• ★気功師・王林—方術文化と中国政治★ 2017年2月14日

    by  • February 15, 2017 • 日文文章 • 0 Comments

    (*王林は政界にも多くの信者やファンがいた著名な気功師。弟子の殺人容疑で裁判中だったが、2017年2月10日に死去した。*方術;呪文やお札、祈祷を用いる道術の類)

     近頃、ホットな話題の人物と言えば「王林大先生」でしょうか。王仙人は死去し、吉祥は去り、疑惑の雲がモクモク湧いています。今や王林と華やかな貴顕紳士たちの交友ぶりや、世間を騒がせた数々の出来事、成功物語が次々に書かれています。王林そのものより、こうした術師の大先生が中国にはいつも存在する社会土壌に興味を惹かれます。こうした土壌がある限り、王林大先生がこの世を去っても、また張林先生、李林先生、趙林先生といった大先生が後から後から登場し続けることでしょう。

     

    方術=中国人の主流宗教だ

     中国人は、信仰する宗教が無いとよく言われますが間違いです。香港に行ってみればすぐ分かります。中国人は宗教を信じているばかりか、包容力も極めて広く、仏教、道教、儒教といった国産の他、外来のキリスト教もイスラム教もあります。地元産の土地神から関羽元帥まで皆、ちゃんと今もお線香の煙が上がっています。一番人気は当然、財神・趙公明元帥です。

     こうした全てが中国人の宗教です。しかし西側の主流のキリスト教と違って、中国人が宗教を信仰するのは、魂の拠り所を求めるというよりは、神様と取引するのことが目的のようです。平和な時期には神仏に自分の出世と金持ちになれるよう、子宝がたくさん得られるようにと祈り、それから寺社にお線香とお賽銭を寄付します。有事に際しては諸神諸仏に自分が平穏に厄を逃れることを祈り、願いが叶えられれば廟堂を修理したり、塑像に金箔を塗り直したりすると約束します。中国では昔から、「貧乏人は八卦、金持ちは香を炊き、運が凶なら占い師に相談して変えてもらう」という言い方があります。

     こうした神様と取引するという特徴から、西側の伝道者たちは、中国の宗教は未発達で低レベルなのだとずっと誤解してきましたし、西洋かぶれの学者もこうした見方でした。世界が左派的な時代の現代文化になってからは、中国の一部の学者も「文化に優劣は無い」と言いだしましたが、しかしやはり中国人は宗教を信仰していない、と思いいようです。

     でもその実、改革開放以来、各種の気功師は様々な形で社会復帰をして、世間で身を立て貴顕人士の間で方術文化の盛んなことと言ったら、中国中もう至る所にあって、どこにも宗教が無いなんていう場所ないと言っていいぐらいなのです。こうした方術文化の融通無碍な変化のはスゴイものです。道教を一応基本としてはいますが、必要に応じて仏教や様々な宗教を都合よく取り入れます。とりわけ重要な点は、道家の方術のカバーする範囲はものすごく広範囲であるということです。

     太平の時代には庶民の子作り能力、閨房のテクニック、養生術、錬金術から不老長寿、羽化登仙の方法まで、中国人の生まれてから死ぬまでの全ての人生の要求に応えます。ですから、歴代王朝時代、有名な方術の大家ともなれば、権力貴族に招かれ、中ぐらいでも地方の名門の紳士たちと交際し、ビジネス世界や文化方面での有名人になれました。動乱の時期ともなれば、各種の方術文化は、「豆をまいて兵隊となし、草を切って馬にする」魔法や、「刀で切っても切れない肉体になる能力」とかで、神の力が助けているぞ、ということで底辺層を動員する道具となりました。

      

    王林の傑出せる先輩たち

     現代の王林たちの先輩は多過ぎて枚挙にいとまがありませんで、ここではスーパー級の二人の例を上げておきます。一人は道家の方術の始祖で、なぜその魅力がいつの時代も変わらなかったのか分かりましょうし、もう一人は、方士は科挙などという面倒でせせこましい出世ルートを通らないでも平民宰相という理想の存在に成れるということを示しています。

     方術の祖といえば当然、有名な彭祖で、彭祖家はその高貴さでは誰もかないません。黄帝の6世の孫で、顓頊帝の4世の孫で800年の生涯で農業、工業、商業、官途のどれにもつかず、修身養性を一筋に追求し、49人の妻に54人の子供を産ませました。苦行して研究したというよりは、華美美食を楽しみ、欲望を制限せず、毎日、呼吸導引法を研究して中国の気功の祖と言えるでしょう。君主たちからは大変尊敬され、度々、君主は彼のところを訪れ、去る時にはそっと金銀財宝を恭しく残しておきました。彭祖は大変洒脱で、金銀を置いていかれてもべつに拒まず、平気で受け取ってから、さっさと残らず貧乏人に呉れてやったと言います。この大気ぶりは帝王でもないのに、帝王の様に私財に拘泥せず(*帝王はこの世の全ての所有者だから)、大侠客でも無いのに大侠客よりカッコよかったわけです。

     こうしたお手本は、無数の中国人の心を捉え励まし、以後憧れて模倣する者は数知れずとなり、彭祖レベルには至らなくても「出藍の誉れ」で、帝王の宮殿に出入りし皇帝の「天師」になったりしました。

     方術の文化が最も盛んな時代というのは、道家思想が盛んだった漢王朝初期ではなく、道教が国教になった唐代でもありませんで、なんと明朝です。方術文化は明朝の嘉靖皇帝時代にその頂点に達し、その影響力は三つの方面で顕著でした。

     一つは、術師がうまいこと位人臣を極めてて出世しました。明朝の官界で一番成功したのは二人の道士で、一人は江西省の貴溪道士の邵元節で、嘉靖帝 の知遇を得て、皇帝家の道観で仕事をして、「致一真人」の道号を賜わり、正二品の給与を貰って、一年も経たないうちに礼部尚書に進み文官一品の給与をもらう様になって、死後は「文康栄靖」の諡号を賜わり、伯爵の位での葬儀が行われた。邵元節の跡を継いだ湖北省と湖南省の黄岡の陶仲文は皇帝から更に愛され、嘉靖帝の為に20余年、仙丹を練り、帝が道教にのめり込んだ後半生の師となり友となって、皇帝は宮廷で常に彼と起居を共にして、「師」と呼んだという。嘉靖中期には本人を礼部尚書に任じ正一品の俸給と待遇を与えたばかりか、その妻にまで一品の位を与え、さらに両親まで追封し諡号を送った。本人も次々に役職を与えられ、少保、少傅、少師と三公職を兼ねたのは古今を通じて唯一の例でしたから、これは今日の王林大師も顔負けです。

     二つには、術師が朝廷の政治に介入しました。嘉靖帝は陶仲文の言葉を聞いて信用し、西苑に写り、仙丹を作る炉を築いて20年以上、政治を省みませんで陶仲文と起居を共にしていました。陶仲文は皇室一家のことにも口を出し、例えば二人の子供を相次いで無くした嘉靖帝に「二匹の龍が会うのが良くなかったからだ」と信じこませ、三番目の王子には父親に面会させず、1566年に嘉靖帝が崩御した時、この王子はまだ身分が皇太子ではなく裕王のままでした。

     三番目には、「青詞文化」が当時の文化のあり方を変えてしまいました。青詞は「緑章」とも呼ばれ、道教の天帝に奏上する文章です。一般に特殊な美文体で青い紙の上に、赤い顔料で書き、罪を謝ったり、災難を払ったり、平安を守ったりと色々使います。で、嘉靖帝が好んだことから、上手にそれが書ける人間が偏重され、「明史・宰相輔弼年表」によると、嘉靖帝の17年以後、内閣の14人の輔弼の臣下のうち、9人までが、「青詞」でもって褒められて登用され、もっとも有名な厳嵩は、世の心ある人々に「青詞大臣」とバカにされていました。

       

    方術文化が社会の中で反抗的作用することも

     方術文化の中で、もっともサイコーなのは不老長寿ですが、大衆に影響を与えるという意味では「豆をばらまいて兵隊に、紙を切って馬に変える」といった類の伝説でしょう。王朝が衰える時期になると、いつも誰かがこうした伝説と道術を利用して底辺層の民衆を決起させ、反乱一揆軍にしました。中共の教科書では、これらの反乱軍の指導者が農民でなくても、みな「農民一揆」だとひとくくりにして、順番に(紀元前778年 – 紀元前206年)末の陳勝・呉広の一揆、後漢末の緑林赤眉の一揆、後漢末の黄巾の乱、隋末の農民一揆、唐末の農民一揆、宋・南宋時期の王小波・李順の一揆、方腊(1048-1121年)http://baike.baidu.com/view/14078.htmと鐘相(11世纪?-1130年)の一揆、元末の農民一揆、明末の農民一揆、清時代の白蓮教、晩清の太平天国の乱として教科書の大規模農民一揆としています。

     中共の教科書が、陳勝・呉広の「王侯なんぞ種あらんや」のセリフを平等主義に結びつけ、鐘相が貧富を平らにならし、貴賎無しの平等のスローガンだなどと誇大な評価を与え続けようと、実際は、こうした農民一揆の主流の動員力は「天命説」であり、古代王朝の占い術を使ったものなのです。この術こそが方術のキモである予言です。例えば、陳勝、呉広の一揆前に「陳勝、王たらん」と書かれていた、とか後漢(25〜220)の黄巾族の乱のときの「青空はすでに死して、黄天興らん」とか、元(1271〜
    1368年)の農民一揆のリーダー、韓山童は白蓮教教主でした。張角から始まって、中国歴史の民間の道人たちによって引き起こされた一揆は数え切れません。南宋の鐘相はそっくり張角をパクリましたし、晩清の太平天国、20世紀の義和団は、前者は上帝を名乗り、中国中の方術文化の土壌を利用し、後者は戦闘の前に、壇を築き「刀や槍では体が傷つかない」といった呪文、符呪を身に付けました。こうした光景は史書に数多く出てきます。

     こうした「大師」や「教主」の共通点は、その多くが医術、占い術を中心にしており、張角や鐘相といった連中は、みなこれを利用して人集めを行っています。白蓮教も無論そうです。

     中共の組織ルーツは農民を中心とした大衆でしたから、中共は道教の一門などというものは統治における不安要因だと十分承知していました。ですから政権を奪取して間も無く、全国的にこれらをやっつける運動を開始。かくて民間に綿々と1000年以上続いてきて、時には社会の不安定要因になった各種の神秘主義組織はついにおおっぴらに活動できる余地を失ったのでした。しかし、その社会的な生存の土壌は依然として存在しています。1949年以後、「新中国」では数十名の「農民皇帝」が出現していますし、ことを始めるにあたっての社会的動員には、今日でも基本的に各種の低級な吉祥や予兆、予言、歌などといった方術文化を借用して行われます。数年前の広州で起きた「項羽の後継者」と「清の王家の後継者」の名で組織された「影の兵団」事件はその一例にすぎません。

     「王林大師」は朝廷に紛れ込み、「項羽の子孫」は在野に組織されました。これを見ると、太平天国、義和団以後の一世紀に中国社会が進歩したのは主に「入れ物」であって、中身の考え方ではありません。我々は、「王林大師」現象の本質は方術文化であり、中国政治と結びついたその21世紀版だということを否定するすべを持ちません。(終わり)

    拙訳御免
    原文は;王林现象:方术文化与中国政治之缘

     「中国2015 何清漣」 電子ブック発売中何清漣さんの「中国2015」表紙

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