• 文革は世界共産主義運動の領袖を目指した毛沢東の個人的野望だった

    by  • May 28, 2016 • 日文文章, 程晓农文集 • 0 Comments

    程晓农氏

    2016年5月19日

    全文日本語概訳/Minya_J Takeuchi Jun

    https://twishort.com/Zg6kc

    今年は文革の50周年です。1966年の中共中央による「5.16通知」によって文革の幕が切って落とされ、それから10年間、中国政府が「災禍の十年」と評価している時代が始まったのでした。50年後の今日、文革はまだすっかりゴミ箱に捨てられてはいないばかりか、却ってなにやら怪しい風とともにまた再起しようとしています。現在、文革が再度重視されているとは言えないまでも、文革はまだ死んではいない、というのはまず間違いないところです。実際、文革は良かったというイメージはまだ相当多くの人々が抱いており、また文革の数々の大事な問題はいまもって混沌として不明のままです。若い人々がほとんど知らないというだけでなく、海外での文革研究でもまだまだわからない問題が山積みです。文革が死んでいないことに関して、いささかの探求をこころみ、かつ専門研究者の各位にご教示いただければと存じます。

    ★文革の加害者と被害者再考;「四人組」なぞ悪の根源ではない

    文革勃発についての中共・中国政府側の説明は毛沢東が誤って文革を発動し、「四人組」に利用されて「災難の十年」になったというものです。このいいかたは大事な肝心の問題を回避するものです。

    なぜ、毛沢東は文革を発動する必要があったのか?
    鄧小平は渦中の人であり、文革前の総書記でしたから、1956年から文革に至るまでの毛沢東のあらゆる戦略や意思決定を全部知っていました。まさにそれだからこそ鄧小平は歴史問題について「あまり細かくやらんでざっとでよろしい」といい、できる限り毛沢東が文革を発動した動機問題を避けて通るようにさせました。

    いわゆる「毛沢東が誤って文革を発動した」というのは実際はある種の文革への言い訳が企図されているのです。つまり毛沢東は一時の衝動にかられて自分勝手にやって大きな失敗をしたということにして一時的な間違い、としたのです。そして文革の責任はなるべく「四人組」に押し付けて、毛沢東の罪を軽くしようとしたわけです。これが文革に対する批判の不徹底を招き、文革が未だに死なない主要な原因です。

    その実、文革時期にはこの「四人組」を含むトップレベルや省庁の一級文革幹部、周恩来、林彪などの老幹部はみんな完全に毛の政治道具にすぎず、かつ毛の政治路線の主要な支持者でした。「四人組」自体には大したエネルギーもなければ声望もなく、全く毛沢東の強力な支持があってこその文革政策だったのです。ですから毛沢東こそ文革の唯一の主催者であり災いの大元なのであって、四人組などというのは神輿を担ぎ、ラッパをならして手助けに駆け回っていたにすぎません。四人組が文革を利用して動乱を起こしたというより、毛沢東が四人組や周恩来、林彪などの多くの人間を利用して自分が発動し、維持し、支えた文革のもくろみを完成させたのです。
    文革はまず文化教育領域ではじまりましたから、一番先に打撃を受けたのは文化界と教育界でした。それで「文化大革命」と呼ばれています。文革は西側文明からきたものを綺麗さっぱり一掃しただけでなく、ソ連から自分たちが学んできた現代共産党文明も一掃し、さらに中国で何千年も続いてきた伝統文明も批判しました。この意味においては文革は文明を消滅させる政治運動だったと言えます。

    そしてあらゆるこれまでの文明にとってかわったものはすなわち毛沢東の個人崇拝と盲目的に服従するという中国文明の無価値なもの、つまり愚昧文化です。しかしこの文革とよばれる政治運動は文化界や文化教育領域の限界をはるかにこえた革命であって、実際は中共が政権掌握後に樹立した政治社会秩序、すべての社会の隅々まで揺り動かした政治運動でした。
    1978年12月、葉剣英が中央工作会議で文革は1億の中国人が”吊るし上げ打倒された”(原文は「整」、殺されたから殴打、侮辱その他幅が広すぎて適当な訳語をおもいつきませんでした)された、と語りました。文革時期の被害者はまず都市や農村で生命を脅かされたいわゆる「階級の敵」で、「黒五類」から「黒7類」、さらには「黒9類」にまで拡大され、さらに文革初期に北京の老紅衛兵に殺されたり怪我を負わされたこの分類には含まれていない中学や高校教師、群衆の武闘中に怪我をしたり死んだ人々です。

    次に、個人の一生を中途で断たれた広大な知識人と機関の幹部たちです。彼らのおおくは「五七幹部学校」におくられ農業をやらされました。さらに文革の被害者は全国の数千万の知識青年や農村の中高生が含まれます。彼らは文革が国民経済を破壊したために正常な就職のチャンスを失い、進学のチャンスを奪われ、知識青年たちは強制的に農村におくられ人民公社の生産隊に入隊させられるか生産建設兵団で労働させられ、農村の中学生、すなわち絶対多数は自分の村で農業をさせられました。

    これほどおおくの文革の被害者が毛沢東の文革の犠牲になったというのは共産国家のなかにも例がありません。疑う余地なく文革の加害者は絶対に「四人組」だけなどということはなく、加害者はハイレベルの毛沢東とその追随者のみならず、中間層の地方文革運動と軍隊の宣伝隊の幹部、さらに民間の底辺層造反派、紅衛兵、さらには普通の農民までふくむのです。

    ある意見では、中共という制度そのものが文革にこうした条件を生んだのは避けがたいことであった、といいます。これはもっともらしいのですが、しかし詳細に検討すると違います。なぜなら人類史上、十数か国の共産党国家があったわけで、その制度のモデルはみなソ連式でした。しかし、どこの国でも文革はおきていませんし、ソ連と中国だけで文革が出現したのです。

    私は文革40周年に、「毛沢東はスターリンから何を学んだかー中ソ文革の比較とその啓示」《毛泽东向斯大林学到了什么?――中苏“文化革命”的比较及其启示》を書きました。そこで私は1928年から1931年にソ連で推進された「文化革命」運動が行われたが、それは文花教育分野に限られ、目的は独立知識人をやっつけることで、文化専制を推進するためでした。この点は中国の文革初期状況に似ています。しかしソ連の文革は文化の陣地をソ連共産党の影響下にある御用文化人に占拠させるのが目的であり、広範な政治的粛清を狙ったものではありませんでした。

    中国では、1966年の文革発生前にも「文化革命」という政府の文書には呼び方はありましたが、毛沢東は独自の創造をおこなって「文化革命」と「政治大粛清」を巧妙に結合させて、「文化革命」の名において「政治大粛清」という中身を覆い隠したのでした。もうひとつの面はソ連共産党の指導者たちの教養資質が毛沢東をトップとする中共より上だったので、ソ連共産党の文革は伝統文化と西側文化までは消滅させなかったのです。どころか労働者農民に西側の文学芸術を学ぶように奨励さえしたのです。

    しかし中共は本質的に毛沢東の指揮下にある農民政党でしたから、実際には文革といいつつあらゆる文明的な要素を消滅させ、愚昧であることを旗印にしたのでした。この愚昧横行という角度からみたならば中国文革時代の数々のめちゃめちゃな社会現象、例えば「忠字舞」(*文革時に広場で踊られた集団舞踊;画像;google.co.jp/se..384&bih=714)といった民間活動は実はべつに四人組がつくったというものではなく、中共という農民等の統治下で遅れた政治文化の産物だったのです。

    ★文革の本質;国中が一人の人間にひれ伏した

    政府が文革を「10年の動乱」としていますが、文革の原因と真相はあまりにも重大なのでしっかりと秘密にされています。ですから若い人は教育を通じては全体の正確な文革についての知識はえていませんし、家庭背景によって彼らが先輩からきいてきた話は違うので文革の印象はバラバラもいいところです。こうした歴史への混乱した認識と無知はまさに当局が必要とぴったり一致します。しかし、それは中国社会の未来において地下に埋められた地雷のようなもので、中国の民主化を極めて困難にしています。

    文革の民間研究は大体現在、共通認識にたっしているのは毛沢東と劉少奇の矛盾は主として1962年の7000人大会で起こったということです。この場での3年の困難な時期の教訓を総括する大会で劉少奇は大躍進の失敗は三分が天災、七分が人災だといい、その率直な表明は会場の各級幹部らから何分も続く拍手で支持されましたが、毛沢東の目には、これは自分の権威と声望に対する挑戦の兆候だと映りました。ここで毛沢東は「党内のフルシチョフ的人物を警戒せよ」と大いに言い始めました。

    おそらく自分がスターリンと同様に死後、批判される運命に陥るのを恐れたのでしょう。疑問の余地なく、文革の導火線は大躍進の徹底的な失敗でした。しかし、毛沢東と劉少奇の矛盾はせいぜい中国の内政問題の方針の違いであhないか?もしそうなら、毛沢東が文革を発動したのは劉少奇との政治路線闘争であり、やはり「公の気持ち」からでたとは言えるのではないか?しかし、さらに歴史をさかのぼって調べれば、毛沢東が大躍進を発動した裏にはその野望の計算がはっきり示されています。

    毛沢東の野望はスターリン死後に次第に膨らみ、1957年に頂点に達しました。彼の野望は中国を試験場にして、国際共産主義運動の世界的なリーダーのイメージを作り出すための政治と経済面での足場づくりでした。政治的な基盤づくりというのは中共政権の樹立によって毛沢東の農村で都市を包囲するという武装革命による政権奪取方針を「世界標準」として証明したのです。

    実はこのモデルは李自成や洪秀全のやり方にマルクス主義の上着を着せただけのもので、東ヨーロッパや西欧、日本といった発達した国々にはまったく意味のないものだったので、毛沢東はさらに中国という「足場」の上に経済的な本物の価値のあるものを必要としており、それがつまりは経済的な実力ということでした。毛沢東の単純な認識によれば、いわゆる経済的実力というのはつまりは「鋼鉄生産量と食料生産量」で、「英米を追い抜く」ためには毛沢東式の中国建設の道の優越性を証明するという必要がありました。それがまさに大躍進の由来であって、大躍進時期に毛沢東の要求に迎合してうまれたのが二つの「大成果」であり、それは「鋼鉄と食料の大生産と衛星打ち上げ」でした。

    毛沢東が中国経済の実力の証明を急いだ事と、彼の1957年にうまれた「世界の領袖になる」という夢は直接関係しています。1956年、フルシチョフのスターリン批判の後、相次いでポーランドとハンガリーで反共動乱がありました。フルシチョフはこの対応に苦慮し、毛沢東はこの事件処理につけこんで、ポーランドには出兵すべきでないといい、かつハンガリー出兵は支持するという矛盾した立場をとりましたが、それでも中国の介入は毛沢東の国際共産主義運動の中での地位を向上させ、ソ連に毛沢東に対して一目置かせるようになりました。まさにこうした背景のもとで、毛沢東は1957年、モスクワの各国共産党と労働者の大会に出席し、フルシチョフとならんで初めて社会主義陣営のリーダーはソ連と中国だと認めさせました。ここに毛沢東は国際共産運動の”トップ”の地位にあがったのでした。当時、毛沢東は中国経済と軍事の実力はまだ十分ではなく、トップたる資格には不足だと表明していました。しかし実はその話の意味は、もしかれの中国が経済的実力と軍事の実力をもったならば、当然国際共産主義運動のトップは譲らないぞ、という意味だったのです。

    国際共産主義運動の「トップ」というのは当時まだまだ貧困で遅れていた中国にとっては実は災難でした。というのは他の共産党国家は「トップ」に対して「上納」などしてくれないのに、「トップ」はその地位の代価として他の「兄弟」たちの際限のない援助要求を満足させねばならず、その負担はみな中国の一般大衆の背中に重くのしかかったのでした。「トップ」という立場でいい思いをするのはただ一人、毛沢東だけで、それはかれには自分が世界レベルのボスになるという野心の満足を意味したのでした。

    しかし、当時の中国の実際の状況は伝統農業の生産力を高めるのは大変難しく、また鉱石、設備、技術などの条件の制約による鋼鉄生産計画はもう極大に達しておりました。もし本当に毛沢東が人民の生活水準をいちばん大事にしていたのであれば、そのような「トップ」など気にせず、しっかりと経済を発展させ、人民の生活水準をあげることを第一に考えるべきでありました。しかし、毛沢東は世界のリーダーへの野望につきうごかされ、モスクワから北京に戻って経済力をアップさせてかれの”実力”を充実させることを我慢して待てませんでした。技術、設備の条件なしにただ「人は天に打ち勝つ」というスローガンのもとにホラを吹き、盲滅法、無茶苦茶なやりかたをしたのです。大躍進と人民公社はこうして発動されたのでした。中国はこうして毛沢東の”夢”の足台となり犠牲となって、最後の代価は数千万の農民が全国で餓死し、国民経済は破綻の危機に瀕したのです。

    大躍進の惨敗と三年間の困難な時期における深刻な局面は毛沢東個人の野心を激しく傷つけました。しかし、毛沢東の個性は絶対にトップの座を引かないという硬い決心でした。経済政策が完敗に終わったあともイデオロギーでソ連や他の共産党と論争をつづけ、国際共産運動の指導者の地位を争いました。と同時に、毛沢東な自分の中共党内の歴史的な地位が大躍進の失敗で動揺することを極度に恐れたのです。ですから毛沢東は皇帝の立場で文革を企画し、党内の自分を否定するいかなる勢力も消滅させることにしたのでした。

    実際は中共高層内部に毛沢東の文革の動機についてはっきりわかってる人物にはことかきませんでしたが、だれもあえて毛の逆鱗にふれようとはしませんでした。文革期間中の短い間のいわゆる大衆造反組織は毛沢東が党内の反対派を「走資派」として妥当するための一時的な道具にすぎず、用がすんだらたちまちうち捨てられました。文革の恨みを飲んで文革の犠牲になった魂に毛はいささかも惜しむ気持などなかったのです。

    鄧小平が文革批判に深入りするのに反対した理由は、自分自身が毛沢東の名ずけた「大躍進」の副将格だったからというだけではなく、毛がはじめたソ連修正主義活動の責任者だったからでもあります。毛の深刻な誤りはかれの”分け前分”も相当あるわけです。さらに重要な原因は文革批判が根元に踏み込むと、かならずや大躍進にいきつき、その大躍進批判はさらに毛沢東の個人的野心が中国国民に災いを招いたのだという話になっていかざるをえないからです。文革にせよ、大躍進にせよ、つまりは国中一人の人間にひれふしていたから起きたことで、毛沢東の欲望を満足させるためだったなどということになったなら全国的にもうめちゃめちゃな論議がおきてしまいます。もし文革批判がこのような国民の認識の方向にすすめば中共の合法性そのものが徹底的にぐらついてしまいます。

    文革を美化しようとする人々は毛沢東が発動した文革の動機は理想主義からでたものだったといいたがります。実のところは毛が文革のために作り出したいわゆる階級闘争理論の宣伝は制度のレベルからみて、毛沢東の理想主義実験は文革よりさきに、あの大躍進時期の毛沢東が推進した共産主義ユートピア政策、つまり人民公社制度で実験するたびに失敗して3000万人の農民を餓死させ、中国を極端に深刻な経済危機に陥れていました。

    毛沢東の失敗というのはつまりは共産党が信奉している共産主義ユートピア論の理想の失敗です。文革時期に毛沢東が相変わらずまたしてもユートピアのご神託ー農業は大塞に学べ、五七幹部学校など最後はどれもこれも失敗でした。毛沢東の失政28年で18年間頑固にこれを維持してきましたが、彼の死とともに人民公社、国有制、計画経済はやっと取り除かれました。つまりこのように「理想」はただ毛沢東時代には経済法則に逆らった政治をやっていた、というだけの話なのです。

    ★文革のキモ;天地をひっくり返して、誰が再建した?

    文革を語る人々が往々にして強調したがるのが劉少奇と文革派、毛沢東の権力闘争だったということです。たしかに権力闘争はあの10年間を通じて一貫して流れているテーマではありますが、文革期間のすべての権力闘争が秩序転覆だけを目指し関わっていたということではありません。文革時期の権力闘争には二種類あって、ひとつは政治秩序を覆そうとする、主に劉少奇や高層レベルの毛の意図を邪魔する役人を打倒するという権力闘争でしたが、同時に中央党の政治機関の各部門と各地方の奪権闘争もこの類でした。

    しかし、1967年から1968年に各地の革命委員会が権力機構を再建してからのちの、ハイレベルで不断に続けて行われた毛沢東と林彪とか、毛沢東と周恩来とか四人組と鄧小平といった権力闘争はすべて毛沢東がハイレベルでバランスをとろうとして、新秩序を強固にしようとする手段した。中共の歴史でこれまでにもあったし、そのあとにも続いておきた権力闘争と同様に、既存の権力構造には触れず、社会秩序に深刻な打撃を与えるものでもありませんでした。この第二の権力闘争は第一のものとははっきり違っていて、これをまぜこぜに論じてはなりません。ですから、文革のキモというのは単なる権力闘争ではなく、秩序の転覆と再建なのです。

    1966年末、全国各地の地方政府は造反派の突撃の下に不随状態に陥り、劉少奇も「死んだ虎」になったころには、中国全体が毛沢東の全国造反の呼びかけによってもとからの政治社会秩序はすでにひっくり返されていました。このとき、まさに全中国が毛沢東の個人崇拝に熱狂の渦におちいってましたから、ある意味でまさに個人崇拝の熱狂が社会の異常な状態を”維持”していたといえます。このとき個人行為を律していたのは当然、法律はなく、伝統的な道徳倫理でもなく、もちろん上からの指導でもなくて、ただ「毛沢東倫理」、つまり国中を一色にそめた「無限に毛主席に忠誠を誓う」という、毛沢東に忠義か不忠かというだけで、大衆が個人の行動の理非を判断する唯一の基準でした。

    大変強力な一面と非常に脆弱な面がある「毛沢東倫理」は明らかに大衆の行為を多分に混乱させるものでしたが、大衆にとってはそれでも「毛沢東倫理」を自分流に解釈してさえいれば行政をやっつけ経済を麻痺させるには充分なものでした。ある場所で造反派が造反派の事務所をやっつけるのも「毛主席に忠実な革命行動」であり、別の場所でも同様に造反派の壁新聞がやはり「毛主席に忠誠を誓う革命行動」だとしたら誰が判断できるでしょう。

    これが1967年に全国各地で出現した保守派と造反派の間や、造反派と造反派の間での絶え間ない大規模武闘戦の根源でした。この視点からみると文革初期の毛沢東は孫悟空の役割を演じていただけ、棒を振り下ろしては天界をぶっこわしていたようなものでした。しかし誰の助けもなしにぶちこわす天下大乱をどうやって「天下大治」にかえていくのかについては自分自身ぜんぜんわかってなかったのです。

    あらゆる文革の研究をみても、今に至るまで1966年末に毛が具体的に考えていた事態収拾構想というものはみあたりません。あきらかに毛沢東自身がわかっていなかったのです。また毛沢東は「毛沢東倫理」が内戦を引き起こすだけでなく、その内戦を制止する方法もないことも予見できていませんでした。例えば1967年7月に武漢において自分の個人的権威で現地の一部の軍隊で支持されていた大衆の組織した「百万雄師」を威圧しようとしましたが、却って「百万雄師」の方が毛沢東の滞在中のホテルに押し寄せ、毛はやむをえず夜中に上海に逃げ戻り、最後には中央文革組織の王力や関锋等を罰して、軍と妥協してやっと武漢情勢の安定をはかったのです。

    ですから、文革初期に毛沢東は現存の政治社会秩序を全社会にわたって政治運動を通じて転覆させることはできたし、ここ数年間の宿願だった個人的な目的は達成したのです。が、しかしそれが新たな難題、つまり造反は簡単でも再建は大変だ、という問題を生み出してしまったといえるでしょう。どうやって政治社会秩序を新たなシステムとして打ち立てるかについては毛沢東ははっきりしたイメージはもっていなかったのです。そして新しい行政管理と経済運営に必要な秩序がないために、1966年末の中国経済の麻痺状態はすでに予測されていました。

    この解決の鍵が上海の造反派からもたらされたのです。彼らが毛沢東に替わってこの難題を解決しました。上海の文革研究者の李逊が最近出版した「造反世代ー上海文革運動史稿」という本の中でひとつの重要な観点を提起しています。それは上海の造反派が1967年にいわゆる「一月革命」を発動させてのち、うまく上海の情勢をコントロールしたことです。造反派が新しい経済と行政の秩序を作り出したのです。毛沢東はここに秩序再建の道筋をみいだし、おおいに褒めちぎり、かつ官製メディアを通うじておおいに宣伝し、地方に学ぶようにといいました。

    李逊の提起したこの観点には二つ注目に価する問題があります。ひとつはこの文革の「上海モデル」がまさに文革中期に全国の各地でつくられた「三結合」の革命委員会のモデルになったこと、そして全国各地の文革のプロセスが証明していますが、上海の造反派のように波風をたてずに旧秩序をうちこわし文革の新秩序をつくりだしたのは多くありませんでした。こうして毛沢東にしてみれば「上海モデル」は偶然にうまれたにせよ、タイミングがぴったりだったので「救急車」のようなものになり文革の失敗が目の当たりに迫っている時だけに価値がたいへんあったのでした。

    第二には上海は当時、全国経済の重心であり、上海経済の安定は国家財政収入ばかりでなく、商品供給や軍事技術研究開発にとっても重要であり、かつ政治経験のない上海造反派がなんと上海の各業界を基本的に運営できたということはつまり「おおいに壊した」後に「おおいに作り出す」必然を示しており実践的な毛文革理論が「正しかった」という証明になるというわけでした。

    明らかに四人組はいっぺんの海瑞罢官の批判文章から生まれたのではなく、文革の上海モデルから生まれたのです。毛沢東が終始、四人組に惚れ込んだのは張春橋や姚文元がイデオロギー分野で毛沢東の文革の陣地を堅守したからというだけでなく、上海の王洪文ら造反派が実践面から毛沢東文革の巨大な空洞を埋めたからであり、彼らを否定することはつまり文革を否定することで、それは毛沢東を否定することだったのです。毛沢東の四人組に対する惚れ込みというのはつまりは自己愛の延長だったのです。彼が死ぬ直前に依然としていかに自分の名声と歴史的地位維持を死んだ後も願っていたか、にはこの四人組のこともふくまれていました。ただ彼の失敗の原因は自分が発動した文革に最初からふくまれていたことなのです。

    文革の「上海モデル」は毛沢東が「運を巻き返す」一筋の道をみつけたとはいえますし、毛によって穴を開けられた「天」を縫い合わせさとうようなことはいえましょうが、しかし社会主義経済の制度的な欠陥を根本的に治すことなどできませんから、一旦、毛沢東が死んだら文革は否定され、経済改革は不可欠なものでした。いま、文革を再考するにあたっては文革の「上海モデル」はひとつのヒントをあたえてくれます。

    つまり毛沢東が文革を発動したのはその必然性があったとはいえ、しかし毛沢東がそれを堅持していくにあたっては偶然性があって、もし上海の造反派が他の省同様に内乱をおこしていたら、その「上海モデル」は生まれず、中国は1967年から全面的に無茶苦茶な状態に陥っていたし、毛沢東の文革もそれによってもっと早く、無残に失敗していただろうということです。もしそうだったら毛沢東の文革が国民に与えた損害はもっとひどくなっていたでしょうし、局面の収拾はもっと難しくなっていたでしょう。ですから、毛沢東を正面から評価するとしたら、自分の欲望のために造反を起こすことだけはできても、その後始末のことを考えていなかったわけで、これは国民と国家にたいする裏切りというものです。

    いまだに多くの人が毛沢東を崇拝していますが、しかし、詳細に分析してみれば彼らはみな歴史を捻じ曲げ、毛沢東を自分たちの必要に応じて利用していることを発見するでしょう。紅二代目のエリート族にとっては、毛沢東は「先祖からくだされた自分たちの大元の商売」の「権力の魔法の杖」のようなもので彼らはそれをかかげて自分たちの権勢と富が永遠に正当なものだ、と証明する道具です。現実に不満をいだく底辺層からすれば毛沢東こそ心の栄養剤であり、エリートたちになげつける石ころです。少数の左翼インテリにとっては毛沢東は飯の種であり、貴族エリートたちのお鍋のご飯をすこしわけてもらえる道具です。

    毛沢東思想がたいしたものだ、などと誰も信じてはいません。中共の紅二代目や役人二代目には多くの自分で起業して千万、億万長者になったものも多いのですが彼らは当然、資本主義の道をあゆんでいます。彼らのうち誰が本気で毛沢東路線を信奉して、自分たちが標的にされる革命など発動しようと願うでしょうか?またあの左翼知識分子連は毛沢東を崇め奉っていますが、でもその誰が毛沢東の主張どおり自分らが毛沢東のいう「最も高貴ぶった馬鹿」で(*毛の言葉;「卑贱者最聪明,高贵者最愚蠢」)、一家をあげて農村に永住して「卑しいもの」として「再教育」されたいなどと本気で願うでしょう?

    毛沢東の悲哀というのは文革の惨敗、青史に罵られる名前を残しただけではなく、後世のさまざまな連中に道具として利用されたことでもあります。自分の子孫のあの毛少将(*甥。知能が与太郎的だがとにかく血筋だというので少将の位をあたえられている人物、ことあるごとに甥であることを言い出すコミカルなキャラとなっている。)にさえ出世の道具にされてしまっているではありませんか。(終)

    (《中国人权双周刊》第183期  2016年5月13日—5月26日)

    拙訳御免。
    原文は;程晓农:文革是谁的宿命 hrichina.org/ch..shui-de-su-ming

     

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