• オランダ・ハーグの国際仲裁裁判所の判決ー昔、200海里排他的経済水域を主張していたのは誰でしょう?

    by  • August 6, 2016 • 日文文章 • 0 Comments

    何清漣

    全文日本語概訳/Minya_J., Takeuchi Jun

    https://twishort.com/VSLkc

     

    今回の南シナ海(*訳者注;中国語では「南海」)の中国領有権主張に関するオランダ・ハーグの国際仲裁裁判所の判決は南シナ海の局面情勢を変えるには至っていませんが、中国は大いに自国イメージを損ねました。中国側は「南海仲裁案の由来」を多くの文章が分析していますが「フィリピンが頑固に勝手な一方的に仲裁裁判所に持ち込んだ。本質的な目的は仲裁という手段を通じて中国の南沙列島を違法に占拠して法律上中国領土であることを否定し、主権と海洋権益を自分のものにしようとしている」とか言ってはいますがどれも今回の仲裁を引き起こした黄岩島(*スカボロー礁;ja.wikipedia.or..%83%BC%E7%A4%81)の衝突事件については曖昧に言及を避けています。

    200海里(370.4km、1海里=1852 m)排他的経済水域(EEZ)##https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%92%E4%BB%96%E7%9A%84%E7%B5%8C%E6%B8%88%E6%B0%B4%E5%9F%9
    という「落とし穴」はもともと中国政府が昔、自分で掘ったものだから自分の側に原因があることは大変な事なのでしっかり口を閉じていなければならない理由があります。

    ★黄岩島(スカボロー礁)がフィリピンに帰属は元々中国が決めた

    スカボロー礁は南シナ海の中沙諸島(*ja.wikipedia.or..%AB%B8%E5%B3%B6)の満潮時に唯一水面に露出する島礁で、西沙群島(ja.wikipedia.or..%AB%B8%E5%B3%B6)から約340海里、海南島から約500海里、フィリピンのスービック港から100海里(*ルソン島の西220キロメートル)にあり、欧米人はScarborough Shoalと呼んでおり、1950年代、駐フィリピン湾の米国軍隊は黄岩島(スカボロー礁)を射撃場にしていました。1980年後にフィリピン政府はスカボロー礁を200海里の排他的経済水域としました。島の実情をみたければCCTV系列の「南海紀行」第三集で詳しく紹介されています。

    中国の黄岩島(スカボロー礁)の領土主権の要求の根拠は「先に発見した」というもので、1977年~1978年、中国科学院南海海洋研究所の研究隊が島に上陸して調査しました。1990年3月31日、中国は黄岩島(スカボロー礁)に主権標識を立てました。

    2012年、中国の多数の漁船が同島海域に進入し、フィリピンの軍隊を追い出すことに成功したことで黄岩島(スカボロー礁)は中国が実効支配するに至りました。

    しかし、中国も加わって制定した「国連海洋条約」によれば、フィリピンが自国の排他的経済水域に入れる権利を有し、中国の「先に発見した権利」と「古来から」という言い分は認められていません。

    落とし穴に嵌ってしまったが、実はその落とし穴自体が昔、自分自身が掘った穴だったりすることが歴史にはままあります。というのは10年間のマラソン協議を経てやっと誕生にこぎつけた「国連海洋法条約」の中で最重要の「200海里の排他的経済水域(EEZ)」というのは、まさに中国が国連に加入した後、発展途上国のリーダーとして反覇権主義で気炎を上げて自ら勝ち取った重要な成果だったのです。

    ★「南シナ海問題」は「国連海洋法条約」制定時には考慮してなかった

    1973年から始まって、国連では3度海洋法会議が開かれ、1982年に海洋法公約が決議されました。その頃、中国は初めて国連に加盟(*1971年10月)し発展途上国のリーダー的大国としていい格好をしたいと切に願っていたのでした。

    新華社の傘下の「瞭望東方周刊」は2012年12月に「我国が国連海洋法公約情報に参加顛末始末(《我国参与联合国海洋法公约谈判始末》news.sina.com.c..125774618.shtml)」という文章を出していますが、そこには

    ;第三次の国連海洋法会議は全部で11回あり、中国は国務院の指導にもとずいて中央レベルで交渉指導グループを結成し、外交部、国家地質局、および当時は国家地質局に属していた国家海洋局、海軍などによる中国代表団を結成し第三次国連海洋法会議に臨んだ。

    ;全期間を通じて、中国は日本と大陸棚の限界に関して真正面から争論となったが、いま東南アジア国家と衝突している南海(南シナ海)問題は、当時は別に熱い論議の的にはならなかった。当時の代表だった陳徳恭の回顧によれば「例えば『九段線』(*ja.wikipedia.or..%AE%B5%E7%B7%9A)問題だが、現在多くの人があれが規約の内容と衝突すると思っているが、当時はどこの国も問題とはしなかったし反対意見もなかった。どころか東南アジア国家から支持表明もあった」。南海(南シナ海)関係では1974年の第2回会議で南ベトナム代表が西沙、西沙群島について主権を主張し、中国代表の柴樹藩が「完全に白を黒といいくるめる恥知らずな妄言」と反駁した。当時、中国が関心を持っていた重点は200海里の排他的経済水域(EEZ)##https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%92%E4%BB%96%E7%9A%84%E7%B5%8C%E6%B8%88%E6%B0%B4%E5%9F%9 問題だった。
    などと書いてあります。

    今、中国が領土主権を主張している黄岩島(スカボロー礁)はフィリピンのスービック港からたった100海里以内にあり、「海洋条約」からすればこの島はフィリピンの排他的経済水域(EEZ)##https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%92%E4%BB%96%E7%9A%84%E7%B5%8C%E6%B8%88%E6%B0%B4%E5%9F%9 に属します。道理から言えば黄岩島(スカボロー礁)の存在は中国の代表団も最初から当然知っていたはずです。

    今の若い人は知らないでしょうが、1980年代に大人になっていた中国人なら忘れていないでしょう。フィリピン大統領マルコスとお色気たっぷりのマルコス夫人は「中国人民の良きお友達」でして、毛沢東の賓客でした。同大統領は1965年-1986に在任し、まさに丁度、中国が「国連海洋法条約」で「反覇権」(1973-1982年)を唱えていたときでした。(*当時日中平和友好条約締結交渉でも対ソ連を牽制するために「反覇権(反ソ連)」を文言の中に入れるように強く主張した経緯がある)。
    中国の外交慣例ですと当然、この「良き朋友」と領土問題であれこれ言い争うことはできません。こうした話はいっぱいあって、例えば毛沢東のツルの一声で白龍尾島(バクロンヴィー島/ナイチンゲール島)が「同志兄弟」だったベトナムのものになったり(1957年)、[11段線」が「9段線」(ja.wikipedia.or..%AE%B5%E7%B7%9A)に減ったりしました。

    ★200海里;中国がリードして反覇権で勝ち取った成果

    当時、「海洋法条約」が制定された時に主張された説には3海里から200海里までの12種類もの意見がありました。しかし、中国はもっぱら200海里を「排他的経済水域(EEZ)」##https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%92%E4%BB%96%E7%9A%84%E7%B5%8C%E6%B8%88%E6%B0%B4%E5%9F%9 として主張したのでした。なぜ中国はこの主張にそこまでこだわったのでしょうか?「我国が国連海洋法公約情報に参加顛末始末」には大変はっきり記されています。

    当時、新たに国連加盟した中国は「反覇権主義」をもって発展途上国の利益のために頑張る、という態度でした。「排他的経済水域(EEZ)」をめぐる争いは中国が代表する反覇権主義の肝心なポイントだったのです。というのは「海洋大国はその海域は公海の一部であるとしており、「排他的経済水域(EEZ)」の優先権を発展途上沿海国家に与える事によって『主権』の代わりにしようと望んでいたからだ」と書いてあります。

    中国代表団の数人の回顧によると、当時の発展途上国は沿海国家と内陸国家と群島国家に分かれ、また海岸線の長短、狭い海に面していて地理的に不利な国家などの様々なグループに分かれていました。当時の200海里の排他的経済水域の区分では中国がこの主張の特に漁業の保護の強い支持国でした。中国代表団は条約にはっきりと「沿海国家は専属経済区域内で外国軍事活動と軍事施設についての管制権を持ち、漁業と海底調査活動の安全を保障する」とはっきりと規定すべきだと主張しました。

    1986年の「漁業法」と1998年の「専属経済区域と大陸棚」など関連法規の中でも、中国政府は専属経済区域内の漁業資源を守る態度を強調し、同時に他国がその国の専属経済区域内での権利を尊重する」と表明しています。これらすべてが今日の中国とフィリピンなどの隣国との海域での衝突で中国側に不利な国際法の規定となっています。なぜなら黄岩島(スカボロー礁)は中国の主権のあるどんな島とくらべてもフィリピンのスービック港からの100海里以内に比べるとはるかに遠いのですから。

    ★中国代表は「当時は十分将来の事を考えなかった」と発言

    中国が200海里支持をずっと堅持したのは完全に当時の利益から考えたことでした。「国連海洋法条約」関連法制定で重要な役割を演じた中国代表団のメンバー・陳徳恭は「あの時は中国の漁業水準も近海漁業資源を開発するだけの力も不足していたし…中国の漁民が大々的に遠洋漁業に従事するようになったのは十数年もあとのことだからねえ」と釈明しています。

    やはり代表団の副団長や団長を務めた凌青も回顧録「延安から国連まで;凌青の外交一生」の中で、中国が200海里の主張を堅持したので、会議である小さな発展途上国が200海里になったあとの経済海域での各国の利益配分を計算した資料をくれ、そこには一番得をするのが米国、ソ連、日本、イギリスなどの海洋大国と海岸線の長い発展途上国だと記されていたと。この小国は中国にそんなに無条件に強烈に200海里案を支持しないほうがいいという注意してくれたのでした。

    しかし、凌青は、当時は200海里を支持するのは反覇権と関係があったといいます。当時、中国はこの問題にはっきりした態度を表明していたラテンアメリカの国々と国交を結んでおり「私自身も200海里案を支持するのは当然至極のことだと考えていた」といいます。凌青はさらに、当時中国はこの問題で200海里の経済専属区域を支持すると中国の東海(東シナ海)、黄海で自分の利益を損なうが、もし支持しなければ多くの発展途上国に恨まれ、少なからぬ経済的利益も失うどちらも困難な立場にあったが、今からみれば、200海里経済専属区域がもつ超大国への反覇権という一面しか強調しなかったのは「同時に各国の海洋資源の占有権の配分が変わってしまうという一面があったのに我々の認識は明らかに一面的だった」と述べています。

    今となっては、「認識が全面的でなかった、一面しかみてなかった」と後悔したところで後の祭りです。ましてやこの件は別に外交官たちの責任ではありません。1973年から1982年というのは中国の外交はおもに周恩来と鄧小平が担当していました。周恩来は用心深い実直タイプですから代表団に対しての指示は当然、親分の毛沢東が世界のボスになる(*共産主義運動の指導権を巡って当時、中国はソ連と争っていた。「反覇権」は反ソの代名詞だった)という願いをまず優先して考え、発展途上国を反覇権にさせることがちっぽけな島などより重要だったわけです。

    1982年に条約にサインしたときも鄧小平だって中国が今後「崛起」する日がくるだろうとは思わなかったし、ましてや中国が東南アジア地区の多くの「兄弟の国ぐに」と次々に反目する日がくるとは予想だにしなかったわけです。

    今日の国際秩序は米国が第二次世界大戦の後で主導して作った構造を維持してきたもので、道義的な原則を建前としています。ですから弱い国家も条約に頼って筋をとうしていけるから一定の保護が得られています。しかし、中国は実力第一という原則の国柄ですから、弱い時には「能ある鷹は爪隠す」などという策略でルールを利用して自らの権益を守りますが、一旦、自分が強くなったと自覚するやそのルールを変えようとするのです。

    例えば外交原則の「国際社会に溶け込む」は2011年から「国際規則の制定を主導する」にかわりました。「国連海洋条約」はつまり中国が劣勢にあるときに、発展途上国の支持の下に兄弟国家の利益のために頑張った、西側国家とやりあって妥協した産物です。

    でも今は中国が「崛起」した後ですから、国際間の実力の変化に応じて国際秩序に攻撃をしかけているのです。いわゆる「ルール」の類は中国政府の眼中からみてば、役に立てば「ルール」ですが、役にたたなければ放っておけばいいのであり、それは自国の法律に対する態度と全く同じなのです。(終)

    拙訳御免。
    原文は;voachinese.com/..21/3429403.html
    何清漣氏のこれまでの論評は;heqinglian.net

    参考;福島香織氏;南シナ海仲裁判決、中国の「次の一手」に備えよ business.nikkei../071800056/?P=1

     

    Share Button

    About

    Leave a Reply

    Your email address will not be published. Required fields are marked *