何清漣
2016年5月17日
全文日本語概訳/Minya_J Takeuchi Jun
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今年は 文革50周年です。そして文革の開始だと公認されているのは「5.16通知」の今日です。で、海外、中国国内でもメディアには多くの文章が掲載されていますが両極化しています。中国内の主なものは左派による文革なつかしや調で、海外の中国語メディアは批判的です。このほかには最近の習近平の個人崇拝、政治的弾圧による迫害が文革回帰への兆しではないかというものがあります。
文革は果たして中国に再び戻って来るのでしょうか?それを論ずるにはまず文革はなんだったのかということをはっきりさせなければなりません。この問題について長年、私は考え続けてきましたが、文革とはつまり、中国人が最高権力の皇帝の号令一下、現存した秩序を暴力によって転覆したのだと思っています。
中国の”文化”において、「力崇拝」という源流ははるか昔に遡るもので、大変根の深いものです。この崇拝は両極の表現を呈するもので、ひとつには権力への崇拝、極みは皇帝権力への高い崇拝です。そして二つ目は暴力への崇拝でこれは中国の江湖文化(*ジジ注;…適当な訳が思いつかんです。ヤクザ文化?御法度の裏街道文化?任侠文化?)にはずっと存在し続けています。たとえば水滸伝の英雄、遊侠文化やギャング文化への崇拝です。もし文革を定義する必要があるならば、「文革は権力と民間暴力が中国において千載一遇の好機を得て大結合したもの」といえるでしょう。
文革の性格と、その発生した当時の社会的条件をはっきりさせることで、我々は文革がまた中国に戻って来るのかを明らかにすることができるでしょう。ポイントは権力と民間の暴力が手を結ぶことはありうるのか?つまり権力は民間のやり放題の暴力を放埓に任せるかどうか、です。
★1;個人崇拝は権力崇拝の形式の一種にすぎない
現在、多くの人々が習近平の権力集中、個人崇拝の奨励を批判し、これは独裁政治体制を樹立しようとするもので、この点で文革回帰に結びつけて批判しています。
習近平の権力集中が独裁を招くという批判は、集団指導であれば独裁ではなく、一人の個人の専断こそが独裁であるという仮定に基づいています。これに対しては以前、政治学の独裁の定義は以下のようなものだと指摘しておきました。
;一人または少数のグループが絶対政治権力を握り、牽制や法律の制限を受けない政治体制;このような政治体制は一人または一グループにより専断統治がおこなわれ、異なった弾圧機構をもってその政治権威を発揮させる。第一次世界大戦以来、世界の独裁政体は、20世紀60年代のアフリカ各国が民族独立解放運動を経て、いろいろ違ったタイプの独裁、たとえば宗教独裁、家族独裁などが発展した。
中共政府はその政治的な実績によって世界に中国の政治体制はまさに独裁政治であるとはっきり告げています。毛沢東の個人が権力を独占した統治形式であろうと、鄧小平がはじめ、江沢民、胡錦濤の時期におこなわれた集団指導体制、すなわち寡頭共同統治 ーメディアのいう「九匹の龍」統治にせよ、いずれも中共の独裁政治という本質は変わりません。
習近平は別に独裁政治に回帰したいわけではないのです。なぜなら彼が受け継いだ政権がすなわち独裁政治体制なのですから。彼はただ寡頭独裁を個人独裁にしたいだけなのです。世界の近現代史をみると独裁政治では個人独裁と宗教独裁では比較的容易に個人崇拝現象があらわれます。たとえば、スターリン、毛沢東、ホメイニです。
政治的迫害も別に文革の専売特許だったというわけではありません。これも専制独裁政治には共通するものです。毛沢東が中共政権を樹立したその日から中国の政治的迫害は現在までとまったことはありません。違いは時には比較的緩やかで時には厳しいという違いです。各種の運動の期間中、政治迫害は大変集中的に、規模もおおきなものになり、迫害をうける人々の数も増えます。反右派闘争、文革、天安門での運動が鎮圧されて以後、政治的迫害は大変、緻密で集中的なものになりました。文革時期にはトップの意向がしばしば変わるので、政治情勢の変化も早すぎて、ある波のきたときに迫害者側だったのが、次の波では被迫害者になったりしました。文革を懐かしむ人々の多くは文革での最終受益者たちです。
★2;中国伝統の遊侠江湖文化の暴力崇拝と皇帝に共通する深層意識
歴史上、どの民族も無知蒙昧な時期には原始的な暴力崇拝の時期をへて、文明が成熟した後には皇帝や王様の権力崇拝に変わり、そして権力の代替物にあたる任侠道的なものへの崇拝といったこともある程度見られます。フランスには怪傑ゾロがいたり、米国の西部劇でもそうですし、中国の遊侠文化もそうです。文明が現代の法治時代にはいるとこの種の任侠暴力伝説が現実世界に与える影響は薄まってきます。
中国の遊侠文化は遊民社会の産物です。中国の遊侠文化は戦国時代にはじまり、前漢後漢時代には一種の社会現象を形成し、統治者にとっては頭の痛い問題になりました。というのは前漢後漢時代には遊侠文化は中国では巨大な社会的影影響力をもっており、かつ一種の精神のありかたであり、よりよい暮らしの追求であり、かつある種の文化現象になっていたからです。(王学泰の「遊民文化と中国社会」参照)
遊侠文化が歴史の舞台でどうあらわれたかはそれぞれの時代で違っており、内容は次第に豊富になり最後には「水滸伝」にあらわれる「貧しきをたすけ、富者から奪い、天に変わって道を行う」とか、王朝末期には陳勝(*秦代末期の反乱指導者)の「王侯将相寧有種也」(王や諸侯、将軍、宰相になると生まれた時から決まっている訳ではない。誰でもなることができるのだ)と農民蜂起のスローガンになりました。
しかし、王朝を倒そうとした農民一揆にしても往々にして他の形をとった権力からの支持と合法性をかちえなければなりませんでした。ひとつは「神の力」であり、ふたつは、皇族や皇帝の子孫といったメンバーを戴いて大衆へのアピール力を強化するといったことです。西漢末期の緑林赤眉軍には皇族の血統だというので牛飼い少年の劉盆子を無理やり「皇帝」に擁立したことさえありました。
しかし皇帝と遊侠権力は別のもので互換性ははありません。反乱者は皇帝の玉座を夢見ても、皇帝が逆に遊侠の首領になりたいなどとは思いませんでした。せいぜい、うまく自分のためにこれを利用しようとしただけです。反乱者たちが旧世界を破壊するときの暴力はすざまじいもので唐末の詩にも「天街踏尽公卿骨,内库烧为锦绣灰(街は貴族の骨がころがり、宝物庫は錦が灰になって)」となり、そして反乱者が首尾よく玉座をゲットしたときには「それまで鍬をもってた連中が王座の象徴の笏を持ち、ご馳走をしこたま喰う」と自らの「翻身」を祝うのでした。
朝廷権力と遊侠社会が共存するという現象は清の中期から大変目立つようになりましたが、これは乾隆帝時代以来、人口が劇的に増えて遊民もまた増え、遊民組織にはいることが生活手段になったからです。当時の「朝廷は小さく、江湖は大きい」という言葉の意味は江湖社会が朝廷権力の盲点だったという意味です。しかし江湖が一般状況のもとで朝廷に直接対抗できたりしたことはありません。白蓮教(*清の乾隆 – 嘉慶期には大規模な反乱を起こした)、天地会(明末清初に民間で結成された秘密結社)も朝廷に鎮圧され、漕幇はうまく朝廷と協力しました。それでも皇帝と江湖勢力が協力してことにあたったというのは清末の西太后の思いつきで義和団を利用して西洋列強を追い出そうとした一件だけです。この結果は惨憺たるものでした。それでも西太后ですら、こうした民間の暴力をもって自らの愛新覚羅皇朝を覆そうなどとはしませんでした。それをやったのは毛沢東の文革だけで、「旧世界を打破し、新天地を作ろう」と呼びかけて自分がつくった「旧世界」をみずからぶち壊したのです。
★3;文革の起きたきっかけの1;毛沢東が権力を取り戻したかったから
文革の起きたきっかけは権力側の最高峰、皇帝の権力と民間の暴力が中国歴史上、千載一遇の「出会い」を果たしたからでした。では文革前はどうだったのでしょうか?
文革誕生の契機は、当然、まずは毛沢東が必要としたからでした。一般に認められていることですが、1958年以来の大躍進と経済政策の深刻な失敗で中国では3000万人が大飢饉で餓死し、中国社会に極めて大きな傷を負わせ、中共党内の声望が大いに損なわれた毛沢東は第二線に退かざるを得ませんでした。1962年夏、国家主席だった劉少奇は党主席の毛沢東に「これほど多くの人が餓死しお互いに喰いあう惨状の責任は中共トップのあんたと国家主席の私にあった、と歴史に記録されて残るだろうな」と迫り、毛沢東はこの恨みを忘れませんでした。この後、劉少奇、周恩来、鄧小平らが何年もかけて事態の収拾にあたり、それが終わった時に、劉少奇の中国での声望が上がり、一度は「劉少奇主席万歳」の声まで登場しました。これを毛沢東はみずからの至高の地位にたいする挑戦だと受け取ったのです。そこで「旧世界を破壊せよ」方式で当時の政治構造を破壊し、あらたに権力を握ったのでした。彼は大衆運動の名手であり、文化大革命によって群衆を動かそうと思い立ったのです。
★4;文革のおきたきっかけの2;底辺層の「翻身」の需要
中共が政権を握ってのち、労働者、農民は「翻身」して政治上の優越的な地位に立ちましたが、しかし経済の地位は依然として低く、文化教養も低いままで改善されず彼らは本物の「翻身」に渇望しておりました。
⚫︎1;「ひっくり返った世界をふたたび覆そう」という「翻身」要求
文革の最中、紅衛兵と造反派は常に「ひっくり帰った世界をもう一度ひっくり返す」とアピールし続けました。この「世界」はときどき「歴史」に変わりました。これは中共が土地改革で使用した宣伝文句で、その意味は、解放前、つまり1949年の中共政権成立前の社会構造は地主らの封建勢力と資産階級が支配する世界で労働者と農民は圧迫されており、今、中共指導下の革命によって「身を翻して」「主人」になるというものです。共産革命のスローガンと中共の銃剣による保護のもとで、全国で土地改革とそのあとの商工業の社会主義的改造、「私を公のものに」というスローガンのもとで、郷村のエリート層である地主、富農の土地、財産、若い女性はすべて貧・下中農に分け与えられ、多くの地主が銃殺され、農村の基層政権は教養のない共産党幹部と農民が共同経営することになりました。中国の人口の7割以上は農民で、階層序列の上では「労働者、貧・下中農民、革命幹部」と二番目になって革命幹部より上だとされたのですが、人民公社化によって経済的にはずっと大変貧しい状態のままだったのです。
都市における状況はもうちょっと複雑でした。中共の依拠する対象の「労働者、農民の幹部」たちでは都市の複雑な経済システムを管理運営できなかったのでした。ですから、近現代的な工業、商業のある大中都市では政治上では打倒されブラックリストに載っている「旧社会」のエリートたちの多くがそのまま働いていたのです。例えば病院、大学、中学教員、工場や企業のシステム管理などはみな専門知識が必要ですから。その上、50年代に大学に入学した人には「教育方面での優位」によって、まだ多くの「搾取階級の子弟」がいましたから。また文化演劇の世界も専門領域で旧エリートたちが依然として舞台を占領していました。
こうした状況はときおり、都市住民である労働者や貧民は抑圧感を感じていました。工業商業の社会主義的改造のさいに彼らの「翻身」の願いは中共に激励されて政治的地位も高まったわけで、とりわけ労働者は「新社会の正しい主人公」とされたのに、結局のところただ労働者の仕事を続けるだけで、ごく少数の人間が政治工作の幹部として抜擢されて工場の管理者層になっただけのことで、大多数の主人公たちは依然として「指導階級」の看板をぶら下げながらの肉体労働者だったのです。収入的にも資本家や商工業者や「出身の良くない」文化教育、科学技術の技術者たちのような「政治賎民」たちに及びませんでした。こうした各種の現実生活の中での低下感は、中共が50年代初期におこなった土地改革や工業商業社会主義改造運動の中で感じた「翻身」の高揚感にくらべると激烈なほどのへだたりが感じられたのです。
こうした社会的な気分はもし中共が故意に利用しようと煽らなければ文革時のあれほどの暴力爆発状態にはならなかったでしょう。すくなくとも1964年の中共の大規模な階級闘争教育前には私のいた近所はどこも静かなものでしたし、幹部だろうが医者だろうが、教師だろうが労働者だろうがみなお互いに助け合って融通し合って暮らしていました。誰かの家の子供が病気になって父親がいなければ近所の人がその子を背負って病院に駆けつけました。家に誰もいなくてもご近所同士で注意しあっていたので鍵などかける必要はありませんでした。
⚫︎2;中共の階級教育が社会的な憎悪を生み出した
1964年になると中共が全国的に「階級闘争を絶対に忘れてはならない」という社会主義教育運動を展開し、都市貧民、貧下層中農の政治的優越感を煽り、階級的恨みを表明することが一種の政治的流行になりました。
私自身の体験です。私はもう学校にあがっていて3年でした。ずっと「3つの良い」「5つの良い(德、智、体、美、劳 五好で賞状をもらえる優等生)」生徒で班の幹部として作文では文化祭で市や省レベルでいつも賞をもらっていました。しかし1964年以降、こうした栄誉はみな剥奪され、「出身の良い」(労働者、貧中農出の)成績の悪い生徒に「資産階級の犬の子供」と罵られました。ただ運が良かったのはこうした学生の父親が医者をしていた父に世話になっていたことで、そんなことをしたのがあとでわかると彼らが家で怒られ、してはならないといわれたことでした。また二人の革命幹部の家庭の出身でいつも一緒に学校外の文化活動に一緒にいっていた男の子が彼らが私をいじめるのを見て二回にわたってこっぴどくやっつけてくれたので、この連中も二度としなくなったのでした。
しかし、社会全体の「翻身」への欲望は共産党によって突き動かされてしまいました。「翻身」は当然できることではありませんが、「政治的賎民」をやっつけて自分がちょっとえらくなったような感じを味わうのは簡単なことでしたし、そうした感情が政府から「政治的に正しい立場」だと認定されたのです。(続く)
拙訳御免。
原文は;何清涟:文革毒地依然在,只是缺契机(1) voachinese.com/..16/3332956.html