何清漣
全文日本語概訳/Minya_J., Takeuchi Jun
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共産主義青年団(wikihttps://ja…%B9%B4%E5%9B%A3)中央はここ数年、振るわなくなっていまして、李源潮(wikihttps://ja…%BA%90%E6%BD%AE)が閑職にとばされ、彼が始めたハーバード大学への省部級官僚の研修は中止され、青年政治学院(訳注;共青団直属の高校)の大学が廃止されたこと、さらに共青団出身の令計劃が獄中に繋がれたことで、この一時は盛んだった出世コースも大降格されました。しかし、私は本質をいえば習近平が「団派」をやっつけたというより、彼は胡錦濤時代の組織路線を変えようとしているのだと思います。
★習近平はなぜ共青団を格下げしたいのか?
最近、中国共産党中央委員会弁公庁(wiki;ja.wikipedia.or..%85%AC%E5%BA%81)が「共青団中央改革方案」を出し、それには「上を減らし、下を増やす」「幹部選抜の改革」「団建設の改革」「支持保障強化」などの措置が含まれており、すべて「共青団が長期にわたって各級の中共党委および政府に人材を提供してきたという政治使命を終わらせて、今後は中共の『青年たちとの架け橋』としての「大衆組織」としてだけ存在する」という目標を向いております。
はやくも今年4月25日に、中央規律委員会のサイトに共青団中央の巡視改革状況に関する報告が発表掲載されました。今年2月には中央第二巡視組が共青団中央を「機関化、行政化、貴族化、娯楽化」しているという問題を指摘しました。今回の報告は共青団中央のこうした問題に対する改善状況の報告です。もっとも注目を浴びているのが報告の中で再度、「団幹部の質低下を完全に正常化し、団の幹部の基盤低下を正常化すべし」と「すべての専門職の団幹部は常に異なる分野の団員青年と直接、組織について連携すべし」と求めていることです。(*訳注;共青団の高級幹部を降級させるということの回りくどい言い方らしい)
中国の政治運営を熟知していれば、共青団中央の中共に対する後継を育てるベースとしての役割は終わりを告げようとしており、あとは習近平の最後の処断を待つばかりだ、ということです。
党中央が共青団中央に打撃を加えようとするのは去年から兆しがありました。2015年8月10日、北京日報は「正庁級共青団幹部”降格”はいかなるシグナルを放つか?」を発表し、文中で共青団幹部が「出世を急ぎ、根が浅い」と、基本的な訓練が十分でないという問題を直言したことです。注目に値するのは、文中に共青団派の腕利きとみなされ、中央の後継者候補とみられていた胡春華、周強、陸㚖など多くの党政の大物の名前が挙がっており、浙江省共青団の省委員書記・周艶が”降格”されたケースが出ており、中共の高層の人材起用の新しい方向が示唆されていたことで、「共青団組織と団の幹部のあり方に前代未聞の深刻な変化」と書かれていたことです。このニュースはすぐさま削除されたのですが、中共第十八回全国代表大会後、団中央が落ち目になったという事実で、このリリースされた情報は各方面の注目と分析の対象となりました。これが李源潮が査問されたという情報が頻々と現れた大きな背景です。
しかし、私は習近平が各省や直轄市の指導級幹部を「反腐敗キャンペーン」などさまざまな方法でやっつけた事実を総合すると、北京日報の記事内容は習近平の共青団出身の幹部に対する見方だといえるでしょう。習近平が否定したのは其の実、共青団幹部出身の李源潮が担当していた中共中央組織部(*人事部相当。wiki;ja.wikipedia.or..%B9%94%E9%83%A8)の路線であり、つまりは前任の総書記・胡錦濤の組織路線です。
★李源潮在任中の組織部の組織路線とは
李源潮は復旦大学出身で、復旦大学の共青団委員会副書記で、これが彼の中共官僚の出発点です。ここから順次、出世コースを上って行ったということは李源潮はもともと18回大会政治局委員会が育てたということです。李は中組部部長のあと、17節一中全会で中共中央政治局委員となり、中共中央書記処書記となりました。しかし、2012年の中共18回節一中全回では中共中央政治局委員にはなりましたが、常務委員にはなれませんでした。これで外部は李源潮の出世が挫折したことを知ったのでした。それから間もなく中央組織部長の兼任を解かれ、趙楽際がその地位につきました。
李源潮が中共中央組織部の部長だった期間、中共中央組織部は、幹部のノミネート制と競争制度を含む一連の改革措置を採用し、2008年から「青年1000人計画」をつくって、中央組織部の人材バンクとして、科学と技術領域の人材バンクを育てました。
ここで中共の人材養成の「対外開放」について触れておかねばなりません。2001年中国のWTO加入から始まって、中共は政治人材の養成にそれまでなかった開放のスタンスで臨み、慎重に一部の省部級(少数の選抜された庁局級も含む)の青年官僚を細かく選抜しこうして選抜した若い官僚を「政権の明日の星」として外国のトップ大学に送り込み、特別に作られたプログラムを学ばせました。第一陣はハーバード大学に派遣され、李源潮本人がその一人でした。李源潮が中央組織部トップだった期間中、中共当局はこのプロジェクトをスタンフォード、オックスフォード、ケンブリッジ、東京大学など国外のトップ大学にも広げ、18回大会以後、これらのプロジェクトが中止になったときにはすでに4000人の官僚が派遣されていました。ハーバード大学ケネディ政府学院のこうした省・部級幹部養成プロジェクトはもっとも有名で、多くの米国籍中国人たちから「第二の中央党学校」と呼ばれていました。
ハーバードのこの制度は大英帝国から学んだものです。大英帝国はかつて世界で最も後半な植民地をもっており、この植民地統治を強化して宗主国に対する求心力を高めるために、植民地の王侯貴族、高級官僚らは次々と子弟を英国に留学させ、ハーロー中学からケンブリッジ、オクスフォードで英国王室の貴族の子弟と同級生になって仲良くなり、英国とアフリカ、中東などの国の外交網がまるで同窓会の様になるという効果があったのでした。
私はかつて、習明沢(*習近平の娘)、薄瓜瓜(*薄熙来の息子)の件をハーバード大学の人と話したことがあり、この二人は本当にハーバード大学の基準に合致しているのか?と尋ねました。答えは「合致している。というのはハーバード大学は学生を選ぶ基準があるが、その最も重要な一条に『指導者になる人材を育成する』というのがあって、それにはその学生の将来の影響力が考慮される」というものでした。当時、大変感心せざるをえませんでしたね。なぜなら、どんな平民が、彼らが生まれつき持っているような影響力が持てるでしょう?
共青団の下にあった青年政治学院は、90年代から青年幹部の出世する専修学校となり、ある時期にはその重要性は中央党学校に次ぐものでした。
李源潮のこの路線は習近平が権力を握るや否定されました。若手官僚を外国に送る関係のプロジェクトが中止されたほか、中央組織部が2014年に下部に流した「2014ー2018年全国党政治指導班建設計画網要」の最も重要な班員の年齢構成について改変されました。
それは「老・中・青の三結合」の階梯をそなえ、単純に年齢で区切ってはならない、というもので指導者班員のメンバーを年齢層で一刀両断してはならないとしたのです。胡錦濤の時期には幹部若返りのために、35歳になってまだ副所長になっておらず、42歳になってまだ庁局の内部基準に達していないもの、中央政治局では67歳なら中央常務委員になれるが68歳ならダメ、というものでした。官僚界では当時「年齢は宝、学歴はあればオッケー、能力は参考程度で、コネが一番大事」という言葉が流行しました。この組織路線に適合するために少なからぬ役人たちはなんとか自分たちの生年月日をごまかして後にずらし、わかくみせようとしたり、同時にお金を惜しみなくばらまいて各大学に博士課程を作らせ、自分に学位をくっつけさせました。2014年に中央組織部がこの下部通達をだしたとき、敏感な連中なら政治の風向きが変わったことを嗅ぎ分けたことでしょう。この文献は胡錦濤時期の幹部の若返り重視思想を弱めて、新しい「人材計画」は養成を重視するもので、胡耀邦が中央組織部時代に作った青年幹部局で、以来30年以上続いた「青年が一気に偉くなれる」と同日の談ではありません。
★習近平はなぜ組織路線を改変する必要があったか?
習近平がこの改変をやったのは主に時勢に対応するためです。一つは中央のトップに誰を残して誰を残さないかというため。中共中央政治局常務委員は現在7人で、習近平と李克强が1950年代生まれなのを除くと、残りはみな1940年生まれで、王岐山は1948年ですからまさに「中央政治局では67歳なら中央常務委員になれるが68歳ならダメ」にひっかかります。これまでのこの慣例ですと、7人のうち5人は交代しなければなりません。しかし、もし「指導組員の建設についての文件」の基準に照らせば、「老・中・青の結合」を堅持できます。そうなれば次の19回大会を自由にできるばかりか、20回大会だって間違いなく実行できます。江沢民・胡錦濤時代の理論遺産であった「三つの代表」と「科学発展観」は現皇帝によってお蔵入りになりました。しかし、今、指導班メンバーを「老・中・青三結合」させたならば、それはつまり鄧小平が昔決めた幹部部隊建設の規則である、「若返り、知識化、プロ化」を否定するものになります。胡耀邦が書記をつとめた期間、鄧小平の準則を基準にして、青年幹部を養成する方向を確定し、胡錦濤時期に組織路線としてやはり鄧小平の方針を受け継いできたのですから。
二つには乱世にはできる役人が必要だということです。胡錦濤時期の前期は基礎経験の足りない共青団の中央管理が地方の大官になって、守り一辺倒になりました。胡錦濤の時期は政治も警剤もすべて守勢でしたから、共青団出身の高官は能力の欠点がばれないで済みました。しかし後期には腐敗が蔓延し、内部の政治闘争が発生、社会矛盾が先鋭化し、経済情勢は急を告げる事態になり、そんなときに省を預かる一線の指導者はただただ現状墨守では全く役に立たず、乱世を治める人材が必要とされました。習近平は紅色政権を確固させ防衛するために能力の凡庸な共青団系の役人では当然不満足で、これが彼が前王朝の組織路線を改変する主な理由なのです。(「団派」は政治罰だったのか、に続く)
拙訳御免。
原文は voachinese.com/..05/3452486.html
何清漣氏のこれまでの論考の日本語速訳は;heqinglian.net/japanese です。