• 中国の宗教会議ー中共による管制強化ー

    by  • May 28, 2016 • 日文文章 • 0 Comments

    何清漣

    2016年4月28日

    全文日本語概訳/Minya_J Takeuchi Jun

    https://twishort.com/MFxkc

    最近、中共内部で開かれた宗教会議の趣旨が「北京は宗教を中国(漢)化しようとしている」というように理解されているむきがあるのですが、これはただ習近平が民族間の矛盾、地域での衝突、共産党支配の合法性への社会的認識の危機といった数々の圧力の元で、再び中共の「すべての原則」である「いかなる宗教も神々もすべて中共の指導を受けなければならない」という原則に回帰しようということです。

    4月25日、中共中央はハイレベルの宗教工作会議を開催し、外国メディアは「北京は宗教を中国化しようとしている」と評しました。これは皮相なものの見方です。というのは中共のあらゆる宗教工作の目的は以前から「中国化」にあるのではなく、宗教を管制下において、自らはその上に立つということにあるからです。現段階でチベット・ウィグル地区の宗教工作を強化するというのにはさらにもうひとつ重要な政治的目的、すなわちこれらの地域での民族分裂を防止するという意味があります。

    ★中共の宗教管制の目的は「一切の組織力を消滅させる」です。

    4月22、23日に北京で開かれた全国宗教工作会議の新華社ネットの報道の焦点は当然、習近平の講話でした。当然、みかけは相変わらず中共の唱えるお経のようなもので、例えば「党の宗教工作基本方針を堅持せよ」であり、「全面的にこの政策を貫徹しなければならない」として例えば「宗教信仰の自由政策は法によって管理され、独立自主の原則を堅持し、積極的に宗教と社会主義社会の調和へと導く」とかですが、しかしその内容は大変、ピンポイント的な具体的なものです。

    4つの条項のうちの第一と第二は連結して読み解くべきです。つまり、中共は宗教と信仰の自由を保障するが、これらの宗教は自国の法律によって中共の指導によらなければならず、それはその宗教がどんな神を信じていようが中国にある限り、どの宗教も共通の「主」すなわち中国共産党に従わねばならない、ということです。

    第三の「独立自主の原則を堅持する」というのはそれぞれの宗教に対して言い方は少しづつ違うのですが、共通しているのは;お前らの宗教がローマ強行だろうが、世界にひろがるイスラム教各派だろうが、正統派の、あるいは正統派ダライ・ラマのチベット仏教だろうが、すべて中共からみたら『国外の敵対者』勢力である、ということです。そして中華人民共和国の領土にあるかぎり、すべて中共の「独立自主」の元にあるのであって、国外勢力の指導と浸透を許さない、ということです。すべてことはだだひとつの原則に帰すわけで、それは中共の意思は神の意思より上位にあって、宗教の価値観は必ずや中共のイデオロギーに服従しなければならない、ということです。

    当然、中共は宗教を管理するにあたって組織だったシステムをもっており、各宗教に対して対策官庁があり、庁、局、課、といったクラスが国家、省、県、市、村別の各級委員が配置されています。

    宗教と王権の争いというのは欧州の歴史では何度も起きており、最後には「シーザーのものはシーザーへ、神のものは神へ」ということになって政教分離の構造がうまれたのでした。しかし、中国の歴史では絶対的に長いあいだ皇帝権力は宗教権力より上位にあって、ごくたまに宗教勢力が皇帝権力に大きな脅威になったのでした。これが歴史に有名な「三武一宗の仏教弾圧事件」(北魏の太武帝、北周の武帝、唐の武宗、後第十国の後周の世宗の4大仏教弾圧事件の総称)でした。

    中共の宗教管制は一部の源はこうした中国の伝統的な政治と宗教の関係からきたものですが、さらに重要なのは専制独裁政治の特性からきているということです。専制独裁政治と一般の専制権威主義統治の本質的な違いは、中国現代の国民党政府がいい例です。国民党政府は専制権威主義統治でいろいろな団体の存在は許容され、私的な新聞も発行できました、政治は宗教の上に立とうとはしませんでした。経済的には私有制や市場経済が許されており、資源員会は戦時体制の特例でした。中共政権は政治、資源、文化(世論)を独占し、政府は経済に強力に介入し、宗教のうえにたとうとするのです。

    ★辺境地区の宗教は「地域の安定」と「民族団結」にかかわる

    チベット仏教とウィグル族のイスラム教の角度からみれば、こうしたことが「中国化」として理解されるのはわかります。というのはこの両民族の大多数の民衆からみれば中共と漢族というのは分かち難い一体的な存在だからです。中共の戦略性と漢族人民をわけて考えることができるのはほんの少数の戦略的なものの見方のできる少数の人々だけでしょう。

    しかし、新旧のキリスト教的な角度からみるならば簡単にこの「中国化」という言い方の一面がわかりましょう。というのも近代以来、香港、台湾、日本、韓国などではキリスト教は広範に布教されてきました。その過程はまさに外来宗教と現地文化の融合の過程であって、例えば融合の極致は聖母マリアがアジア人の母子の姿に描かれているような例です。これらは「オックスフォードキリスト教歴史」にでている常識で、優位にあるような宗教でも現地でさらに多くの信者をひきつけるためには自分自身を現地化するケースです。
    しかし、北京は逆にあらゆる宗教をいっしょくたにして、それに対する党の管制を強化しようわけは宗教が「中国化」されたかされてないかという問題のせいではなく、中共の目にはチベットや新疆の宗教問題は「地域の安全」と「民族の統一」にかかわることだからです。

    チベット仏教はチベット人の共通の信仰でした。チベット族の政教合一の伝統が破られたのはチベット文化が自然にそう進んできたからではなく、中共が暴力と征服を通じて、強制的に強行した結果です。北京の目からみれば、宗教的な勢力が強いということはすなわち自分たちの影響力の衰退なのですから、「徹底的に党の宗教工作の基本方針を貫徹」し、「法によって宗教事務を管理」しなければならないのです。近年、北京がダライ・ラマに対して中共による「転生」の管理権と認証権を強く要求し、ダライ・ラマ側がこれにたいして転生制度の終結をもって対立しているのは当然、ただの宗教事務管理の権利を争っているのではなく、北京の目から見たらこれは地域の安定と民族の分裂という国家安全問題なのです。そしてダラムサラ(*北インドのダライ・ラマの居住地)からみればこれは民族自決の堅持と宗教の独立という根源的な原則の問題となります。

    新疆ウィグル地区の宗教生態はチベット仏教とは異なりますが、地域の安全と民族の分裂という意味ではチベットと共通しており、であるがゆえに北京は宗教工作の重点とみているのです。

    ★キリスト教の社会自助組織的な働きは中共の禁忌に触れる

    漢族居住地域におけるキリスト教への強化管理はまた全く別の考慮からでています。中共は政権をとって以来、自らの経験に鑑みて自分たち以外の一切の組織的な力を根絶してきました。毛沢東統治時期には数人の青年が読書会を開いただけで反革命組織を作ったとして牢屋に放り込みました。改革開放後、この管制はすこし緩みました。また外国との交流の必要上、外国やその資金によるNGOが中国で活動することを許しましたが、環境保全や健康、救貧、法治などすこしでも政治に関わるNGOに対しては厳しい監視対象としました。習近平政権発足以来、外国NGOに対する弾圧と管制はずっと強化されてきて、この度の「中国国外非政府組織管理法」に米国や欧州政府が強く反対するのはそれが「法による管理」の名の下に中国政府が管理・弾圧を強化しようとしていることが見透かされているからです。

    中共は一貫して宗教が現在の中国で唯一合法的に人々を組織する力を持っている存在だとみなしてきました。2001年に法輪功を弾圧した時にわたしは「現代中国の社会共通認識の危機ー法輪功事件の啓示するもの」(*xys.org/forum/m..0000/96133.html 中文)を書きましたが、そこで共産政権と宗教の衝突がおきるふたつの原因を指摘しておきました。

    一つは宗教がうみだす組織的な力が専制政治が社会における人間を互いに切り離して”原子化”しようとする動きとぶつかることです。

    人類社会は政治、経済、軍事、宗教文化の四つの権力をもっており、政権がこのうちのより多くを握れば握るほど社会に対する管制能力が強まります。歴代の封建王朝とくらべれば中共は政治、経済、軍事の三大大権を握った上でそれにくわえてマルクスレーニン主義のイデオロギーによる文化をもっており、対社会にたいする管制能力は前代未聞の強さになりました。しかし、この状態は改革開放以来、チャレンジされてきました。政治、軍事では全面的に独占状態ですが、経済はすでに半市場化状態であり、一部には私的経済部門がうまれています。そこへ外来文化との衝突がおき、イデオロギーの力も弱まって、中共に対する社会の支持度合いも危機を迎えました。法輪功や各種の宗教の興隆というのはこうした社会背景のもとに生まれたのでした。そして中共が法輪功を弾圧したのはまさに法輪功が社会的な力をくみあげてその基盤を作ってきたこと自体が、中共が社会をバラバラの個の状態において支配しようというやり方への強烈な挑戦だとみなしたからなのです。

    ふたつ目には宗教と宗教的共産主義イデオロギーの信者の奪い合いです。

    いわゆる宗教はすべて社会メンバーにたいする広義の意味での「精神的救済」であり、この種の精神的救済はそれぞれの宗教のメンバーに対して結社をつくりださざるを得ず、また広義の意味での政治にかかわるようにならざるをえません。この点は著名なキリスト教史研究者のノーク(*誰?「诺克」を音訳)の有名な「人々が追求するのは真理ではなく、宇宙のなかにおける自分たちの庭(*くつろげる居場所、の意味か?)であり、それは社会的な場であって、共同体であり、超越性の社会である」ということばのとうりです。この点でまさに中共のイデオロギーと強烈にぶつかるのです。

    マルクス主義の共産主義理論は社会科学理論だと自称していますが、その実、他のあらゆる社会科学理論がもっていない一種の宗教的特質を持っており、人類に「彼岸の社会」を提供しています。すなわち共産主義の理想社会です。誰もが承知していることですが、宗教的理想社会は「来世」であり、つまり「彼岸」です。マルクス共産主義学説は誕生以来170年以上経っても、ソ連の小話に「人類は共産主義の理想の天国にあとどれぐらいなのだろうか?」という問いにたいして「あと5キロさ。あと5キロいったらまた5キロ、永遠にあと5キロなのさ」という笑い話があるように地球の半分で数十の国家が努力実践してきましたが一つも「共産主義の理想」を実現できておりません。。

    現代の民主社会では社会メンバーが宗教的信仰をもつことは世俗的政権にとっては脅威とみなされません。しかし共産党政権ではそうではないのです。その理由は共産主義の学説が宗教的性質をもっているからです。マルクス主義を信奉する政権(それが中共のような名目的なものだけで中身がないものであっても)にとってはかならずや宗教というものとは一種の緊張状態になってしまう、というのは両者がともに信者獲得をめぐって争わざるをえないからです。

    中共は自らの指導を受け入れる「3つの愛国協会」は許しますが、それは彼らが中共の指導を受け入れると明言しているからです。そして各家庭で開かれる小規模な「ホーム教会」を弾圧するのは彼らが自治、自立、自伝の原則をもって中共の指導を受け入れないからであって、「中国化」しているから、していないからというのは関係ありません。

    鄭州の「大海寺」にかつて「習近平総主席によってこの世は栄え、すべての仏は大喜びでみつめている」という意味の横断幕が掲げられ海外で笑いの種になりました、これはよく考えてみれば中国の歴史で何度もあった仏教が皇帝に負けて忠誠を誓ったという話の焼き直しにすぎません。

    以上のべたとおり、最近の中共内部の宗教工作会の趣旨を「北京は宗教を中国化したがっている」と理解するのは誤解にすぎず、今回の会議は習近平が民族の矛盾、地域の衝突、中共支持度合い低下などのさまざまな危機のプレッシャーのもとで、またもや中共のすべての法の大原則たる「いかなる宗教、神々も中共の指導に従うべし」に回帰したというだけの話です。(終わり)

    拙訳御免。
    原文は:中共宗教会议主旨:加强控制而非汉化 (《中国人权双周刊》第181期  2016年4月15日—4月28日)hrichina.org/ch..-jia-qiang-kong

    何清漣氏のこれまでの論考は;heqinglian.net/japanese

     

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