• 袁庚先生とその理想主義改革

    by  • February 2, 2016 • 日文文章 • 0 Comments

    何清漣

    2016年2月2日

    全文日本語概訳/Minya_J Takeuchi Jun

    https://twishort.com/qQRjc

    袁庚先生(*深圳蛇口工業地区の開発を成功させた指導者。中共改革派、1917年4月-2016年1月31日)がなくなられたという知らせに私は中国を去る直前の3年間を思い出しました。
    私が袁庚先生と知り合ったのは先生が「改革の先鋒」として大活躍していた時期ではなく、もう引退されてのちのことです。ですからある意味「無名人としての交友」だといえましょう。私の「现代化的陷阱」(1998/邦訳;「中国現代化の落とし穴―噴火口上の中国 」2002/11)が縁となって先生とその深圳・蛇口地区の改革の数々の伝説に関して長い話をうかがったのですが、さらには改革の別の一面、紅色貴族権力資本主義の始まりから、形成、その将来について、つまりその暗黒面についても話し合いました。

    1998年の夏、知り合いが袁庚先生が私に会いたいといっている、と伝えてきました。私はすぐにでもお尋ねします、と電話番号を伝えてくれるように言いました。その次の日、電話で約束して午後2時ごろ運転手が迎えにきてご自宅に参上しました。以前から取材で知り合っていたこともあってかとてもきさくに迎えてくださり話題はほんとうに多岐にわたりました。最初は広い客間でお茶をいただきお話していたのですが、私が外が広々と見えるベランダ側の大窓にチラチラ目をやるのに気がついたのでしょう、広々とした海やはるかな山並みがみえるベランダに小さな椅子とテーブルを持ち出してくださり、そちらでお話をつづました。穏やかな海風に吹かれていつのまにか三時間も話し込んでしまいました。それからというもの、袁先生は1、2か月ごとにもし暇ならおいでなさいとお誘いがありました。ほとんど私がお訪ねしたのですが一度だけ「いつも来てもらってばかりでは失礼だから」と拙宅にもおみえになりました。

    1980年代の深圳・蛇口地区の改革の話は何冊も本が出版され、長編のレポートも、専門記事もあります。袁先生と知り合いになる前に、私は蛇口に、中国青年報から蛇口通信報に移ってきた郭建新や魏海田といった友人がいましたが、彼らが袁先生の昔の改革にまつわる話をするときは畏敬の念をもって言及していました。でも若かった私は「普段着のおつきあい」でしたから袁先生はまるでお隣に住む親切なおじいさん、という感じで可愛がってもらったのです。

    一番深い思い出は何度かお会いしたとき、一緒に蛇口に行こうと言われたことでした。私はそのとき笑って蛇口地区には少なくとも5,6回はいったことがあるからよく知ってるし、先生はお元気でも車で長時間、あちこちいくのはお疲れでしょうと申し上げたのですが、袁先生は「自分と一緒に行けばちょっとちがうかもしれんよ」とおっしゃりました。そこで私はやっと袁先生は昔の思い出の地をまわっていろいろお話なさりたいことがあるのだと気がつき、この蛇口工業地区の創設者にガイドになってもらって同地区みてまわることになったのでした。

    その日、袁先生は極めてお元気で、行く先々でその建造物群たとえば蛇口工業区の最初のホテル(たしか南海ホテルとか)、世界の豪華客船の立ち寄る場所になっている山に面して建てられた亀山別荘地区とかでその由来を話してくださいました。亀山別荘地区では建築当時はシンプルで居心地のいい別荘をつくって、各方面のお客さんを接待しようとした、とかかつって誰それがきたとか。私も深圳取材で「走向未来」叢書の包遵信氏(*改革派の著名出版人。のち弾圧される。1937年9月-2007年10月28日)らときたことや次の年は馮蘭瑞女史(*経済学者/学問の自由を主張した党員)についてこちらに三泊したことがあって、そのころの宿泊客名簿はまるで80年代中国の改革開放の風雲児たちのサイン帳のようだったとお話しました。この話は袁先生にそのころのことを思い起こさせ、話は権力とその善悪の話になりました。

    袁先生は「あなたのあの『現代化の落とし穴』のメインテーマは権力の悪についての問題だが、実は権力は悪にもなるし善にもなる。あなたは権力をもったことがないから権力というものの良さをご存じない。でもごらんなさい、この蛇口はもとはただの荒地だったのを自由に解放してビジネスマン中心にしてからどんどん工場やビルがたって高層建築になって道路も整備されて各地から人材がやってきて多くのよいことが始まって、鄧小平改革の良きモデルになったんだ。これが権力がよいことをした例だよ」といいました。さらに話は制限を受けない権力は必ず悪になってしまうという問題を話しあいました。

    袁先生は博覧強記の方ですくなからぬ西側の名言を引用されました。そして最後に広州のあるメディアが自分に取材したインタビュー記事をみたかどうか、それをどう思ったかと聞かれたので、率直に自分の見方をお話しました。

    こんな内容の話をいたしました。

    ;このころ既に深圳のメディアはとっくに蛇口工業地区の昔の改革の話を掲載することはできなくなっていました。ちょっと離れた(といっても地理的な意味ではなくて)広州で掲載できただけでも大したことでした。しかし、こうした状況のもとではそのインタビュー記事も本当のことを書けずいいわけに終始するのでした。蛇口の最初のころの成功はその真髄が自由な自治に任せたことにあったとは書けないで、その衰亡もまた本当の原因には触れられなかったのです。

    その原因というのは浅い見方でいえば蛇口の行政的地位が大変気まずいもので、鄧小平の改革理念の実践における一種の「飛び地」だったことで深圳市と広東省はどちらもこの土地に対して自分たちの行政管轄権がおよばないことに不満をもっていました。鄧小平がいた間は問題はなかったのですが、トップからのそうした保護の力がよわまると厄介な問題がいろいろでてきました。深くいえばこの中共の体制というものは異質なものを許容できないということです。あなたのおっしゃる言論の自由は「法律が禁止していなければ自由」といいますが、しかし政治改革を口にするだけで体制側から見たらもうそれは行き過ぎ、なのです。鄧小平は指導者のなかでは一番もっともそうした体制のなかから遠いところまで行った人ですが、あなたはその鄧小平よりもっと先にいきました。これがまさに問題でした。中国の改革は本来は二つの面があって正しい道と邪な道があり、双子のようなものでした。正道はつまり胡耀邦であり趙紫陽であり、あなた党内改革派の堅持した道であって、みんな経済と政治を通じて先生制度を次第に権力を減らして開明的な専制制度に変えていき、さらに開明的な専制のなかで民権という理念を育て、最後に上から下への民主化を完成させたいとおおもっていました。邪道というのはつまり紅色貴族権力による資本主義であり、つまり私が「落とし穴」で分析し批判した道です。そして正道をずっと歩もうとしたならば必然的に”天安門”にいきつき、中共の政治的合法性とあのころすでに生まれつつあった紅色貴族資本主義に対して挑戦することになり、この二つの道は必然的に衝突するのです。天安門事件で鄧小平は趙紫陽を片付けてしまいましたが、あれは事実上自らの手で改革が生んだ赤ん坊の健康な方を殺してしまったと同じことです。改革の未来の道はあのとき事実上決まったのです。

    このように申し上げました。

    その日はずっと夜の8時半ぐらいまでお話しました。お別れする前、袁先生は「清漣、キミがそういうのはたやすいんだ。だってこの体制と私たちのように血肉の関係にはないからね。でも私たち老人にはとても難しいことなんだよ。青年時代から私たちはこの革命に命をかけてきたし、ひどい打撃もこうむった。失望もした。でもどんなことがあっても私たちこの世代の党内の老人は一世一代この党のために、この国家のために頑張ってきた。だから思想的に決定的に決裂するのは身を切られる思いがある。この痛みは君たちの世代にはわかってもらえないだろう」とおっしゃいました。

    私はこう申し上げました。

    ;「いえ、実は理解できるんです。私が「落とし穴」を出版した後、李鋭、任仲夷、李慎之、朱厚泽といった中共の古参党員の改革派の人々たちとよくお話したのです。みなさん深圳までくると私に会いたいとおっしゃいました。で、一緒に改革の過程であらわれた腐敗や権力の私物化といった現象を深刻に心配しておられ、それをどうすることもできないことに深い焦慮を抱いておられました。ですから私はこうした改革派のご老人たちの気持ちはわかりすぎるほどわかります。そして袁先生やこうした方々がおられたということに中共革命の20世紀における歴史に、かつては光明の一面もあったのだということを知ったのです」と。

    2000年以後、私をめぐる環境は急速に悪化していったとき、袁先生はときおりお電話を下さったいつもどうしようもないという口調で「みんなそのうちよくなるだろうよ。気分が晴れなければうちにきなさい」といってくださいました。当時、私はいろいろな事情が多すぎたのと、ある公安局の親しかった友人が実は袁先生も監視対象になっているとそっと教えてくれて、きみと袁先生の交友は深圳市のとある部門はピリピリしているというのです。この話は本当だと思いました。だって私と袁先生の間柄はメディアにでたこともなくほとんど誰もしらない話だったのですから。この友人の話はきっと監視情報が公安局内部に流れていたのでしょう。袁先生に迷惑をおかけしないためにも私は袁先生のお宅には伺わなくなりました。袁先生からお電話を何度もいただきましたがいつも忙しくて、とか申し上げていましたが、袁先生もそのうち何かお感じになったのでしょう、もう我が家にいらっしゃいとはおっしゃらなくなりました。

    2000年6月に米国の国際訪問の招きをうけて米国へいったあと私が働いていた新聞社の中共市委書記の張高麗がみずから私を解職し俸給を下げ、記事を発表禁止にしたあと、私は自分から深圳の友人たちとの一切の交流を断ちました。当然、そのなかには袁先生も含まれていました。そして7月中旬に北京の国務院2000年マクロ経済情勢検討会に出席したあと、北京大学で不可解な”交通事故”にあって、息子と一緒に怪我をして、私は足の骨が折れ自宅で休んでいる時、「万科週刊」の单小梅から電話があって「袁先生がきみのことをとても心配しているから会いに行くべきだよ、彼はこんどきみがアメリカに行くと国内の圧力でもう戻ってこれないからもしれないからきみにもう会えなくなるだろうって」というので袁先生にお電話してお伺いすることにしました。

    袁先生は息子ともども自宅によんでみずからドリアンを切り分けてくださり、いろいろ慰め励ましてくださいました。このときもう私は中国を去る決心をしておりました。そのわけは息子をこれ以上、この極めて不安全な暮らしにおきたくなかったのです。で、その話を先生に打ち明けました。私たちが帰るとき見送りにでてくださった先生に、どうか安心してください、私は自分たちの面倒はみられますから。でも先生のところにはなかなかこられないとおもいます、と申し上げました。袁先生はただしっかり私の手を握って「身体だけは大切に」とだけおっしゃいました。夕暮れの車窓から先生の姿をみたときに多分これが先生にお会いする最後だろうとおもっておりました。

    2001年6月下旬、私は米国に着きました。シカゴ大学を訪問中に袁先生からお電話をいただきました。どこから電話番号を聞いたかとかは聞きもしなかったです。いろいろこちらを気遣ってくださったあと、先生は私がまだ中国に戻れるのかどうかをお尋ねになりました。私は、もう中国に戻ることはできません。まず仕事がないでしょう、国家安全部の監視のもとで中国のどこの街へいっても仕事はえられませんから生きていけませんし、また終日監視の下で暮らすのはとても我慢がなりませんから、と申し上げました。袁先生はそれをきいてもう何もおっしゃらず、ただ「米国でやっていけるかい?」お尋ねになりました。私は「やるだけやってみますよ。でも米国というところは木の枝の葉っぱでも挿し木したら芽が出るといいますから、自分が努力したら大丈夫ですよ」といいました。袁先生はこれをお聞きになったあと「清漣、ほんとうにすまない。助けが必要なときに私は何もできなかった。もう一生会えないんだろうねえ…」とおっしゃいました。私はその夜、眠れませんでした。

    このあと十数年、今や私は「中国に敵対する外国勢力」であり「国家の敵」ということになっていますから、自分からは中国にいる旧友に連絡をとったことはありません。いま袁先生が99歳でみまかられたという知らせに接し、悲しみに言葉もありません。いまの中国は袁先生が生涯をかけて奮闘してこられた目標とあまりにも違いすぎるからです。蛇口ビジネス招聘局がネットに袁先生への弔辞に「袁先生もうこの世におられないが改革は続く」という言葉がありましたが、袁先生はもとより現在の中国人、この言葉を書いた人もふくめてみな中国の理想主義的な改革はとっくに死亡し残っているのは”改革”というカラ文句だけだということをはっきり知っています。中共80年代の理想主義改革を象徴する人物として袁先生はそのころの中国人が改革の正道を歩む希望を担っておられました。90年代中後期には理想主義改革はもはや存在しませんでした。いま、袁先生がこの世を去られたことは、あの世代の理想主義的改革を体験した人々の改革に対する思いの最後の一糸もまたともに失われたと言えましょう。(終)

    拙訳御免。
    原文は;袁庚先生与他的理想主义改革  http://www.voachinese.com/content/he-qinglian-blog-yuan-geng-idealism-20160201/3172770.html

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