何清漣
2016年8月8日
全文日本語概訳/Minya_J., Takeuchi Jun
ここ数年、中国政治の分析は主に権力闘争という角度から行われており、1980年以来の保守派とか改革派ではなく江沢民・曽慶紅派とか、共青団(wikihttps://ja…%B9%B4%E5%9B%A3)派、とかすでに牢屋入りの周永康・薄熙来派とかいう言い方をされてきました。「共青団派」が存在すると言われたのは60年、70年以後に生まれた省・部級幹部の少なからぬ部分が共青団出身だったからです。
私はこうした共青団系の官僚が中共政界で一派をなしていたとは思いません、胡錦濤が総書記だった10年間に共青団出身の官僚は、李克强、李源潮、令計劃などが大抜擢されましたが、それでも「共青団派」を作ってはいません。以下、皆さんの参考のために理由を述べます。
★中央組織部青年幹部局から共青団中央まで
中共改革以来の政治変遷の中で一つだけ成功したことは老人政治の終焉でした。江沢民、曽慶紅は退職してもその力を温存し、胡錦濤時代にずっと政治に関与してきて、自分たちが長年かけて育てた政治勢力を利用してきました。その他の政治局常務委員は基本的には自分たちの影響力で家族を大儲けさせるだけで、政治に関わることはできませんでした。この点は鄧小平・陳雲らが改革初期に時勢に鑑みて手はずをとのとのえておいた制度的な枠組みによるものです。
中国の改革初期の人なら「第三の幹部世代(第三梯队)」という言葉を皆知っているでしょう。あるいは共青団中央の危機を感じ取ったのかもしれませんが、2014年9月に「中国新聞周刊」に「『第三幹部の世代』の名前が生まれた前後ー新たな世代の新人の起用」という記事が掲載され後ろには李鋭(*訳者注;中共の老幹部、歴史家)の「新たな世代の新人を起用せよ」という昔の文章が掲載され、これはのちに「読書」雑誌に掲載されました。昔、私が復旦大学経済学部で勉強していた頃、同級生はこの文章を読んでみな感激していました。これでやっと半文盲レベルの人々が政治権力を握っている遅れた政治状況の原因となっている老人政治が終わるだろうと期待したのでした。
現在の青年たちはほとんどしらないでしょうね、文革の終わった頃の中国がどんなにレベルが低かったかは。毛沢東の教育スローガンというのは「知識が多ければ多いほど反動的だ」でしたから、知性に反対する古くて荒っぽい文盲指導者を養成していたのです。1976年、毛沢東が死んだ後になって江青らの「四人組」が牢屋に入って、名誉回復した古い幹部が復活したとき、ふたつの問題がはっきりと現れました。幹部たちがみな老齢化し、古い頭・知識構造だったことと、国家機関、党、企業などの各クラスの指導幹部81万人の中で大学や専門学校卒業程度の者がわずか6%しかおらず、72%以上が小学校以下の教育程度でしかなかったのでした。
1980年8月、中央政治局拡大会議の席上、鄧小平が「幹部は『若返り、知識化し、専業化しなければならない』という問題を提起し若手幹部抜擢を「制度化」したのです。後に鄧小平とは意見が食い違うことが多かった陳雲もこの問題では鄧小平と一致しました。1981年5月、陳雲は杭州で「中年、青年幹部を抜擢し育てるのは当面の急務である」という一文を書いて鄧小平、胡耀邦と中央組織部部長の宋任窮に送り、「何千何万の中・青年幹部を抜擢する必要」を提起しました。これに続いて中共中央組織部内に青年幹部局が作られ、陳雲自ら、改革開明派として有名だった李鋭を青年幹部局長に任じ、青年幹部選抜にあたらせました。
1982年に「幹部の四つの『化』」(革命化、若返り、知識化、専業化)が幹部登用の基準となり、中国共产党第十二次全国代表大会於(1982年9月1日〜11日)で中共の新党規約に盛り込まれました。1983年後半、中共中央は最も早い速度で省・部級の後継者幹部名簿を作成することを決定し、胡耀邦はこれを「第三の幹部世代(第三梯队)リスト」と呼びました。何年も後になってこの「第三幹部世代リスト」が花開き、第17、18節政治局常務委員は二人を除いて、すべてこの名簿リストにありました。習近平と薄熙来という宿命の政治ライバルも当時はみなこの青年幹部局が抜擢養成した「第三幹部世代リスト」の人材です。
胡耀邦が迫害されて総書記の座を追われてから、「青年幹部局」は中央組織部の機構からは消えました。しかし、中共が80年代から確立した幹部養成計画は、共青団系によって受け継がれました。中共の高層レベルでは幹部養成は長い時間と鍛錬の過程であり、大学生時代から育てはじめることがおかしいとは誰も思わなかったのです。
以上の説明で共青団中央団校(後に「青年政治学院」と改名)は別に胡錦濤の「裏庭」だったわけではなく、その実際の機能は封建時代の「太学」(*中国,官吏養成のための最高学府。前漢の武帝のときに首都におかれた。地方から推薦,選抜された学生を教え,試験に合格すれば官吏になれた。kotobank.jp/wor..%E5%AD%A6-90873)の働きをしていたのです。中国では周代から統治集団が役に立つ青年人材を官学で養成し漢時代には正式名称を「太学」と呼んだのです。
★政治派閥の特徴とは何か。
歴史の知識と政治常識のある人なら誰でもただ同じ学校の出身っだからというだけではなかなか派閥など作れないとわかっています。派閥を作るには他に幾つかの要素が必要です。一つには思想や理念が共通していること。明の中期、晩期の東林党とか晩清時代の清流、後清流とかです。二つには共通する利益。例えば中共というこの利益集団…民から見ればそうです。内部から言えば利益の分配(役職の高低、職域のおいしさ)の多い少ないが必然的に生み出すものです。中共成立以来の内部派閥の抗争をいちいちあげるまでもなく、文革だけでも、毛系の「四人組」がありましたし、やられた側の老幹部も離合集散の政治派閥をつくりました。三番目は、同郷とか同じ傘の下で形成される利益関係です。例えば封建王朝の科挙なら及第者は二種類の重要な関係を結びました。一つは自分たちを及第させてくれた試験官と師弟の関係を結ぶこと。もうひとつは同じ時期に合格した同年組で、以後、役人世界で助け合おうというものです。四番目は共同していただくボスです。
派閥政治の中国的特徴は(外国にも当然あります。しかし、それは政党政治に進化しています)、歴代王朝ではみなこの「朋党」による争いがありました。北宋の中期には朋党は大流行で、朝廷の官僚たちは互いに攻撃しあって、名臣の欧陽脩はこのために「朋党論」(1044年)に書き表し、仁宗皇帝に力説しました。
要点は君子と小人はみな朋党を組むが、君子は道義のための紐帯であり名を惜しみ、忠信に励み、自らの修養を高めるためでこれには互いに志などを共にして能力を集め互いに補い合うためである。こうすることによって国家のためにことをなし、見方を共通させ、意気を合わせて共に前進しようというものである。しかるに小人の場合は利益を紐帯となし、利があれば集まり、なければ散じて、散じる時は兄弟、親戚といえども互いに相手を攻撃し、タレ込んだり暴露したりして自分の身の安全をはかろうとする。であるから、君主たるものは小人の偽朋党を退け、君子の真の朋党を用いるべきでそうすれば天下は安定する、という内容でした。
この欧陽脩の「朋党論」は以後、君主や臣下が必読の名著となり、君子の党と小人の党は朝廷が忠臣奸臣を区別する基準となりました。この基準をもってすれば中共政体の派閥はみな利益をもって紐帯を結ぶ、ほとんどすべてが小人の党入りで、この20年間はとりわけそうなっています。
★「共青団」は有名無実のバーチャル派閥
というわけで、共青団系統と中央団校は一度は中共が後継養成のベースになりましたが、それは当時の制度によるものでした。団中央が団幹部の面倒を見て抜擢するのは往々にして彼ら自身が団中央から離れて地方の職務に転勤したときに終わりになりました。こうした人々は普通、もう団中央の利益紐帯は切れたのです。李克强、李源潮、令計劃の三人は共青団のそれぞれ異なった時期の英傑でしたが、しかし公開された資料から見ると、彼ら三人の間に横の関係があったとはおもえません。
彼らがかつてともに仕えた胡錦濤も派閥つくって権力にしがみつこうとするタイプではありませんし、彼らとの付き合いも公務上のことであって私的な交わりではありませんせした。例えば18回党大会での権力交代時期でも胡錦濤は李源潮の常務委員入りに力を貸そうとはしませんでしたし、令計劃の息子のフェラーリ事件後にも守ってやろうとはしませんでした。表面的にはもっとも根っこがあったようにみえる「共青団」幹部であったのですが、二人とも胡錦濤にSOSを求めることはしなかったようで、たがいに助けも求めず、与えずの関係でとても仲間意識があったとはみえません。
習近平が近年、薄熙来、周永康、令計劃というそれぞれ大勢力だった相手を連続してやっつけましたが、薄熙来逮捕後にようやく太子党のメンバーの王軍(中共元老の王震の子)ら数十人が連名で支持に努力する旨を書面でだしました。令計劃事件のあと、朝廷は慣例によってその利益関係を調査しましたが、それに連なる人間は共青団中央からは出ませんで、中央弁公室のほうからでました。で、最後は現任の中央弁公室主任の栗戦書が「令計劃の余毒を除け」という号令をかけました。李克强の国務院のメンバーはほとんど温家宝時代の主力で、彼が団中央出身の官僚を抜擢して身辺に置いたという話はありません。周強、胡春華、陸昊らの「共青団のエリートリーダー連」にしても2015年8月10日に北京日報で名指しで「早く偉くなりすぎた、根の浅いやつら」呼ばわりされたにもかからず、自分たちの管理下にあるメディアを使って反論しようとはせず「中国青年報」という「共青団派の論陣拠点」で自己弁護をしようともしませんでした。
以上述べた通り、共青団中央の官僚の間には共同の利益の紐帯は存在せず、誰も派閥の利益のボスにはなりたいともおもわず、さらに互いに助け合おうとはせずですからこれを派閥と呼ぶにはかなり無理があります。
中共は60年以上政権を握ってきてその間じゅう、いかに後継者を育てるかが問題でした。鄧小平時期に老人政治を終わらせるために世代を超えて後継者を指定する制度を作ったわけですが、18回大会の権力交代時期にはこの効能は働かなくなりました。幹部若返りから生まれた年齢制限性が、習近平の「老中青の三結合」に変えられたからです。前期朝廷の組織路線を廃止したあとには必ずや新たな制度が生まれます。まずは習近平がいかなる続きを書くのかを見守りましょう。(終)
原文は;官员多有共青团干出身,但无“团派”——分析中共的“共青团政治”(2)
voachinese.com/..07/3454725.html
何清漣氏のこれまでの論考の日本語速訳は;heqinglian.net/japanese です。