについては日増しに激化してまったくちょっとでも主張に違いがあれば、過激な主張者は改良主義者を「中共に買収された」と断じながら、みずからは政府によって懐柔されることを期待はしても、友情や好誼はあとかたもありません。

    《胡適の自由主義と政治の理想》

    胡適の政治の理想は一言で言えば、主として個人の自由と国家の関係、「良き人による政府」、「民治」の三つです。

    個人と国家の関係では、胡適は欧米の個人主義を賛美しており、欧州の18世紀~19世紀の個人主義が無数のパンと真理をあうする無数の人々を作り上げ、しかるのちに欧米の文明世界をつくりあげたと思っていました。ですから当時、北洋軍閥政府が「個人の自由を犠牲に、国家の自由と交換せよ」と青年に呼びかけたときに、胡適は真っ向から青年を「自分たちの自由のために戦え、それが国家が自由のために戦うということだ」と大声で叱咤激励し、「君たちの人格の尊厳がすなわち国家の人格だ!自由平等の国家は一群の奴隷が作り出すものではない!」といいました。それに比べていまや、何十年もの中共のイデオロギー教育の結果、国家と個人、国家と社会関係は大多数の中国青年の一代のうちに、ぐじゃぐじゃになってしまい、個人主義は私利私欲だと批判され、個人は全体に服従し、集団の意志は個人の意志より上にあって、論議することもゆるされない「真理」だとされるようになってしまいました。

    胡適の「良き人々による政府」という主張はいまにいたるまで大物学者たちから嘲笑されています。2012年の人民日報文史論壇「自由主義知識分子の政治における失敗」のなかで「良き人による政府のあだ花」と題し、これは典型的な実験方式による自己破産であり、自由派知識人の政治実践が惨憺たる失敗をして、軍閥を打倒できず、「よき政府」を机上の空論で論じ、かえって軍閥の暗黒統治を覆い隠す働きをした、とされています。

    胡適は本当にそんなに幼稚だったのか?的市場、本当に「よき人による政府」という実践はあったのか?

    1922年5月13日、胡適が主編した「努力週刊」第2期に発表された「我々の政治的主張」という文は一部が胡適が起草し、蔡元培、李大釗ら16人が連署して政治を提起したものです。この要点は;中国の政治改革の目標は、「よき政府」によって中国政治の最低限度の要求であるべきだとして、いわゆる「よき政府」とは正当な機関が一切の官僚の汚職に目を光らせるべきだという消極と、積極提案としては⑴政治的機関を十分に活用して社会全体の福祉に努力せしめよ。⑵個人の自由を十分享受せしめよ。個性の発展を愛護すべし、として、今後の政治改革の基本的要求は;⑴「我々は『憲政政府』を要求する。⑵ 我々は「公開された政府」を要求する。⑶ 我々は「計画性のある政治」を要求する、でした。そして具体的主張として;「南北の早期講和交渉開始」「軍事力削減の京商」「役人の数を減らす」「現行の複数選挙制の廃止と直接選挙制度の採用」です。

    このあと、胡適ら16人は「政治計画」を起草して、呉佩孚(軍閥のリーダーの一人、五四運動を支持した。http://urx.nu/n70S )に意見を求めた。呉は意見をもとめられた部分を名流人士による「よき人物による内閣」と名付けて国政の補佐とするように考え、その意見がなぜかすんなりと受け入れられてしまい、権力を制約するとか政府を作る際には公共サービス能力が根本であるとかいうところが無視されて、「よき人々による内閣」というところが、「よき人々による政府」という話になってしまいました。

    しかし今日からみても、胡適の主張は当時の実情にかんがみた第三点を除いて、他の主張はいまだに中国の憲政を求める人々の努力がいまだにみのらないはるか遠い目標なのです。胡適が「我らの政治主張」の文中強調した、権力の制約、権力を監督下においてこそ、はじめて「よき人々の政府」がでtくるというのは、今日の理解力をもってしたら、故意に歪曲した理解をしないかぎり、再び誤解されるというようなことにはならないでしょう。(2、に続く)

    拙訳御免;
    何清漣氏の原文は;何清涟:在专制与革命的夹缝中重温胡适——读《中国人胡适之》(1) http://www.voachinese.com/content/heqinglian-hushi-part1-20150808/2908731.html

     

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