• 「辺境から撃て」の伝統要素

    by  • November 24, 2015 • 日文文章 • 0 Comments

    何清漣

    2015年11月12日

    全文日本語概訳/Minya_J Takeuchi Jun

    https://twishort.com/vGyjc

    中国で権利を守ろうという運動型、公益型のNPOが習近平政権の弾圧によってすっかり壊滅させられてからというもの、北京政権もその打撃目標も大変前近代的な色彩の強いものになってきました。今年、広東省でおきた「華藏宗門」事件と項逢選という人物の「影子兵団」(影の兵団)事件は砂のような中国の底辺社会における現代的組織要素の欠如を表しています。(*前者はカルト宗教団体、http://news.merumo.ne.jp/article/genre/3182876 後者は「項羽の子孫」を名乗る人物がQQで仲間を募集して”破壊活動”したとされる事件 http://plaza.rakuten.co.jp/watam7/diary/201511090000/

    ★王朝時代の伝統的な反抗スタイルの再現

    項逢選の「影の兵団」事件については国内外の諸説を見るに同一事件について全く無関係に二つのストーリーがあるかのようです。中国国内版は;新華社の記事とネットによる事件のあらましで、インテリや中産階級の一部には反発を生じさせるようなデマっぽいものでこの軍団の爆薬の専門家であった張六毛が死んだのは「喉頭癌の発作による病死」です。一方、国外のメディアは「張六毛の死は拘置所における”不正常な死亡”だった」とか「張は爆薬の専門家ではない」といった内容ですが、必ずしも新華社の記事の他の部分に対する否定ではありません。こんな状況が生まれたのは護権人士の候文卓女史によると「海外の人々は主に自由とか人権という基本的な法的権利からものをいっておる、一方、中共は維穏(治安維持)、制圧的な角度からみており、相手側の合理性や合法性については一切顧みない姿勢」ということです。(*ジジ注;張を「異議人士」としてネットではその人権面を大いに話題にしているが、何清漣氏は項逢選らをそうした現代的な異議人士とはみておらず、むしろ封建土着勢力の反抗の歴史からみようとしている。)

    でも、この二つの事件の背景と伝統的な反抗の要素を分析するのが中国社会の特質を理解する上で大いに役立つと私はおもうのです。

    項逢選事件の新華社によるストーリーには多くの中国の王朝末期の伝統的反抗の要素(つまりデマ、うわさ)があり、例えば「予言・託宣」(中国文化は占い・予言学が信奉されており、いかなる農民一揆においてもすべてこうした予言、託宣という一種の宣伝が不可欠)、皇族との血縁(項逢選は自分を項羽の子孫だと称し、弥勒菩薩の生まれ変わり、と称し、その参謀の馬骥も清の八旗の一つである镶黄旗の血を引くと自称。また兵を募るやりかたも先人の真似をして自分は易学ができ、生まれた日と名前からその運勢を占い、その運命を変えることができるとして新たなメンバーを募集し、事が成ったら爵位を与える、などとしていました。参加したメンバーは六人でクリーニング店を営んでその収入で家来を養っていた(今流にいえば活動経費)張以外はみな流民で、英語でいえば「負け組」でした。

    現代的要素といえば張が借用した「民選党」や「大統領」という名前ぐらいです。張が書いて4000冊発行したという「杜鵑」という雑誌についてはネットで検索しましたが関連記事が皆無なので論評はできません。

    以上のような要素はほとんど中国の農民一揆の初期における行動の再現といえます。

    このような伝統的要素の極めて強い反抗グループが広州に出現したのは別に意外とは思いません。広東省は広州市を除くと中国の伝統文化が極めて強く、家族の概念や社会習俗(男尊女卑)、民間信仰などが強く残っているのです。現にこの数ヶ月前に広東警察が摘発した呉沢衡を首魁とする「華藏宗門」という仏教グループは「影の兵団」よりさらに伝統的要素の濃厚な組織でした。呉は「仏祖の転生」「皇帝転生」を自称し、気功家から身を起こし、仏教の少林寺に帰依したとして数千人の信徒を獲得していましたが、その主にやっていたことはうまく財産を巻き上げ、女性をたぶらかして(*セックスしほうだい、みたいなこと)いただけで、「影の兵団」のようなはっきりした政治的目的はありませんでした。

    ★農民一揆における「神の夢」の重要性

    農民一揆は中国社会の反逆の一種の主要形式で、事を起こす前にはまず神をつくりだしてフォロワーを引きつけ増やします。秦末の陳勝と呉広は「王侯将相寧有種也」(王や諸侯、将軍、宰相になると生まれた時から決まっている訳ではない。即ち、誰でもなることができるのだ)と叫び、呉広は魚の中に「大楚起こり、陳勝が王になる」という布切れを入れてフォロワーを増やしました。元末の農民一揆は白蓮橋を信奉しており、「弥勒転生、明王降臨」をスローガンにしました。こうした「神の意志」を作り出す活動は歴史学者の張宏烈によると「夢の財産作り」と呼ばれています。

    「神の予言夢」は「水滸伝」の宗公がみた九天玄女が天書を与えるというのが代表的ですがこれは別に作者(*といわれる)施耐庵がでっちあげたわけではなく、中国24史のなかでこの種の皇帝が生まれるときにその母親が夢に神をみたとか龍を見たという話はゴロゴロあります。

    160年前の、かの麗しき江南がめちゃめちゃになって1.6億人が犠牲になった太平天国革命の起因といえば洪秀全がみた夢でした。洪秀全は4度科挙に落第し疲れ果てて郷里に帰り大病を患いますがそのとき夢に黒い服を着て龍泉剣を背負った白いひげの老人が現れ自分は全知全能の上帝であると名乗り、洪秀全に「汝はわが弟である」とのたまい、その宝剣を授け、世の中の邪を倒し正せというお告げがあったので、これ以後、洪秀全は上帝を父とし、キリストを兄としキリスト教を”改良”して土着化させ自ら上帝教をつくって最後には太平天国の偉業を成し遂げました。

    洪秀全のように夢の啓示によって事を起こした人物は歴史上たくさんいます。洪秀全よりすこし前の同時代には乾隆帝39年に山東省の清水教の一揆があり、その指導者の王倫は「夢に龍をみた」し、嘉慶年間の一揆をおこした天理教の林清や李文成らがいます。

    なぜ夢をみたことにしなければならないのか?といえば当然、多くのフォロワーを引きつけるためです。中国の科挙制度は日の当たらない一家の子弟の優秀な人物にもチャンスを与えたとはいえ、それは極めて狭い道でしかなかったし、商売を通じて豊かになれたといっても所詮はごく少数の人々でした。貧乏から豊かになり、卑しい身分から貴い身分になるには陳勝の「王侯なんぞ種あらんや」が一番元気を与える言葉だったのです。しかしただの平民出身では所詮はフォロワーはたいして引きつけることはできませんから、そこで神を作るわけです。ですからこの種の「神を作り」「皇帝を擁立する」というのはずっと中国人が奮闘努力する道のひとつだったんです。「神を作る」はまずその序曲にすぎません。これぞ中華文化の精髄でありまして、無神論を標榜する中共国成立後だって消え失せてはいないのです。

    ★中共国成立後に現れた「農民皇帝」の面々

    中共国成立後にもどれぐらい皇帝と称する人々が現れたかは張宏烈の「《新中国的众多称帝者》」http://www.21ccom.net/articles/lsjd/lsjj/article_2012112871925.html
    や、「《新中国成立后称帝者一览表》」http://history.news.163.com/09/0505/15/58IDS3OU00011247_2.html (日本語では;http://togetter.com/li/781226 現代中国の僭称諸帝国・皇帝一覧が下記の『皇帝』について詳しく解説してあり傑作です。ぜひご覧ください。)。

    その中には父子二代が30年を隔てて帝を称した「大中華佛国」があり、これは湖南省の醴陵で、1947年に石頂武が事をおこし、1953年に敗れ、その子の石金鑫が自らを「真龍天子の継承者」として、1983年に農民大臣・李丕瑞の助けをえて即位。さらに1981年から1990年の10年間つづいた大別山地区の「道徳金門皇帝」丁興来(盲人)が金門教から皇帝を称し「正官娘娘」「西宮娘娘」「宰相」など21人を封じ、「仙印」を41枚あたえ、地方政府はがこれに気がつくまでに10年を要しました。(いずれも公安の弾圧で死刑)

    もっとも有名なのは鄧小平の故郷の四川省広安の「大有国」皇帝の曽応龍で、廖亦武が書いた「農民皇帝・曽応龍」は獄中の曽をインタビューしたものです。これは民間伝説の天子降臨物語にあるあらゆる要素を備えており;天子が降臨するという童謡がうたわれ、原始的な平等思想があり、農民の要求としての産児制限に反対しました。取材をうけたとき、曽応龍は自らを朕と称してその立国の趣旨を「土地を持ってみんなで耕し、お金はみんなでつかい、赤ん坊は産み放題」「朕は御林軍をもって県城を攻略し、医院を占領し、、院長を追い払い、すべての産児制限の妖怪を駆逐し庭に山と積み上げて焼き捨てた。さらに産児制限にかんする妖書を非難する書を配布し大有国は子供を産んで10人以上の母親になった女性には「浩命夫人」の称号をあたえて民心をえた」と語りました。廖亦武の聞き語り調の取材は「農民皇帝」の得難い言葉で書かれており、中国農村部の郷土文化の色彩を濃く伝えています。すくなからぬ読者は曽を軽度の精神病患者とおもったようですが、それでは中国の郷土文化・農民精神世界を理解したことにはなりません。

    ★郷土文化;中国社会の原生色

    農民一揆には必ずや「うわさ、デマ」を先に作っておかねばなりません。こうした能力は長い歴史の間に郷土文化が薫陶よろしく作り上げたもので農村芝居や舞台がうまれちらい、農村郷土芸術として何度も何度も伝えられて農民の心に染み渡っているものです。農民は社会の最底辺層に置かれており、「神の夢」をみることによって自らの身分を格上げし、大衆を呼び集める力となります。どの王朝も末期になると社会の矛盾が先鋭化し、民の暮らしが苦しくなったときこそが、うわさ・デマを流すのにバッチリの時期となります。「影の兵団」は数千年にわたる中国の古い物語を繰り返してみせたにすぎません。こうした古いストーリーが繰り返されるのはその土壌が昔のままだからなのです。

    清の末期に张之洞は朝廷の頑固派の新政府への圧力を軽減しようとして「中体西用」、つまり中国の倫理、儒学を不易の元として、西側の科学技術を利用するという言い方をもちだし、以後もずっと中国の統治者が西側の価値観を拒絶する精神の大黒柱となりました。毛沢東時代に鎖国政策を採用して、マルクス・レーニン主義以外の西洋的価値観を封建的、資本主義的、修正主義的として拒絶したのもつまりは「軍事科学技術」だけを「西用」し、そのほかのすべては「自力更生」することにしたわけです。鄧小平が改革開放を唱えましたが、その彼のいう「四つの現代化」は工業、農業、国防、科学技術だけであって、政治は含まれていませんでした。この結果、農業生産送料はすでにGNPの10%前後になり、第二次、第三次産業が国民経済の主導的な地位を占めるようになり、電子通信技術や道具は世界と軌を一つにするようになって、物質面では巨大な進歩を遂げながらも、「体」のほうは政府も在野も全近代社会にとどまったまま。例えば社会は依然として身分制度の特徴を残しており、出身が個人の能力より更に重要視され(政府側の紅二代目の後継思想、民間の一揆における高貴な出身の身分詐称、あるいは専制思想(一党独裁、政治経済、文化の各種資源の独占、民権を認めないという「天下のすみずみまで王土にあらざるはなし」といった考え方や、民間で一揆を起こす時には普段に各種の称号や「皇帝」を名乗り政権を奪取しようとする、などなどです。

    過去20年来、米国をリーダーとする国際社会の圧力の元で、中国も「国際的標準にあわせる」ことを迫られ、少数の大都市には外国の援助を受けた権利擁護、公益型のNGOが生まれ、中国の現代化の入り口となって中国も人権や環境保全の面で「現代化」したかのようにみえましたが、しかし、これらのNGOが軒並みに北京当局によって弾圧され一掃されてしまった今、のこる弾圧対象とされている「反抗勢力」には中国の小農村社会の特徴が色濃く浮き上がってくるようになっているのです。(終)

    (《中国人权双周刊》第169期  2015年10月30日—2015年11月12日)

    拙訳御免
    原文は;中国边缘性反叛中的传统元素 http://biweekly.hrichina.org/article/30492

    ====付録参考;

    JIANG JIE @soukann2009 氏による「現代中国の僭称諸帝国・皇帝一覧」が大変興味深いのでリンクと本文関連の「帝」をご紹介。*元がtogetterによるまとめなのでちょっと読みにくいのでまとめてみました。(詳しくは;http://togetter.com/li/781226 をごらんください)

    ⚫︎大中華仏国

    湖南・江西両省に勢力をもった。前身は清朝光緒年間に成立した仏教系新興宗教「三期普渡道教」。初代教主は湖南の地主・石振順。第三代教主・石頂武は国民党軍に入党し、勢力を蓄え、信徒は20余県・3万人に膨れ上がる。1947年、国共内戦期に帝位についた

    「黄杏仏旗」を国旗とし、教団主要幹部を左右丞相・保駕将軍・軍師・総司令などの官職に任命。帝都を湖南省湘潭市湘潭県排頭郷に定めるが、100名ほどの警察によって鎮圧され、石頂武は逮捕。1953年冬、公開処刑される後大中華仏国  公開処刑された石頂武の遺児・石金鑫によって建国された。1953年の帝国滅亡後、三期普渡道教の信徒の大半は降伏したが、残党が地下活動を展開。首謀者の李丕瑞は1967年、毛沢東の逝去を機に帝国の復興を画策し、石頂武の遺児を捜索

    1979年2月21日、遺児・石金鑫を発見。1983年10月21日、石金鑫は李丕瑞宅にて即位式を挙行。李丕瑞を丞相、他の幹部を太師などに任命。共産党打倒を表明する。  しかし、1979年より三期普渡道教の動向を警戒していた公安は早急に対応し、同年鎮圧に成功

    1985年5月、株洲市中級人民法院は石金鑫・李丕瑞を死刑、他の幹部を徒刑に処し、後大中華仏国は滅亡した。 ソースは https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B8%AD%E5%8D%8E%E4%BD%9B%E5%9B%BD

    ▶︎大中華仏国について補足ツイート。  開祖・石振順の嫡子たる第二代教主・石懐珍は、「頂盤老祖」の生まれ変わりであると自称。石懐珍の死後、第三代教主・石頂武は就任当初、「劉先生」の生まれ変わりであると自称し、「普衡法渡主」と名乗った。石頂武は「普渡積善堂」を建立、信徒に対しこう述べたという。  「袁世凱は83日しか帝位を保てなかった。それは天命であり、私が帝位を称したのもまた天命である」  石頂武は国民党在籍期間中、湘潭県県党部・二区区党部宣伝委員・直属区委員長を担当また、中国国民党中央執行委員会調査統計局所属の特務機関にも属し、当該統計局所管「中国文化社湘潭分社」社長に就任。同時期に教団内部における教主権を強化、国民党内部にも勢力を拡大し、国民政府軍事委員会調査統計局特務組長兼国民党軍団長兼湘贛鄂辺区反共自衛救国軍司令の陳德炎を入信させることに成功、湘潭の国民党幹部を次々と取り込んだ。国民党組織を利用して石頂武は更なる布教を展開、教団は長沙にまで浸透した。  1947年、石頂武は大中華仏国の成立を宣言。

    ⚫︎道徳金門皇帝

    皇帝=雷金安  前身は河南・湖北・安徽三省に勢力をもった教団「道徳金門(あるいは金門道)」。雷金安の父・雷清友は湖北省麻城県の地主であり、当該教団の主要幹部となったが、1951年2月、東河区人民政府に処刑される 。

    雷金安は8歳の時より父・雷清友および教団幹部から「英才教育」(意味深)を受け、成人後、治病・災難除去などの手段を用いて信徒をつぎつぎに獲得。麻城県周辺の県に浸透。

    1950年、「金をつまれて入信した」(爆)隣県の郷長・夏德普は雷金安に対し、「道徳金門開国軍」の設立を提唱。雷金安は夏德普の提言を是とし、夏を軍師に任命、開国軍を正式に設立。雷金安は総司令を自称、主要幹部の尹金書を副指令兼統兵元帥に任命。

    1952年3月13日、雷金安は雷氏の祠にて皇帝に即位。20余名の幹部が参列したという。上記の夏德普・尹金書以外の主要幹部を丞相・七十二殿閻王・五大将軍に任命。短期的には近隣諸県の官庁を制圧、長期的には西安の制圧し、国都とすると宣言。

    1952年4月30日、開国軍は軍事行動を開始。劉家廟にて一人を殺害、四人に重傷を負わせた。被害総額は一万元に達するという。事態を重く見た湖北省人民政府主席・李先念は《关于严厉取缔反动会道门的命令》を発令。

    同年5月1日、罗田項家河区委員会書記・馮貴秋は50余名の警官を指揮し、開国軍の鎮圧に出動、5月11日に鎮圧を完了。主要幹部はすべて逮捕した。

    1953年2月、雷金安および30余名の幹部は極刑に処された。総計70名が裁判にかけられ、刑に服したというで、正式に皇帝をなのる人はこれからです(汗) それと、道徳金門は最盛期に信徒1万人に達したそうです。

    道徳金門皇帝=丁興来  丁興来は湖北省麻城県張家畈鎮丁家南冲村南冲埦の出身。1943年に入団、1953年に逮捕され、5年の徒刑を言い渡される 出所後、丁興来は教団の復興を画策、1980年より実行に移し、やはり妖術を使って信徒を増やし、1981年夏、帝位につき、愛人の子・沈洪蘭を宰相兼凌霄宝殿統兵元帥兼靠山大王に任命(爆) 年来の同志の張漢波を凌霄宝殿二路先鋒元帥兼西天瑶池宫殿紅科道員に任命。当日の夜、複数の女性を強姦。そののちも四回即位式を挙行し、毎回女性を強姦 教団は順調に発展し、1990年には湖北・安徽二省の三つの市、八つの郷鎮に勢力を保持。1990年夏、湖北麻城市公安は鎮圧に乗り出し、成功する。

    ソースはこちら。 道徳金門開国軍 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E5%BE%B7%E9%87%91%E9%97%A8%E5%BC%80%E5%9B%BD%E5%86%9B 丁興来  https://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%81%E5%85%B4%E6%9D%A5

    ⚫︎大有国(1985)

    皇帝:曾応龍    四川省広安県(現広安市)の人。

    1985年、政府の推し進める一人っ子政策に不満を抱いた広安県の農民の牛大全・馬興らはデマを流して民衆を煽動。曾応龍は同時期出稼ぎのため県外に滞在。広安県で実施されている一人っ子政策を避けるため、妻子を連れ河南省新郷市へ移住。新郷市を拠点とし、広安県でデマを流す。主なデマは以下の通り  1大きな鯨が烏江中流に位置する観音岩より出現する  2観音岩の中から「仮龍沈,真龍昇。河之南、降太平」という童謡が流れる。

    同志(笑)の馬興・牛大全は童謡が書かれた黄綾の布を鯨の腹中に埋め、観音岩付近に死体を流し、発見して集まった民衆の前で、道士に身をやつした馬興が布を取り出し、玉皇大帝の思し召しであると宣言。「真龍昇」が曾応龍を指し、「河之南」は天子、ここ新郷こそが天子の所在地であると述べる。
    まもなく馬興は民衆をひきつれて曾応龍を迎え、黄袍を民衆に着せられた曾応龍は広安県に帰還して即位式を挙行。「みなが所有する」の意で国号を「大有」、1985年の年号を太平元年と定める。

    また、詔勅をくだした。内容は「土地があれば皆で耕し、金があれば皆で使い、子供は産み放題(爆)」。牛大全を宰相、馬興を太尉に任命、湖南・四川・貴州の省境に位置する三つの県を領土とした。  大有国は一人っ子政策反対を国是とし、農民層を煽動。同調者が増加する。頃合いと見た曾応龍は帰順者数千人を「御林軍」と名付け、広安県の制圧を企図。こん棒などの武器を携えた御林軍は県の病院を攻撃。院長を駆逐し、医療従事者を全員捕虜とし、院内の避妊用具をすべて焼却した。  曾応龍はまた、病院を行在所と定め、女性看護師を全員後宮に入れた。

    事態を重く見た広安県政府は解放軍を鎮圧に派遣。大有国は抗戦するものの鎮圧された。宰相牛大全は戦死、馬興は入水自殺を図るも未遂。皇帝・曾応龍とともに逮捕された。  馬興は死刑、曾応龍は無期懲役に処され、大有国は滅亡した。 ソースは https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9C%89%E5%9B%BD

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