• ★英国のEU離脱;同床異夢の結婚から離婚へ2016年7月1日

    by  • July 3, 2016 • 日文文章 • 0 Comments

     英国が欧州連合(EU)脱退を策し始めてから、各種の論評は「汗牛充棟」(かんぎゅうじゅうとう)状態で、どれも英国、「そろばん勘定を過つな」、「Brexit(ブリクジット)は大損必至」と忠告ばかりです。こうした論評は第二次世界大戦以来、英国と欧州(主に独仏)との歩みは始終、調和を欠いていた事、英国の欧州連合加盟が、結婚当時から離婚の種をはらんでいた事を、見逃しています。

    ★英国のEU離脱の理由はサッチャー夫人の予想通り

    第二次世界大戦が終わってまもなく英国首相のチャーチルは、「欧州の夢」の青写真を提案し欧州が一体となって、戦争の再発を防止することを希望しました。しかしフランスのドゴールもまた自身の「欧州の夢」の青写真を掲げ、それは全くチャーチルのとは異なるものでした。二人の指導者がどちらも自国こそ欧州の指導者であるべきだと考えたので、当然、この夢は実現しませんでした。

    その後、10数年たって欧州各国は欧州石炭鉄鋼共同体(1952年7月23日ESCS)を、欧州経済共同体(英: EEC)に発展(1957.1.1)させました。英国は1957年と1967年に2度加盟を申請したのですがドゴール大統領によって断固として拒否され英国は赤恥をかかされたのでした。英国では「フランスは1944年6月6日のノルマンディーで米英がフランスを解放し、それが第二次大戦の勝利の礎になったことを忘れたのか」という歌が流行りました。

    これに対してドゴールも自分が忘恩の徒ではないことを示すべく1967年11月にエリゼ宮で会見し、英国のEEC加入における困難の根が深いこと、英国の経済状態が欧州と不釣り合いなこと、英国がこれまでのやり方を転換しなければ受け入れられないことなどを指摘しました。(*訳注;英国は1960年代から70年代にかけて労使紛争の頻発と経済成長不振から「英国病」と言われていた。また英連邦を背景にする英国独自性とEECとの矛盾もあった。)

    この談話は確かに両者の婚姻の難しさの本質をピタリと言い当てており、1990年にサッチャー夫人はこの点についてさらに詳細に述べています。
    仏でドゴールが引退しポンピドー政権になってのち、英国は1973年1月1日、ようやくEEC加入の夢を果たしますが、ほどなく次から次へと問題がおきて、どうにもならないのがEEC・英国間の常となりました。

    1975年6月5日、経済の不振、インフレ、失業率の高止まりを背景として英国はEEC離脱の国民投票を行いましたが67.2%でEEC残留が支持されました。英国国内ではEECとの関係は常に政党や国民の間を引き裂く剣となり、時には政治家の政治生命まで左右しました。

    女傑サッチャー首相は、新自由主義政策を実行し、欧州側の各種の社会主義的な制度制限を英国に持ち込ませないようにしましたが、最後には自分の党の親欧州派によって辞任に追い込まれました。不幸にも2016年のEC離脱は完全にサッチャー夫人の見方が正しかったことを示しています。

    1990年11月22日、サッチャー夫人は最後の有名な議会演説で、自己の11年半にわたる政治実績を省みて欧州共同体の問題ついて英国の利益と欧州共同体にとどまる矛盾を指摘しました。それは

    ① 欧州共同体の不公平な生活補助金政策と中央集権は英国の就業機会を流失させる。生活補助に断固反対し、工業と保護主義的国家を救済するのに反対し、政府の無用な統制に反対し、官僚主義と各国議会を代償とする欧州官僚による中央集権の管理強化に反対する。

    ② 欧州共同体は大量の利益を奪う。労働党の欧州共同体にとどまるという政策は英国人の利益と権利の流失を座視するものである。

    ③ 単一通貨と単一為替レートは連邦制にバックドアを開くもので英国主権を破壊する。

    というものでした。

    英国はユーロ圏には入っていないのですが、これはある挫折の結果の選択です。1990年10月5日、英国の蔵相・メイジャーはポンドが欧州通貨安定機構(欧州共同体単一通貨制度の雛形)にくわわると宣言しましたが2年も経たないうちの、1992年9月16日、ソロスによる英国ポンド空売りの「黒い水曜日」以後、英国はポンドの為替レートを支えきれずERM(欧州為替相場メカニズム)からの離脱を余儀なくされました。(*WIKI;「ポンド危機ja.wikipedia.or..%8D%B1%E6%A9%9F)のちに欧州連合に加入する際も英ポンドを保留しました。(*欧州連合に加盟しているデンマークとイギリスは基本条約でユーロ導入義務を課せられない)

    しかし、前の2つの点、欧州中央集権と貧困移民の問題が、まさに今日の英国人がEU脱退する主要な理由になっています。英国人は、いまだにその価値を十分には認めていない偉大なサッチャー女史の忠告を思い出したでしょうか?

    ★「大ヨーロッパの夢」はドイツとフランスのもの

    英国の「ブリクジット」国民投票の後、欧州の指導者には「深刻な間違い」とする意見があります。ドイツのメルケル首相は「疑いなくこれはEUに対する打撃、欧州の統一進展への打撃である」とし、おそらく英国人たちがいかに間違えたかを目の当たりにさせようと、ドイツの外務大臣シュタインマイヤーとフランス外相ジャン=マルク・エローは6月27日「大ヨーロッパ計画」を発表しました。これは欧州大陸をひとつのスーパー国家にする計画で、中身は国内外の安全、移民危機と経済協力の三つのキーとなる領域でEUをさらに推進していこうというものです。この方案ですとEUメンバーは自国軍隊、警報、税収、中央銀行と国境の管理権をすべてEUに引き渡すことになっています。

    現段階では一部のEUメンバー国家はEU連邦主義化の傾向に大変な不満をもっており、東欧、スカンジナビア半島、フランスの反EU感情は高まっています。ドイツの外相が公表したこの方案は愚の骨頂です。チェコのルボミール・ザオラーレク外相はハンガリー、ポーランド、チェッコ、スロバキアの4カ国はこの議案に意見を保留する、といいました。ボーランドの外相・ヴァシチコフスキはEU結成以来多くの時間がたち、いろいろな事情が変化してきた。欧州社会の気持ちも違う。欧州と我々の選挙民はEUをテクノクラートの手に渡したいとは思っていない、といい、イタリアの全財務責任者のコンディーニは現在のこうした動揺の激しい時期、EUの求心力が低下して離心力が強まっている時期に欧州がさらに一歩一体化をすすめようというのはほとんど不可能であるといいました。

    1993年に欧州連合が正式に発足してメンバーが次第に多くなるにつれて、私は余りにも緊密な国家連合体はやがてうまくいなかくなるだろう、もし2,30年も続けば御の字だと見ておりました。それぞれの国家にお家の事情があり、経済上の連合は通貨の統一や財政の統一、税収の統一よりはるかに容易なのです。それ以後の事実は、意気込みにあふれたドイツでさえ真っ先に欧州一体化経済通貨連盟の関連規定に違反し、なんとかEUの債務危機要素を覆い隠してきたのです。

    一般には欧州一体化は三本柱といわれており、すなわち

    第1の柱「欧州共同体」- 経済、社会、環境政策分野
    第2の柱「共通外交・安全保障政策」- 外交、軍事分野
    第3の柱「警察・刑事司法協力」- 犯罪対策協力。
    です。(*Wiki;ja.wikipedia.or..E%E6%9F%B1_(EU)

    経済通貨連盟は第一の柱を支える核心的な部分です。EU経済通連盟の順調な実現のために、EUは1997年6月17日にアムステルダム欧州理事会で「安定と成長の公約」
    (アムステルダム条約;wiki ja.wikipedia.or..%9D%A1%E7%B4%84)で合意し、これでメンバー間の財政の約束事をつくりました。その規定では

    1;財政赤字は一国の年度GDPの3%をこえないこと。
    2;累積債務は一国の年度GDPの6割を超えないこと。

    となっています。
    1999年、通貨一体化、つまりユーロの流通開始後、財政放漫で赤字が再び年度GDPの3%を超えた国家は、もし期間内にそれを修正できなければ、欧州中央銀行に一定の無利息の資金を預け、期間内に3%基準を守れないときは、その準備金を罰金として没収されることになりました。

    その後のことはみなが承知の通り、ドイツが一番先に関連規定に違反して、フランスがすぐ続き欧州債務危機の伏線をつくりだしてしまい、欧州のその後の経済と通貨一体化を困難に陥れました。この危機がまだ去らぬうちに、2015年のシリア難民流入の波にぶつかり、ドイツはハンガリーなどの東欧国家の反対を顧みず、ドイツに来る難民は最初に国境越えしたEU国家で登録してからドイツに入国できるという「ダブリン条約」を遵守しなくてもよい、と宣言しました。しかし、メルケルは難民がもたらす問題がとても政府が制御できる範囲内ではないとわかったとたんにまた突然、ハンガリー、オーストリアの国境を閉鎖し事実上、欧州の無国境というシェンゲン協定を終了させてしまったのでした。

    英国は、もともとEUの債務危機に含むところがありましたから難民危機に際してもドイツやフランスと一緒に踊ったりしませんでした。欧州大陸が難民の生み出す各種の集団痴漢行為やテロ事件が起きたのをみて、英国人民はついに国民投票でEUから脱退する道を選んだのです。現在、一部のメディアが英国はなんとか引き続きEU残留すべきだと書いているのは自慰にすぎません。

    英国が退出する根源は英国とドイツ・フランス両国が主導するEUの理念が違うからです。英国は世界で最も早く「ゆりかごから墓場まで」という福祉制度国家をつくりましたが、なおまだ独立自主を尊び自由競争の自由主義的伝統がずっと存在しています。しかしEUはもはや民主社会主義によって社会メンバーが政府に高度に依存する構造をつくっています。治国の理念が違うのですから英国がEUに参加したときからEEC/EUと性格的に相容れないのです。EUがさらに大きな危機におちいるまえに英国は脱退をしたのです。というのは脱退が遅れればおくれるほど双方の傷は深くなるでしょうから。

    今後英国がもし再度、EUに加盟したいと願う政治家がいるなら、サッチャー夫人の名言「私たちのあらゆる問題は皆ヨーロッパ大陸からやってきた。そしてその解決方法はみな全世界の英語圏からやってきた」という言葉を思い起こすといいでしょう。(終)

    原文は;何清涟:英国脱欧:同床异梦之联姻终告仳离
    voachinese.com/..30/3399862.html

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