• ★女子留学生はなぜ、中国で袋叩きに遭ったか★ 2017年5月27日

    by  • May 27, 2017 • 日文文章 • 0 Comments

    米・メリーランド大学に留学している中国人女学生・楊舒平さんが卒業式で行ったスピーチが、中国で大衆の怒りの標的となって、政府メディアからインターネット上まで、罵声一色となりました。非難が集中したのは、一つは「空気」でした。米国の空気がキレイだと発言したことが、中国の大気の質を貶めた、というのです。二つ目は、「空気がキレイだ」と言ったのは、実は言論の自由のことを言ってるので、これは中国の弱点をついており、中国のメンツを傷つけたというものです。

     気の毒な楊舒平は間違っていません。この問題を論じた文章はみな中国のネット言語が暴力的過ぎることと、中国の青年たちが受けているイデオロギー教育の害毒について集中しています。でも、もっと深く考えてみれば、これは言語間の違いが引き起こした誤解だということも分かります。

     

    異なる文化には言語の意味の違いもある

     言語は文化の一部分で、異なる文化環境の中には、言語表現にはっきりした違いがあります。楊舒平の講演は英語でしたから、当然、米国語の文化です。米国語の文化は、普通、比較的自信たっぷりで、言葉は省略気味で誇張されます。米国語の発言環境での言葉を、そのまま単純に直訳して中国語にしたならば、ある程度の誤解は避けられません。

     例えば、米国人が、2歳の男の子が転んだけれど自分で起き上がったのを褒める時には、「Great boy!」などと言います。これはただ、子供を励ます普通に使われる誇張表現に過ぎません。しかし、もしこれを中国語に直訳し、中国語の環境におけば、「本当に素晴らしい(真棒)」とちょっと褒め過ぎの感じになりますし、「Great boy!」をもし「偉大なご子息だ」などと理解したなら、その親へのいき過ぎたお世辞のニュアンスを帯びてしまいます。その他の文化でも同じことでしょう。日本人同士の会話では、謙譲表現が多いのですが、これを流ちょうな英語に切り替えて会話すると、自動的に英語の言語環境となり、用語や動作、口調、語調などは全て誇張されて、普段の日本人の謙譲表現はなくなります。

    中国——とっくにクライシス、なのに崩壊しない“紅い帝国

     ロシア人は百年以上、抑圧されて生活してきましたから、普段、同国人の挨拶である「Как дела」(*お元気ですか?)に対して、普通は「Не так плохо」(*それほど悪くはない)と答えます。ロシア語文化が分からない米国人が聞けば、まるでロシア人は生まれつき人生に対して悲観的なのかと思ってしまいます。でも、実はロシア語の「Не так плохо」は中国語なら、「まあまあだね(还行)」とか「なんとかやってるさ(还凑合)」と言った感じの言葉です。

     楊舒平は”甘い”言葉でメリーランドの空気を褒めたのも、ただ米国の文化言語環境で普通の言葉を使って表現しただけで、彼女の講演のテーマの言論の自由を論じる導入部分でした。しかし、こうした褒める文化の欠如した中国語にすると、米国の空気に「へつらった」といった解釈をされてしまいます。こうした誤解は、おそらく自分の国とは異なる言語文化への理解不足から起こったものでしょう。

     言語環境文化が注目に値するのは、異なった文化言語環境の違いというものは、制度からも深い影響を受けるからです。社会主義国家の国民は、二重言語技巧をはっきり知っています。つまり公開の場合は、うその話をして、プライベートな場でしか本音を言いません。民主国家の民衆の発言は、往々にして公開の場所とブライベートでも同じで、政府や政治家に対しては厳しいく批判します。CCTV(中国中央テレビ)の、元司会者だった畢福剣は、プライベートな食事会での、普通ならなんでもない冗談が、ネットに録画がアップされてしまったために吊るし上げられて、クビになってしまいました。楊舒平の米国での講演は、完全に米国の言語環境に合ったものでしたが、それが中国語の言語環境に持って来られて、怪しからんと言われたわけで、全く馬鹿馬鹿しいことです。それなら、楊舒平はメリーランド大学で、共産主義青年団の書記のような口調で、「共産党を愛し、国家を愛し、世界観、人生観、価値観を学ぶべきだ」とか講演すれば、中国と中国人のイメージが高められるとでも言うのでしょうか?

     

    「中国語環境のルール」のお役所版

     楊舒平と畢福剣の遭遇した事態によって、公開の場で何かを話す場合、異なった制度にある国の人々ととは大変異なった、中国のお役所版中国式言語環境ルールというものが暴露されました。この中国ルールは、他の社会主義国家とだけ、相通じるものだということを、専門家の研究から見てみましょう。

     欧州の学者が出版した本に「Changing Values and Beliefs in 85 Countries: Trends from the Values Surveys from 1981 to 2004」(「85カ国における価値観と新年の変遷。1981年から2004年まで」)という本があります。これは、民主国家と社会主義国家の民衆が、アンケートに答える際の表現の違いを鏡のように映し出してくれます。ベルギーにあるルーベン大学の研究機関は、世界数十の国家で人々の価値観を調査し、各国民に対してワンセットの質問を行いました。この本は世界の価値観調査プロジェクトの一部としてのデータを編集したもので、この中に大変興味深い現象があります。およそ民主国家では、一般庶民の政府に対する信用度はおしなべて低く、米国、フランス、英国、日本の庶民は政府に対して、各種の批判的意見を持っています。しかし、社会主義国家、例えば、中国やベトナムでは、庶民の政府に対する態度は全く正反対なのです。

     2000年の調査データで見ると、「政権政党を信用している」という回答比率は、中国では93%、ベトナムでは92%(同書184頁)、「政府を信用している」では、中国97%、ベトナム98%(同183頁)です。公開アンケートの場合、一般庶民は、政府のお気に召すような答えしかしません。ですから、調査では明らかに、大衆の政府に対する「信頼」の比率は100%に近づきます。しかし、これはうそがだいぶ混じっています。このアンケートの巧妙なところは、同じことを別の聞き方で尋ねているところです。それは「民主制度も問題はあるが、他の制度より政府は良いと思うか?」という質問です。これは持って回った言い方で、回答者は直接自国政府への見方を言わなくて良いように出来ていますから、本音を聞き出すことができます。大多数の中国やベトナムの民衆は皆、自国が民主国家ではないと承知していますから、この質問に賛意を表した(中国では90%、ベトナムでは72%)という事実は、つまり、自国の制度より民主制度の方がいいと考えているということです。この2種類の回答を比べて見ると、社会主義国の官製言語環境下における本音とうそを、十分比べられますし、社会主義国家に言論の自由のないことの証明になっています。
     
     中国当局はずっと、留学生をコントロールすることによって、海外への「宣伝メディア」にしたいと望んでいますし、それに加えて、「五毛」(*政府お雇いツイッタラーなどSNS書き込み要員)に、国外の中国語メディアに悪口雑言を書き散らかして大騒ぎさせて、中国式の言語環境ルールを国外に広げようとしています。これは西側の人間をどうすることも出来ませんが、少なくとも、海外の中国系の人間をこのルールで縛っておきたいのです。楊舒平の講演は思いがけなく、この政府版の中国式言語環境ルールを破ってしまったので、当局は怒り狂ったのです。しかし、仮面をかぶって暮らすのが当たり前の習慣になって、公開の場では本当の話ができない中国人が、この事件に対して不満たらたらだったのは別の原因があります。つまり誰かが仮面を脱いで本当のことを話したら、自然と自分が仮面をかぶり続けることが、気まずくてたまらないからです。

      

    「中国語環境のルール」の民間版

     中国式言語環境規則には民間版もあります。それは一種の高圧的な政治によって押さえつけられている民間社会の交際文化で、民衆言語の表明における特徴を体現しており、そのうちの4つは注目に値するものです。

     第1には、「世論の傾向性」、つまり時局と当局に対する不満が全社会をあまねく覆っていると、インターネットやケータイが、批判や批評に大量のチャンスを提供します。インターネットやケータイ時代には、民衆が本音や不満をぶちまける余地は大きく開かれ、明らかな「世論の傾向性」を形成しますから、こうしたネット空間での発言や当局批判が民衆の圧迫感の一定程度のガス抜きとなります。

     第2には、政治批判を発表する「時と場所への配慮」です。一部のインテリの「微信」のネットワーク圏内が、自分が作った「場所」であり、価値観や認識の共通性が高い小さなグループ内なら、すこしは自由に話せるわけで、多くの「微信」グループが、同じ価値観を持つ人たちだけを受け容れていて、価値観が合わない人には、しばしばグループを脱けるように要請します。それはグループ内でより自由、率直に話したり、始終、観点の違いで角突き合わせないで済むからです。更に重要なのは、同じ価値観なら違いに信頼し合えるので、真面目な話をしても、畢福剣のような目に遭わないということです。

     第3には「別垢の強み」です。比較的解放されたネット空間では、「別垢」と呼ばれる自分が普段使っているアカウントとは違うアカウントを作って、それを使えば、実名より勇敢に思ったことを話せます。これにはプラス・マイナス両面があります。時勢を批判するときなどは、往々にして実名を使うより先鋭的な発言になりますし、こうした状況の下では、限られた言論の自由を拡大する働きをし、当局のネットワーク管理は始終より高度になります。反面、他人を攻撃するときにも、とめどもなく無責任になり、多くの人身攻撃や、悪意により誣告、事実の捏造など、実際の人と人が顔を合わせる人間関係では起こり得ないようなことが発生します。

     第4は、草の根文化の「俺様大将」発言で、これは共産党文化の後遺症もあれば、ヤクザ文化の後遺症の影響もあります。あの文化大革命の紅衛兵式の「闘争意識」と「敵対意識」で、ちょっとでも気に入らなければお互いに罵り合うことや、政府の洗脳教育から生まれた価値観といったことの、全ては共産党文化の後遺症です。楊舒平は、中国政府からひどい批判を受けたばかりか、民間の共産文化の後遺症患者たちからも、包囲殲滅攻撃されました。こうしたネット上の粗野な言葉遣いや悪口雑言の流行も、自分のことしか考えない態度も、ヤクザ文化の後遺症で、互いに見知らぬ人々がネットの上で互いに野合し集まって、互いに持ち上げ、押し合いへし合いして争うのは、20世紀の北京の「胡同串子」(*やることのない遊び人の群)や、上海の”青紅幇”(ヤクザ連中)のを思わせます。

     民間版の中国式言語環境ルールは、今やまさに中国社会を変えつつあります。インターネットは、確かに自由な言論空間を開きました。しかし中国では、当然のことを普通に話した楊舒平に大きな支持を与えるどころか、まったく逆に、彼女を批判するチャンスを与えたのです。もし、中国の政治が進歩するというのが空論でないというなら、将来の中国の専制政権の社会がどう変わっていくかは、この民間の言語ルールの中からその軌跡を見いだすことが出来ます。比較的はっきりわかるのは、独立した思考力を持つ知識人がネット上で発言出来る余地が、当局と草の根文化の「俺様大将」発言の二重の圧力を受けて、社会を啓蒙する影響力が次第に失っていき、「俺様大将」的な草の根文化が、社会のゴロツキ化を助長していく、ということでしょう。

      (この文の観点は、程暁農との話し合いで生まれたものです。)

     拙訳御免
     原文は;“杨舒平现象”与中国的语境规则 https://www.voachinese.com/a/heqinglian-blog-yangshuping-china-20170526/3873496.html

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