• ★TVドラマ「人民の名において」に見る中国政治★2017年4月16日

    by  • April 17, 2017 • 日文文章 • 0 Comments

     「歌舞伎の見巧者は見所を理解するが、素人はただ騒ぐだけ」と言います。今年話題の、「反腐敗キャンペーン」をテーマにした中国中央テレビ放映のドラマ「人民の名において」(「人民的名義」/監督・李路、脚本・周梅森)の重要なポイントは、「反腐敗」ではありません。と言うのは、どんなに目盛りを粗くしたところで、2012年以来の中国における「反腐敗キャンペーン」の成果、例えば、軍事委員会副主席の徐才厚・上将の家にあった16億元の現金や、巨大なヒスイの壁といったものを銀幕上に再現して見せるわけにはいかないからです。そんなことをしたら、どうセリフや筋書に工夫してみたところで、結局のところ、腐敗の根源は、自分たちの制度と中国の文化に原因がある、ということが分かってしまいますから。では、このテレビ映画が人気になった理由は何でしょうか? それには各人各様の答えがあるでしょうが、私に言わせれば、このドラマが大成功したのは、「政治的な資本」(*原語は「政治資源」)と「政治的なバランス」というキーワードで、堂々と中国の劣悪な政治生態をまざまざと見せつけたからだ、と思います。


     

    「政治的な資本」の正体は「後ろ盾と親分・子分関係」

     このドラマでは、「政治的な資本」という概念が繰り返し出てきます。一番多用する登場人物は、「漢東省」(*劇中の省名)の公安庁長の祁同偉(チー・トンウェイ)で、彼は、ある人物が官僚世界でこの先もやっていける人物かどうかを判断するときに、よく「奴には政治的な資本がある」と言います。祁同偉の先生に当たる省委員会の副書記で、省の政法委員会書記の高育良は、「君の言う『政治的な資本』とやらは、つまりは後ろ盾の親分ということだろう」と一言で喝破します。

     このドラマは、高育良と祁同偉の二人の姿を通して、「政治的な資本」の重要性と、それが世代を追って伝えられていく姿を描写していきます。

     高育良は、「漢大」(*劇中の大学名)政法系の大学教授でしたが、二つの大きな政治関係の縁に出会いました。一つは、80年代に間に合ったこと。つまり、中共が、幹部を若返らせ、知識のある、プロ化を基準にして選抜した一番良い時期、つまり「天の時」に間に合ったこと。江沢民、胡錦濤の二代の、中央および省レベルの指導者たちは、実際、こうして政界入りしたのです。二つ目は、「貴人」に巡り合ったことです。当時の省委員会副書記、省政法委員会書記の梁群峰が、政界入りをした時に彼も引っ張られたのです。これが「人の和」でした。梁が退職した後、高育良は素早く次の「後ろ盾」を見つけました。省委員会書記の趙立春の息子・趙瑞竜が、月亮湖にグルメ城と湖岸庭園のプロジェクトを計画した時に、自分の管轄する公共資源を、趙王子の為に「最初の献金」として捧げて、出世の道を開きました。こうして自分の名前を売り、自らの「政治的な資本」に変えて、以後、趙立春の庇護の下で着々と出世階段を登って、省の常務委員指導グループ入りを果たし、省委員会の副書記で省の政法委員会書記になったのです。

     高育良とその一番弟子の祁同偉の関係も、中国政治の二つの潜在的なルールを反映しています。一つは、「政治的な資本」は代々受け継がれること。二つ目は中共党内の政治派閥同士の関係です。

     高育良と祁同偉は二つの絆で結ばれています。一つには師弟関係。二つには高育良は、梁群峰の与えてくれた知遇に対する恩義です。高育良は自分の口から、祁同偉に、祁の妻の父親の梁群峰書記への恩返しだと言います。高は機会あるごとに祁を抜擢し、最後には重要な省庁である公安庁の長にします。高育良から見ると、祁には欠点も多いのですが、しかし、肝心なことは頼りになるし、役に立つ奴だ、という点なのです。

     祁同偉は農民出身で、大学時代にはヒマワリが太陽に向かうように、純粋で向上心の強い明るい青年でした。そして、学校から特別優秀な生徒として目をかけられ、学生会の委員長も勤めました。しかし、生存の残酷な法則によって、止むを得ず、梁璐父娘から無理やり政治結婚する羽目に追い込まれました。

     似たような事実は私も少なからず承知していますが、少し違います。劇の中では、祁同偉の妻の梁璐(リャン・ルー)の父の梁群峰は、娘の結婚のために、祁を窮地に陥れるのですが、こんなことは聞いたことはありません。政治結婚する男性側は、最初から「政治的な資本」を求めて結婚します。ですから、女性側の「政治的な資本」が枯渇するか、男性側がそれが不要な場合、婚姻の継続は確かに難しいものになります。こうした結婚を通じた「政治的な資本」への要求現象が増えるようになってから、経済学では新しい一分野が発展しました。つまり「政治的な資源の世代転移」というテーマです。「政治的な資本の世代転移」の意味は大雑把に言えば、それは父母から息子・娘を通じて継承されるし、妻の父から婿へも伝えられます。祁同偉は梁璐との結婚を通じて、また、高育良との師弟関係を通じて(それには、妻の父への高育良の報恩の気持ちも含みます)、農民出身の息子の身でありながら、大変な「政治的な資本」を持つことが出来たのです。

     官僚世界の失敗者として登場する易学習は、仕事は着実にこなす有能で、視野も広く、民衆を愛する清潔な役人です。しかし「政治的な資本」を欠く上に、「政治的な資本」を無から有を生じさせるような手練手管もないために、村や町クラスの低い役人身分のまま、28年間も昇進できずにいます。当然、「王子とお姫様」童話のお約束の「正直者に最後に福がやってくる」ということで、この「人民の名において」の劇中では、易学習に最後に明るい結末を与えています。新任の省委員会書記の沙瑞金が自ら能力テストに乗り出し、易学習をトップとして表彰して、呂州市常任委員兼市長に任命するのです。

     「政治的な資本」の他にも言及しておくことがあります。今の中国の官僚界で、この「政治的な資本」と言うのは、中国の封建王朝時代の「頼りになる後ろ盾」や、文革時期の「コネを見つける」、20世紀90年代の「政治的親分子分」と実は同じことです。ただ、改革開放以来、中国は、西側経済学の「資源(リソース)」という概念を政治学や社会学で導入したので、これまでの「後ろ盾」とか「コネ」、「政治的親分子分」などという古臭い言い方は廃れて、比較的耳障りの良い「政治的な資本」という言い方になったのでした。

      

    政治バランス;腐敗の容認とかばい合い

     20回目以降、ドラマは、京州市委員会書記の李達康の前妻・欧陽菁が逮捕され、「政治バランスの打破」と「改革の大変良い状勢を破壊する」という言葉が随所に登場します。真っ先にこの言葉を口にするのは、やはり祁同偉です。しかし、高育良や趙瑞竜らも、「北京から天下ってきた検察院の反腐敗局長の候亮平が、市委員会書記の李達康の前妻を逮捕したのは、省レベルでの『政治的なバランス』を失わせて、必然的に李達康の仕返しを招き、漢東省の『改革の大変に良い情勢』を破壊するものだ」と、同じ漢大閥のメンバーとして心配して見ています。

     これは大変面白い、二つの意味があります。「政治バランス」のここでの本当の意味は、「各種の『政治的な資本』を独占する権力の種類は異なっており、どの派閥も皆、自分たちの権力の縄張りをを守っており、縄張りを超えて争ったりするようなことはせず、それぞれが暗黙の了解の上に立って『黙って大もうけ』している」、ということです。

    ここで言う「改革の大変に良い情勢」とは、政府メディアの使う一般向けの宣伝文句の意味ではなく、官僚たちの業界用語です。それは一部の特権貴族たちの利益集団が、「改革」を利用して、富の独占を謀れる利益構造のことを指しているのです。

     私は前からずっと申し上げきましたが、中共の1949年以後の歴史は、まず暴力革命で、「私」を「公」化して接収し、次に改革以来、権力を使って「公」を「私」化してしまいました。権力を利用して「公」を「私」化するのが、つまり中国人が熟知している「腐敗」です。もう少し学問的に言えば「レントシーキング(行政の介入により得る不正収入)」です。このあまりにもアッケラカンとした、家族と国家が一帯になった略奪型の腐敗モデルは、鄧小平時期に始まり、江沢民、胡錦濤時期に、統治集団内部の暗黙のお約束になりました。こうした「暗黙のお約束」は、つまり、統治集団内部では、すさまじい腐敗にも目をつぶり、互いのボスの間では「許しあって」いこう、と言うものです。「人民の名において」のドラマでは、「政治的バランス」と「改革の大変良い情勢」という言葉で、この状況を表しています。

     この種の「政治バランス」は一級政府(省クラスの次のレベルの市。一般市)で仕事をする同僚の間では極めて重要で、官僚利益集団が「黙って大もうけ」するのに必要な前提となります。ですから、李達康が車で離婚した妻の欧陽菁を国際空港に送る途中で、候亮平によって逮捕されてから、高育良と祁同偉らは、李の災難を見て喜ぶどころか、候亮平のこのやり方は、李達康の漢大閥に対する大々的な報復を招くのではないか、と恐れたのでした。祁同偉は、これが新しく赴任した省委員会書記の沙瑞金が、漢東省でやろうとしている「ガラガラポン」の人事改革で、李達康と高育良を同士討ちさせようとするのではないかと疑っています。高育良が一番重用していた前の秘書で、現任の京州市中級裁判所副院長の陳清泉が逮捕されてから、なおさらこれは、李達康側の仕返しだと、高育良、祁同偉は思いました。国家二級幹部(*中共中央政治局委員や候補クラス)で、かつて漢東担当省長、省委員書記長を20年にわたって勤めた趙立春の息子の趙瑞竜は、北京から飛んできて、かつて父親の秘書長だった李達康に面会を求め、自分の縄張りで人を逮捕するのは、自分の面子を傷つけるものだと(実際は、自分たちの腐敗の連鎖構造に穴が開く)と訴えます。祁同偉は、双方が停戦することを願い、高育良に対して、李達康に「政治的なバランスを壊すな」と説得して欲しいと頼みます。祁同偉は、更に高育良の学生だった侯亮平に、職場の隠れたルールを思い出すようにさせてほしいとも願います。しかし、深謀遠慮の高育良も、これにはどうしようもなく、「自分は狸寝入りしている奴の目を覚まさせる術はない」と言います。

     最後に総括すれば、「人民の名において」のドラマのテーマは、「反腐敗」ではありませんで、中国の醜悪な政治実態です。脚本家の周梅森のこれまでの反腐敗ドラマに比べて、「人民の名において」は中国の官僚界の部下を、更に深くえぐって見せ、脚本、制作、監督、俳優の力のこもったイメージ作りを経て、規制のレッドラインを越えることなく、民衆に、官僚界のお話や場面を通じて、今日の中国の政治実態を見せたのです。こうした政治実態がどうして生まれたのか、反腐敗を通じてこうしたことをなくせるのかと言うのは、もはやテレビドラマが問いかけ得る範囲ではありません。私は、中国の腐敗の源とは、政治制度的な腐敗とともに、文化の「パス・ディペンダンス」(経路依存=これまでの文化の轍から抜けられないこと)によるものだと考えています。(終わり)

     拙訳御免。
     原文は、《人民的名义》是展示中国政治生态 

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