• 共産中国の扇動した50年前の香港暴動

    by  • February 27, 2016 • 日文文章 • 0 Comments

    何清漣

    2016年2月18日

    全文日本語概訳/Minya_J Takeuchi Jun

    https://twishort.com/oMXjc

    香港の旺角の新年における警官隊と民間の衝突事件以後、香港の学者らが政府にこの衝突の真相と原因、今後の防止策を調査する独立委員会の設置を要求しました。彼らは50年前の弥敦道(Nathan Road)の騒擾事件で当時の香港の英国政府がつくった九龍騒動調査委員会のようなものを今でも作れて、原因を調査しその報告に基づいてコミュニケーションと行政を改善できるたのだから現在の政権にもできるはずだ、と思っています。この連署書簡の要求は大変、理にかなったものですが、ただひとつ、署名者たちは北京政権の代理人である現在の香港特区政府と英領香港時代の英国政府を「杭州を汴州と間違えている」のです。《*汴州(開封)は後梁、五代政権、宋の都だったが、金に攻められて杭州に逃れた政権幹部は都奪回を忘れ、日々浮かれ騒いでいた、という故事がある》

    ★北京は香港67暴動(1967、*文革時代)の黒幕だった

    多くの今の中国人は香港67暴動についてよく知らないでしょうから、まず簡単に紹介しておきましょう。
    1967年5月6日、香港で始まった”67暴動”はそれぞれの立場が違う人々によって名称は色々で”67左派労働組合暴動””香港五月風暴”とも、参加者によっては”反英抵抗暴動”ともいわれます。その発端は1967年5月に九龍の新蒲岗のプラスチック工場でおきた労使紛争でした。最初はストライキからデモだったのが後期には暗殺や暗殺リスト、仕掛け爆弾にまで発展し、51人が直接暴動で死亡、800人が負傷しました。

    その後7ヶ月にわたった「反英暴動」は明らかに文革的色彩を帯びていました。例えば5月7日、香港の労働者、労組の代表と支持者らが街頭集会を開いたときには大陸の文革のやり方を真似て「毛主席語録」を掲げ、中共のスローガンを叫びました。香港の左派は直接、北京からの指示を受け中国大陸と呼応し、大陸各都市でも「香港の暴力に抗議」を指示するデモが行われ、英国の中国事務所は紅衛兵によって破壊されました。香港の商業放送のキャスターの林彬が番組の中で左派の暴力を批判したところ、数日後本人と弟が火炎瓶を投げられ焼死したのはこの暴動のシンボリックな事件でした。12月に周恩来が左派にちょくせつ爆弾攻撃の流行を停止させる命令をくだしてようやくこの暴動は終わったのでした。

    この間の歴史については参加者はいささかも隠そうとはしておらず、多くの本で事実があきらかにされています。例えば「地下陣線;中共の香港における歴史」、「周恩来と香港67暴動の内幕」「67暴動ー香港戦後史の分水嶺」などです。香港の復帰以後の政治情勢に対する感じ方の変化によってこの暴動への評価はますます両極端になっています。

    ★香港67暴動と今回の旺角衝突事件の違いについて

    67暴動の参加者はすべて親中共派の左派人士でしたが、それぞれの後色々違いますがあの時期を回顧するにあたっての運動への評価は同じではありません。しかしすべての回顧のなかでも以下の歴史的事実はテッパンと言えます。

    1;中共政府と香港左派人士の上下組織関係

    1945年の「香港光復」以来、共産主義を指示する勢力は香港で活動を開始し、たとえば労働組合や労組連合会などを組織しました。1950年代、中共の大陸での勝利とともに、大量の中共の政治、労組関係のメンバーが香港入りして活動し、香港に残った国民党軍政のメンバーと対決しました。香港人の左派というのは親共産人士であり、右派は親国民党人士でした。

    香港の文化界とメディア界の左派人士、および香港の労働組合連合会などの左派組織が中共の指導を受けていたというのは秘密でもなんでもありませんでした。元の香港文匯報副編集局長の金尧は1989年、中共と決裂後著した「香港50年の思い出」で当時の中共の香港における地下活動の詳細を描いています。67暴動については、左派陣営は5月16日に「港九各会同胞英植民地統治に反対する闘争委員会」(闘委会,104人)を組織し、”武装闘争”によって英国植民地統治に反対することを主張し、その責任者は香港工聯会秘書長の楊光でした。闘委会メンバーは自分たちの実際お指導者は新華社香港分社の名称で香港で活動しており、広州の情報治安機関の中共香港マカオ工作委員会だということを公然と口にしていました。「67暴動の旗手」といわれた楊光は、2001年、香港特区政府から大紫荆勋章を「労働運動に貢献した」との理由で受章しています。

    2;北京は世論と行動で香港67闘争に支持を与え、不断に波乱をつくりだした。

    67暴動は香港左派の文匯報、太公報などの新聞の持続的支持を得たばかりでなく、人民日報の強力な支持を得ていました。たとえば6月3日と10日には香港左派の対英闘争支持の社説が掲載されています。

    8月20日午後、中国外交部は直接、顔をだして英国政府に対して48時間以内に三つの香港新聞に対する出版禁止命令を取り消し19人の拘留された香港の記者を釈放せよ、、これが容れられなければ一切の責任は英国政府が負うべきである、と時限回答を迫りました。そして8月22日午後の48時間の期限がくると、英国の北京事務所が紅衛兵によって放火され、駐在大使代理が紅衛兵に殴打され、毛沢東の像の下でひざまずくように強要され、彼は断固拒絶したのでした。

    暴動の期間中、周恩来は何度も直接命令を下し、行動原則を決めていました。闘委会成立のその日、中共政府の組織の下に北京では40万人群衆が英国の代理大使駐在所でデモをし、周恩来はデモの前にデモ隊は厳格に「衝突せず、侵入せず、物を破壊せず」を守るよう外交部に指示を与えた。7月10日には周恩来は香港では「武力を使わない」という毛沢東の指示を伝えました。

    この50年前の67暴動に比べて、今回の旺角での新年の衝突は警察を襲えと指示した地元の民主前線というのは実際は香港の雨傘運動後にできた60人のメンバーによる小組織で、その9割が1990年以後に生まれた青年たちです。組織のできぐあいからして、はるかに67暴動時の各種左派組織と比べ物になりません。その背景をみてもいささかも「国外勢力」の支持もありません。「武力を持って暴力を制せよ」というスローガンを唱えたものの、その武力行為というのはせいぜい石やレンガ投げつけ、棍棒を使う程度で、67事件当時の大量の時限爆弾や暗殺といった暴力とは天地の差があり比べ物になりません。

    しかし、特区政府の連署書類に対する返事にはこのふたつには違いがあって、それは国外勢力の支持があったとか暴力の程度の差ではなく、それは性質上のもので67暴動は中共が指導して、相手は英国政府だったからあれは愛国的な運動だったが、今回の地元反対派は中共政府と香港特区政府に対して反対するものであるから暴乱である、というものでした。

    ★植民統治政府と専制独裁政府の政治的反対にたいする差別

    ここで最初に書いた問題に戻りましょう。すなわち署名者たちが北京政権と英国政権にたいしてその性質の違いを混同しているという点です。

    大英帝国は香港の植民統治を作るにあたって、基本的に他の大英帝国植民地と同様にしました。たとえばガンジーの非暴力闘争の対象となったインドの植民政府です。歴史が証明していますが、ガンジーの非暴力闘争も時には暴力事件に発展してしまって、英インド植民地政府の暴力的弾圧をうけたこともありました。しかしなんといても、政治的反抗者にたいする英国政府の措置と中国政府の暴政は極めて大きな差がありました。この一点は中国式の暴政についておそらく教わったことのない外国人にははっきりわからないでしょう、しかし、専制独裁政治の下で戦ってきた中国人にははっきりわかっています。ですからそこからでてくる結論は、ガンジーの非暴力非協力運動に大いに感動する所以は、英国のインド植民地政府の文明のレベルの高さ、法治と進歩になのです。中国ではガンジー式の反抗は絶対に成功は不可能だからです。

    こうした認識はもう1949年、中共が政権を取る以前からありました。たとえば魯迅は「ガンジーの劇は舞台を選ばないと成功しない」と言いました。魯迅からみればガンジーが中国の獄中で断食をして抗議したところで、結末はもう「自分が好きで飯をくわないんだから、別に他人とは関係ない。われらの仁政と関係ないし、食料節約になって監獄的には助かる」といった話になってしまうでしょう。魯迅の生きていた時代ではまだ鼻から栄養を無理やり管を通じて与える技術はありませんでした。いまなら中国では反抗者はハンストする権利すら剥奪されているということを知ったら魯迅は言葉もありますまい。

    専制独裁政府の論理というのは「自分たちだけが暴力で反対派を鎮圧する権利があり、いかなるたの組織や個人が我が党に対してノーということは決して許されない」です。ですから、中共がかつて自ら画策した香港の67暴動は爆弾を使おうが、連続暗殺をやろうが、死亡者が51人も出ようが、それでもあらゆる言辞を弄してその政治的正当性を主張し、さらにそのうえに「反英抵抗」の愛国主義の花束まで載せるのに対して、一人の死亡者もいなくとも「暴動」の名前をかぶせて参加者を速やかに厳罰に処するわけです。同じ政権が50年の年月をへて、本当の暴動と小さな騒ぎに対してこの違った態度をみせるのは、ただただ中共が事件の中で果たした役割が異なっているというだけです。67暴動では中共は反対陣営の大黒幕、いまや中共は攻守ところを変えて、香港人の反対をうける特区政府の黒幕、ということです。

    香港特区政府がもし自らを一国両制度の産物だとおもっているのであれば、今回の事件の参加者にたいする処理で香港市民と北京の上意の間でバランスのとれた一点をみつけなければなりません。さもなくば香港は不断の動揺の中に置かれることでしょう。(終)

    拙訳御免。

    原文は;北京政府与相隔50年的两次香港暴动 http://biweekly.hrichina.org/article/31929

    About

    Leave a Reply

    Your email address will not be published. Required fields are marked *