• 本当に抗日戦争紀念というなら歴史を真実に還すのが最上です

    by  • September 5, 2015 • 日文文章 • 0 Comments

    何清漣

    2015年9月2日

    全文日本語概訳/Minya_J Takeuchi Jun

    http://twishort.com/6HVic

    9月3日、北京は閲兵方式で抗日70周年を紀念します。多くの論評は北京が武力を示威する為としていますが、私は習近平の主要な目標はそこではなく、世界に向けて自分は軍隊にたいする完全なコントロールを達成したということを見せるためだとおもいます。いわゆる「抗日70周年紀念」というのはこれを示す機会の窓口にすぎません。もし、北京当局が本当に「抗日70周年紀念」をするのであれば、三つのことをやって誠意をしめさねばなりません。

    ★1;抗日戦争の歴史の真相に戻せ

    8年にわたる抗日戦争は中共のデタラメな嘘っぱちの山に埋もれてすっかり真相とは異なっている。

    私が小学校のとき、5年生の教科書に毛沢東の「抗日戦争の勝利後の時局と我々の方針」という一文が掲載され、重点は抗日戦争の「果実」は誰に属するか、というものでした。教師は生徒に全文を暗記させ、「我らの解放区の人民と軍隊は8年来、いささかの外部の援助もない状況のもとで、完全に自らの努力だけにたより広大な国土を解放し、大部分の日本の侵略軍とすべての傀儡軍を打ち破った」「蒋介石は峨嵋山の上に隠れて傍観ているばかりで勝利へ実力を温存し内戦に備えていた。果たして勝利がやってきたときようやく山を降りて抗日戦争の果実を奪い取ろうとした」「抗日戦争の果実は誰のものか?明白である。例えば桃の木に桃がなったとする。これが勝利の果実だ。果実は誰のものか?それは果実を植えた人は誰か?誰が水をやったかをとわなければならない。蒋介石は山の上に居座り一回も水をやっていないのに、手を伸ばして桃を獲ろうとするのである」とありました。「桃を獲る」という言葉は1949年後の中国語では他人の果実をこっそり盗む、という意味になりましたが、その始まりはこの毛がかいた”勇ましい”文章でした。

    何年も後になってやっと知ったのですが、実は8年間の抗日戦争の「水を運んだ人」は蒋介石であって、「桃を盗んだ人」が毛沢東でした。しかし、私と同時代の中国人は多くが中小学校を卒業してからいくらも本などよみませんから、この毛沢東の文章と、かの「♫中国共産党がなければ新中国はなかった♪」という歌とともに、「中共が抗日戦争の大黒柱だった」という嘘っぱちをそのまま真に受けて信じていますし、抗日戦争の主要な戦場で95%以上の主力がすべて中国国民軍(*共産党以外の軍)の軍隊だったということなどまったく知らないのです。

    かの有名な淞沪会戦、太原会戦、徐州会戦、武汉会戦、长沙会戦だけでも何十万の中国国民軍の将士が戦死しました。彼らは当然、8年間の抗日戦争のなかで国民軍の死亡した将官は200人以上おり、なかには8人の大将、45人の中将がおり、佟麟阁、赵登禹、张自忠、郝梦龄、戴安澜といった人々が国のために殉じたのでしたがもちろん知りません。そして自称抗日戦争の主役と主張する共産党軍はわずか二人の少将しか戦死していません。黄埔軍学校は23期あって、そのうち1945年以前卒業したのは19期で合計37000人です。この卒業生の抗日戦争で犠牲となったのは2万人以上、6割から7割が戦死しています。

    屍山血河といわれた国民軍の悲壮惨烈の抗戦は本当にあった。

    私は湖南省邵陽の生まれですが、子供のころは抗日戦争の名将・廖耀湘がわが郷里の先輩だったことは知りませんでした。1972年、湘西に鉄道線路修理に行き、芷江でそのころすでに壁の崩れた記念碑の残骸があり、好奇心を起こした私は現地の教育ある老人にこれは何か?ときいてはじめてこの間の歴史の破れ目をのぞきこみ、廖耀湘が「国民党の戦犯」という呼び名以外に、抗日の名将であり、それと彼と芷江での投降受け入れの関係を知りました。廖耀湘は新6軍を率いて抗日戦争で卓抜な業績をあげ、蒋介石から直接南京と芷江での日本軍降伏受諾の任務をおったのでした。その後、邵陽に戻って郷里の老人にきいてはじめて、「白菜を食べるには芯をたべ、軍人になるなら新四軍♪」と歌われたあの歌はもともとは「新六軍」の歌だったのを共産党の「新四軍」がパクったものだと知ったのでした。(*廖耀湘;黄埔军校第六期生。国民党軍の第六軍長。中共政権下で戦犯扱い。1961年12月釈放,1968年文革で批判され心臓麻痺で死亡)

    こうした「実地考察経験」でえた歴史の知識をもって復旦大学で勉強していたとき、自分の先生の朱伯康先生がご自分が若い学生だったころ、蔡廷锴将軍が率いた十九路軍の淞沪抗戦に参加したお話をご自分が経験なさったことだと確信してききました。

    20世紀の80年代から、中共の築き上げた歴史に関する嘘っぱちはすこしづつうち砕かれました。世界がインターネット時代にはいって、真実の抗日戦争史がちょっとづつ民間に知れ渡ってきたのです。しかし、本当の姿とはまだまだとても長い距離があります。例えば、最近の映画「カイロ宣言」の製作者はなんと出席していなかった毛沢東の巨大な映像をポスターにつかっており、これをみても中共の歴史改ざんの悪習はなかなかなおらないことがわかります。
    ですから、抗日戦争を紀念する一番良い方法は、歴史の本当の姿にもどって、もっとも大事な一環であるつまり教科書からただしいまともなものにしていくことです。

    ★2 抗日戦争の紀念堂をたてて、忠魂の行き場所を作れ。

    300万の川軍(*四川省出身の軍人を多数とする軍隊。抗日戦で死んだ326万国民革命军将士のうち64万人が属したといわれる)の抗日戦争の悲壮な歴史はすでに四川省の作家鄧賢の「落日」(http://www.simplyarticle.com/article/22171379318/)に書かれています。20年前、初めてこの本の「喋血黄沙」(*黄砂の血の海)のくだりをよんで涙がとまりませんでした。というのも私は湖南省が抗日戦争でもっとも激烈な戦闘が多かった主戦場のひとつだったこと、中国侵略の日本軍の総兵力の35%は湖南を挟撃し、中国軍の正面戦場の兵力の4分の1は湖南で抵抗し、長沙、常徳、衡陽、湘西の四つの大会戦は大変悲惨なもので、衡陽の戦いは激烈なもので日本軍に大損害を与え、日本側は「華南の旅順戦」とこれを称したのでした。

    中共がどう紙に書かれた歴史を嘘でかためようと、まだ20世紀の70年代までは抗日戦争のすくなからぬ歴史的遺跡は残っており、一番多いものは戦死した将士の骨を埋めた場所でした。湘西の鉄道工事で邵陽の分隊の民兵が塚を平坦にしましたが、その異物は水筒や帽子の徽章などからみて中国軍の抗日戦争の兵士の塚でした。というのは近くで雪峰山の戦いがあり、これは抗日戦争の間でも湘西が戦場になった最後の大きな戦いだったのです。岳麗山の後ろにはかつては中国軍の将士の紀念堂があり、70年代末に湖南師範大学へいったとき、山の上にはまだ遺跡と破損した骨灰の壺がありました。50年代に湖南師範で教えていた教師によれば、これは抗日戦争の時期の長沙の戦いで戦死した将士の骨を埋めたところでした。文革の前まではまだよかったのですが、文革時に紅衛兵の「破四旧」の目標として破壊されてしまいました。

    こうした戦死した抗日戦争の将士たちはこの土地を守るために命を犠牲にしたにもかかわらず、彼らが属していた軍隊が当時の国民党政府だったというだけで死後の安息の地まで破壊されたのです。いったいこれはなんというお国ぶりというべきでしょうか?これ以来、私は心して中日戦争の参戦者の運命、死後の運命までふくめて注意をはらうようになりました。

    1999年、私は日本外務省の招待で訪日し、同行の人たちの目を盗んでそっと靖国神社にいきました。そこでは歴代の日本の対外戦争で死亡した将士の霊がまつられ、東条英機とかのA級戦犯の位牌は当時は祭壇の第四列に置かれていました。ぎっしりつまった位牌の中に中国語の名前の位牌をみつけたのですが、それは日本統治下にあった台湾から日本軍の作戦に参加して死んだ台湾人のものでした。この時は時間がなく後ろ髪をひかれるおもいで後にしましたが、その後二度にわたって日本にいったときやはり靖国神社にいきました。2003年には靖国神社内に戦争歴史館が開設されていました。

    靖国神社は中日関係の摩擦の種ですが、わたしは日本の友人に日本人が靖国神社を祀るのはいかなる気持ちからか?ときいたことがあります。友人は、いかなる対外戦争であれ、それが正義の戦いか否かにかかわらず戦死した死者はみな国家のために死んだのである、戦争を発動した責任を彼らに負わせるべきではないからだ、と答えました。日本人の戦死者に対する気持ちは十分理解できます。長年来、わたしの心を離れない願いは、中共政府がイデオロギーの桎梏から脱して、中国本土に抗日戦争の戦死した将士の紀念堂をつくってすべての戦死したひとびとの魂を名前とともに壁に刻んで、御霊の帰する場所をとするとともに、中国人にこの歴史をしらしめてほしい、というものです。

    ★3;今も生きている中国軍の老兵を慰労し、彼らに名誉と尊厳を

    百戦を戦い生き延びた将士に比べて、抗日戦争で戦死した将士の運命はひょっとするとまだましなのかもしれません。なぜならば生き延びたひとびとは国共内戦の三年間でも死なないでそのまま1949年の中共統治下の中国にはいって、階級闘争と政治運動の苦海のなかで苦しみ抜いたからです。かつて国民党の軍隊にいた、ということだけで彼らの一生は悲惨の極みとなりました。

    これらのひとびとはまず「国民党の残党」として「地主、金持ち、反動、腐敗」の四分子と同等とされ、つねに辱めを受け侮られる政治的賎民とされ、反右派闘争以後は「4種類の悪い奴ら」に右派が付け加えられて「5つの悪い奴ら」とされたのですが、依然として「国民党反動軍人」はそのままでした。文革にいたっては「公安六条」は彼らを弾圧すべき21種類の人間たち、に加えられて「地富反坏右军警宪」といわれた「軍」とはすなわち彼らのことでした。規則をちょっとでもやぶろうものなら「闘争」の対象とされて辱めを受け、重いとみなされた場合は命を奪われました。おぼえているのはわたしの住んでいた近くに家長がそうした人の一家があり、いつも差別され迫害されていました。わたしの父の病院の同僚にも国民党軍で軍医をつとめた何其武というひとがおり、医学に堪能で背の高いさっそうとした人で仕事熱心でしたが、政府の「運動」があるたびにその波は彼におそいかかりました。文革中、彼とその綺麗な奥さんとふたりの娘さんは邵陽県の農村に追いやられましたが、1968年、そこでおきた「黒殺風事件ー21種類の人間屠殺ー事件」以後、再びかれらの消息を耳にすることはありませんでした。

    なんの技術もなく、ただ農村にもどった国民軍の老兵の運命はもっと悲惨でした。「抗日戦争の老兵が国家に衣服をめぐんでくれと求める」という(http://zhenhua.163.com/13/1231/09/9HDO6LHC000465M0.html)話にでてくる孫赞高老人は、抗日戦争の老兵のごく普通のケースです。かれの運命は国民軍で抗日戦争を戦った老兵の運命の縮図です。一生耐え難い差別を受け、大多数はその差別と貧困と病のうちに死亡しました。少数の命を長らえた人がここ数年やっと「五保戸」(*生活保護所帯)にいれてもらってごくわずかの保障をえられるようになったのです。これらの老兵たちの唯一の願いは自分たちも抗日戦争参加者の紀念徽章がほしい、というものなのです。

    日本の軍人と台湾に連れて行かれた国民軍の兵士の運命は中国にどとまった国民軍の将士よりはるかによいものでした。まず彼らは「反動軍人」という屈辱を味わうことはありませんでした。そして、経済的待遇もわるくありません。日本の軍人は舞う月、日本の天皇の「恩給」(約十数万円)が与えられ、さらに「定年退職費用」もあり、生活に心配はありません。台湾の国民軍の老兵も「生涯年金」の対象となり一時払、毎月払いが選べ、最小でも毎月6万台湾ドル(*1台湾ドル=約3円)になります。

    もっともよき抗日戦争紀念方式は歴史の真相に還ることです。中国国民軍の抗日戦争将士は大陸では凄惨な不公平な目にあわされました。これは中国現代史における暗黒の一ページです。いま、中国にはまだ2000人の抗日戦争参加の老兵が生きています。中共政府はすみやかに抗日戦争の真相をあきらかにし、栄誉と尊厳を血を流して奮戦した抗日戦争の将士たちに還すべきです。それは生きている人たち、死んであの世にいる人たちを慰めるというだけではなく、さらに執政者の知恵と、良識と政治的度量をみせる機会なのです。(終)

    拙訳御免。
    原文は;还原历史真相,是纪念抗战的最好方式(《中国人权双周刊》第164期 2015年8月21日—2015年9月3日)
    http://biweekly.hrichina.org/article/29542

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