• ★王石の深圳「万科」が「国有化」されて★2017年4月2日

    by  • April 2, 2017 • 日文文章 • 0 Comments

     3月30日に、「『万科』国有に。CEOの王石は庁長官級待遇で」というニュースがネットに流れ、一年以上もめ続けた万科集団の経営権をめぐる株式取得争いは「宝能投資集団と恒大集団がカラスのように万科を狙っていたら、背後から『深圳メトログループ』がトンビのようにさらって行ってしまった」という状態に終止符が打たれました。「万科という美味しい肉は、もう手を出せない存在(国営)になった」という論評が出ました。(*「万科」;中国一の不動産会社、中国本土で最大手の住宅デベロッパー)

    王石の選択

     「庁長官級待遇」という王の新しい肩書には別に実質的な意味は、大きなものではありません。王石も、こんな肩書きなど気にするとは思えません。こうした肩書きの変化は、別に王石だけではなく、2016年11月に「格力グループ」(珠海市の工業・不動産・石油化学の最大グループ)のCEOの董明珠は、王石とは反対に、公的な地位を私企業に変えました。董女史が捨てた地位は、庁の副長官級でした。このクラスの幹部の退職年齢は63歳となっています。つまり、二人とも自分の地位を、ある段階の人生の決算としてチェンジしたわけです。董女史はもう新しい人生を歩んでいますし、王石がどうするかは完全に彼自身の選択です。(*王石は数年前に、国外に「遊学」として出国中;http://pit.ifeng.com/a/20170331/50870758_0.shtml)

     万科の株式争奪戦は、王石のビジネスライフで最も激しい戦いだったというべきでしょう。長年にわたってグループを率いて、全力を挙げて純利益200億元以上の不動産王国を築き上げたのに、株券所有において戦略眼を欠いて、「王石無くして、万科なし」と信じ、このいつどうかわるか分からない変数だらけのお国柄で、セルフメイドで社長になったというやり方を信じてしまったのでした。この失敗は、既にメディア場で論評され、業界では徹底的な反省材料とされ、全ての民営企業経営者に「ビジネス界のお手本」となっているでしょう。

     万科は「混合所有制(*国内の特定分野を独占している国有または民営企業が、民間または国有企業からの投資を一部受け容れる)」の企業です。中国の現有非国営企業の大半はこの種の形式です。万科より大きく、外部批判を受けることの多い企業も山ほどあるのに、なぜ万科だけが目をつけられたのでしょう何? 通常よく分析される万科の王石や経営陣が、持ち株保有で失敗したこと以外に、一番重要なのは「誰を後ろ盾に頼るか」という点での問題がありました。

     この始まって以来、負け続けの株式購入合戦では、王石は大変つらい努力を続け、最終的には「宝能」にCEOの座を明け渡さなかったのですから、その結果だけから言えば、「万科」は負けてないし、「宝能」は勝ちませんでした。王石の立場からすると、長年苦労して築き上げたたわわに豊かな実りをもたらす楽園を、「野蛮人」に侵入されるぐらいなら、自分に害を与えたことのない無関係な主人に手渡し、一年以上ロクでもない嫌味を言い続けた観客たちの及ばない結末にしたほうがマシということでしょうか。彼がよんできた「正義の騎士」の「深圳鉄道」が後釜に座る件は、これはもう、また別の話ということです。

     

    「万科」の「後ろ盾」

     王石は「賄賂を使わない」を掲げてきました。しかし、中国という土地に立つのであれば企業経営にはやはり、後ろ盾が必要だということも知っていましたので、彼が選んだのは「華潤グループ」でした。この企業は香港登記の複数の持ち株会社グループで、その前身は「聯和行」という1938年に香港でできた企業で、抗日戦争向けのカンパや物資を受け取り保管し、抗日戦争の根拠地に軍需物資や薬品を購入する仕事を行なっていました。これによって、以後76年間にわたる中共でのしっかりした地位を築き上げました。「華潤」という名前に変わったのは1948年、つまり中共と国民党が雌雄を決した時期に、勝利を目前にして「華」は中国を表し、「潤」は毛沢東の字(あざな)の「潤之」から取ったのです。銭之光(実業家、中共党員、1900年-1994年2月5日)が初代のCEOで、以後その従属関係は続きましたが、国営企業という立場を離れたことはありません。近年では「世界企業500傑」に入り、2013年には187位でした。2005年からは連続して、国有資産監督管理委員会のA級中央企業の称号を得ています。「華潤」の万科持ち株は最終的には15%以上になりました。

     「華潤」というカードは十分強力で、王石の最初の選択は間違いだったとは言えません。しかし、人間の計算は天の運命には及びません。2010年後、中国では中共十八回大会後の権力移行の過程で波乱万丈の闘争が始まり、「華潤」グループを十数年率いてきた宋林の身にも及んだのでした。2013年7月17日と2014年4月15日、「新華社」の「経済参考報」の首席記者・王文志は個人の立場で、二度、中央規律検査委員会に実名で、宋林は「華潤」で山西金鉱山の資産買収で、汚職腐敗の行為によって巨額の国有資産を流出させた、と告発しました。
    2014年、宋林が免職となり、「招商局グループ」(香港登記の中国の国営資本企業グループ)のCEO・傳育寧が「華潤」のCEOの後釜になりました。「華潤」の人事が変わったことで、「宝能」とその後ろ盾は、「万科」に乗じる隙が出来た、と見て取ったのでした。

     その間に起きた数々の出来事は、嘘も事実も全てメディアに出てますし、高低様々な喝采の声も長く止みませんでした。ただ自分で企業経営を行なって、深くその難しさを知る人とだけが、王石の境遇の難しさに同情心を持ち、「資本とCEOの協商関係でウィンウィンに終われば良いが」と望んでいたでしょう。任志强(*「フォロワー3700万、ネットの名物富豪・任志強はなぜ袋叩きに?ーその4つの”大罪”ー」http://heqinglian.net/2016/04/09/renzhiqiang-2/参照)はかつて、はっきりと「いかなる人物も『赵家人(中共新権力階級)』を利用して、華潤に対抗すべきではない」(この言い方は安邦保険集団の『赵家人』としての身分=CEO・呉小暉は鄧小平の孫娘だった=を指しているようです)と言いました。しかし、実際は反対で、『華潤』は『宝能』に対して頑張って対抗する気がないように見えました。これが王石を引き続き新たな後ろ盾を求めて、「深圳メトログループ」を引き込み、最後に現在の状態になったのでした。
     
     このような企業が企業を後ろ盾にする関係は、絶対に安全である、とは言えません。しかし、王石は、こうするしかなかったのです。その理由を、王石はこれまで外部に明らかにしたことはありません。私はたまたま当時、深圳に住んでいたのでいささか事情を知っています。1989年、深圳で天安門事件の期間中に何度かデモが起きました。参加者の地位は様々だったのですが、企業グループも自ら職員に呼びかけたのは、「万科」だけだったのです。6月2日に私たち発起人は、横断幕を掲げて深圳大劇場前広場で参加者を待っていた時、「万科」の百人を越す社員が「万科」の緑色のマークをつけたチョッキ姿で、王石をリーダーとして横断幕をもって登場した時には、広場の人々、約千人からすごい歓声があがりました。デモ隊が出発した時には、沿道から参加する人もいて、深圳大学の門についた時には5000人前後になっていました。天安門事件の後、王石の万科本社の入り口には受難者のための慰霊所が何日間も設けられていた。

     この経歴は、政府側から見れば当然「前科」です。王石は大変な努力をして、やっとなんとか当局に、この昔の「負債」を忘れさせました。彼が「万科」の後ろ盾を探した時に、「企業で企業を支える」形を選んで、国営企業を頼ったのはつまり政治的な安全性を考慮したからでしょう。大連万達集団(ワンダ・グループ)の王健林、アリババ社(阿里巴巴集団)の馬雲ら、他の大実業家たちは、そうした心配がないので、こうした磐石とは言えない企業のような後ろ盾は求めず、直接、新旧政治局常務委員の家族や親族らを株主にするように働き掛けました。

     こうした昔の話はこれまで書きませんでした。今となっては王石のCEOの地位は「禅譲」されるでしょうから、書いても彼の将来への影響はもうないと思います。

      

    中国蓄財物語は「政商結合」だが

     「宝能投資集団と恒大集団が万科を獲得、背後に「深圳メトログループ」の物語の結末に対しての論評は、「中国のトップレベルの政局がようやく落ち着いてきた現在、『深圳メトログループ』の背景とエネルギーは確かに、『華潤』より、現在の『万科』の助けになるだろう」でした。果たして、助け得るか? そうした助けが万科の求めているものなのか? は別の話です。中国の政商関係という話に戻れば、王石が「企業と企業」の政商関係を選択したのは、彼自身の安全にとって言えば悪くないと言えましょう。

     中国でのビジネスは、政府関係との「ご援助」から離れることはできません。しかし、ビジネスマンはこうした関係が「離れられないが、あてにならない」ということをしっかりと承知しています。「離れられない」というのは、企業経営者は、業界において、税収、資源配分に直接かかわることで特権を得るには、政府(役人)と、切っても切れない関係だということです。そして「あてにならない」は、以下のような状況を指します。

     一つには、「後ろ盾」の転勤や、官界での不沈で、保護してもらえなくなることです。2013年7月、湖南省吉首市の曽成傑(*湖南三館不動産開発グループ総裁)が、資金集めの不正事件で死刑になりました。民営企業経営者の曽成傑は、事業資金を集めるのに、二人の人物の支持に頼っていました。一人は湘西自治州の長官の杜崇烟の弟の崇旺、もう一人は吉首市の副市長の妻・范吉湘でした。不運なことに、2007年7月、杜崇烟がその息子の北京大学の同級生の石瑶との情事で失脚。杜崇烟の失脚で曽成傑は「後ろ盾」を失いました。湘西での資金集めの波風が、地方の安定に関わる大事件になった時、曽成傑は湖南省が血祭りに上げる犠牲の羊になり処刑されました。事実は小説より奇なりで王石はかつて、曽成傑の死に同情を表明したことがあります。2013年8月13日、北京で開かれたシンポジウムで、王石は起業家に、こうしたトラブルから実業家を助けるため、刑法にふれても、返却無用の基金を立ち上げようと提案しました。

     二つ目は、ビジネスマンが権力闘争に巻き込まれたら、彼らの命運はその「後ろ盾」と浮沈を共にします。こうした例は、中共十八回大会の権力交代以来、枚挙にいとまがありません。その中には、薄熙来事件で入獄し、牢死した徐明のように、16億元の資産があった実徳グループは泡の様に消えました。周永康の失脚では、四川の「漢竜グループ」の劉漢の兄弟5人や、「成都工投グループ」のCEO・戴暁明、「四川郎酒グループ」のCEO・汪俊林ら十数名の企業家がいます。

     王石は賄賂を使わず、企業を個人的な政治家とのビジネス関係にしませんで、株式争いの最中でも、致命的な災難には陥りませんでした。ライバル側が王石の弱みを握ろうと、一年半にわたって調べ上げても、結局、最大の問題といえば経営者として給料が高すぎるというようなことでした。しかし給与額は、前任の理事会の決定で大騒ぎするようなことではないので、ブツブツ言っておしまいでした。

     「戦いが終わって、衣を払い、功名を語らず去る」というカッコ良い描写は、「万科」と「深圳メトロ」には似合わないかもしれません。そんなにカッコ良くはないでしょう。しかし、王石のビジネス界での浮き沈み30余年、このような大変な事態に直面して、身を全うして退いたことは、ある意味では悪くない幕切れだった、と言えるのではないでしょうか。(終わり)

     拙訳御免。
    原文は;我看“宝万之争”的王石归宿 http://www.voachinese.com/a/china-wang-shi-20170401/3792404.html

    「中国2015 何清漣」 電子ブック発売中何清漣さんの「中国2015」表紙

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