• ★劉暁波と非暴力運動の隘路★2017年7月14日

    by  • July 14, 2017 • 日文文章 • 0 Comments

    7月13日、劉暁波さんが亡くなりました。中国にとっては、一人のノーベル平和賞受賞者が亡くなったという意味ばかりでなく、これは非暴力抵抗闘争という政治理念が、中国ではもはやお蔵入りの状態になったことを意味します。

      

    「08憲章」は非暴力闘争路線を宣言した

     中国国内にいた時、劉暁波さんとは遂にお会いするチャンスがありませんでした。彼が、文壇にダークホースとして颯爽と登場した時、私は、復旦大学の経済学科の大学院生で、専攻の勉強に忙しく、当時、全国に起きた”文化フィーバー”を、文学の世界に居る人達ほど深くは感じませんでした。それでも、少なからず彼に関するいろいろな話は耳にしました。

      90年代末に、包遵信さん(著名異議人士 1937年9月〜2007年10月28日)の関係で、少しだけ、お近づきにはなりました。一度、包さんから電話番号を聞いたと、北京のご自宅の劉暁波さんから、私に電話があり、「现代化的陷阱」(邦訳 : 「中国現代化の落とし穴 ─ 噴火口上の中国」=1998年1月中国で出版。2カ月で30万冊売れた。何清漣女史はこの書が原因で迫害され、2001年に中国を脱出。)の読後感を話してくださいました。王朔との対話集「美人赠我蒙汗药」の中の、老侠客は、劉暁波自身のことだというのも、その一つです。何年も後になって、やっと「老侠」の「侠(xiá)」は、「霞(xiá)」、つまり、奥様の劉霞の名前と韻を踏んでいることに気がついたのでした。その時の電話では、劉さんは、中国の言論出版の自由度合いがどのぐらいか、とても気にしておられました。というのは、当時、出版界では、私の「陥穽」が、出版されたことで、「こうした(訳注 : 現政権批判の)本でも出版出来るなら、どんな本が禁止されるというのだ?」などと言われていたからです。当時、英文の「遠東経済評論」誌に書かれた「北京の春」でも、「陥穽」や「交鋒」を代表作とする「今日の中国出版現象」を論じていました。劉暁波さんが、当時全く、自分の著作を出版出来ないことは、当然知っていました。でも、出版の内情は複雑で、「わずかな隙間から、有力者の後押しもあって出版出来たからといって、中共の言論統制環境が緩んだなどとは言えません」と言うしかありませんでした。私は、その電話でも、深圳のあらゆるメディアが、共産党市委員会から、「陥穽」とその著者についての記事を書いてはまかりならぬというお達しがでていることは話しませんでした。

     2000年7月、会議に出席するために北京へ行くことになり、包遵信さんと約束して、会が終わったら劉暁波さんと一緒にお話しをしようという予定になっていました。7月12日に会議が終わってから、友人の家に子供を迎えに行って、一緒に北京で何日かゆっくりしようと思ったのです。でも、7月13日に、あのわけの分からないひき逃げ交通事故で、手足の骨が折れてしまい、当日の北京大学での講演も取り消しになりましたし、数日後に約束していた劉暁波さんとお会いするのも当然、かないませんでした。(訳注 : 何清漣氏とご子息は、北京の路上でひき逃げされて、親子とも大怪我。これが翌年、同氏の渡米を決心させた)

     劉暁波の生涯で、最も重要な軌跡は2005年以後に始まりましたが、そのころ、私はもう米国に住んで4年目でした。「08憲章」の発起人が入獄させられたり、誰が真の起草者なのか、といった話については、遠望していただけです。08憲章そのものには、その平和と理性で戦おうと言う理念に共鳴し、中国の未来が憲政と民主の道を歩んで欲しいので、私は、夫の程暁農と二人で署名しています。後に、中国内の署名者は、これによって大変な政治的迫害を受けている、という話も切れ切れに、伝わってきました。

     当初は、まだ少しは「08憲章」関係者が、自説を表明出来ましたから、外の世界から見て、中共は、非暴力闘争というこの穏健なやり方を容認すると思ったのでした。米国の著明な中国研究者のデビッド・シャンボー(沈大偉)も、「2000年から2008年まで、中共は曽慶紅の開明的な路線だったが、2009年中期に曽慶紅が引退してからは、その方向が突然、変化した」と書いています(ウォール・ストリート・ジャーナル 2015年3月6日)。これでも、こうした話が随分広まっていたのが分かります。ですから、非暴力闘争と、劉暁波の「私に敵はいない」という宣言が、いつまでも続く論議を呼び起こしたのです。当局の非暴力闘争容認に望みを抱いた人たちは、劉暁波が獄に投じられた後もずっと、その一縷の望みにすがっていました。しかし、劉暁波がノーベル賞を受賞した後、実際に憲章の起草者だった張祖樺が大衆の目の前から姿を消しました(訳注 : 北京で監視下にあると言われる)。この非暴力闘争から憲政民主へという道に、まだわずかに隙間があるという望みが、遂に中共によって完全に塗りつぶされたのを、そうした人々も渋々認めたのでした。更に、以後、劉暁波の妻 劉霞も、事実上軟禁されているのが分かって、ようやく世界も、中国政府の、いささかの異論も許さないという残酷さと、マハトマ・ガンディーが公民権運動指導者として、「非暴力、不服従」で闘った南アフリカ政府と中国では、文明度において天地の差があることに気がついたのです。ネルソン・マンデラは獄中で20年を過ごし、マンデラ夫人は、その事業を外で継続出来ましたが、中国政府は、一切の反対要素を、萌芽のうちに完全に摘み取ったのでした。

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    劉暁波亡き後も、非暴力抵抗路線には苦難の道

     劉暁波の危篤が伝えられて以後、友人たちは少なからぬ祈念の文章を発表していますが、そのうちの二編に深く心打たれるものがありました。一つは、蘇暁康(作家、天安門事件で米国に亡命)の「劉暁波は焼けるような苦しみを経て、激しい怒りから穏やかな路線の選択(刘晓波把激进煎熬成温和)」、と余傑の「劉霞 — 劉暁波の人質」です。

    「煎熬」(煎=油で焼く、熬=煮る、「煎熬」で「汁がなくなるまで煮つめること」→「苛む」に近いか?)の二文字を初めて見た時、心臓をぎゅっと掴まれる様な思いがしました。作者が自ら、この苛まれる思いをしたことがなければ、この言葉を使えませんし、読者もまたこの思いをした人でなければ、その表している重みを理解することは出来ないでしょう。文中の「月桂冠か十字架か?」には、詳しく、ノーベル賞受賞以後の、劉暁波本人と「08憲章」が代表する非暴力路線の遭遇した苦境がが詳しく語られています。

      国内、海外に少なからぬ反対の声が湧き上がり、「劉暁波をめぐる巨大な論争は、異常なものだったことは疑いない」。疑問の声の中には、当然、劉暁波がノーベル賞を得たことが、どれほど中国の現実政治に影響するかへの疑問もあり、蘇暁康はこの点に関して、やや苦渋の思いが感じられる総括をしています。

      : 中国人の喜びの中には、大きな羨望の念もあれば、更には、「民族の誇り」も混じっていたが、しかし、オスロのノーベル賞委員会の意思を理解した人は少なかった。この情勢は逆に、ノーベル賞の重い代償として、劉暁波への負担となってのしかかった。

     劉暁波が亡くなった日、「オスロの意思」は、ノーベル賞委員会委員長のアンデルセンの声明の中で、再度、こう強調されています。
     
      :  劉暁波のノーベル平和賞を通じて、ノーベル賞委員会は、民主主義の発展と、平和の創造の間には根本的な関係が存在することを強調したい。そして、劉暁波が非暴力主義によって中国共産党政権の弾圧に抵抗し、異なる民族間の友愛に貢献したことを貢献したことを」と
     
     まさにこの栄光の冠は、実は十字架だったのでした。劉暁波は、この受賞は、天安門事件で亡くなった人々の霊との共同受賞だと考えました。蘇暁康はこう言います。

      : ある意味では、2010年のノーベル平和賞は、1989年の天安門広場の血塗れの街が予言していたとも言えよう。天安門の学生たちの熱い国を愛そうという気持ちが、銃と戦車によって踏みにじられて、共産主義陣営のドミノ倒しを突き動かしたが、しかし89年世代は恨みをのんで今日まで生きてきた。それが遂に、劉暁波を代表として、彼らの理想と叛逆を、ノーベル賞授賞式の壇上まで運んだのだ。更に一歩進めて言うならば、劉暁波を推薦したのは、今生きている人々ではなく、長安街で倒れた亡霊たちなのだ。彼らが、”文学界のダークホース”を自分たちの代表として、世界に告げているのだ。殺人は政治ではなく、ただの蛮行であり、復讐の殺人もまた蛮行の繰り返しだ、と。中国はいつの日にか、筋道の通った正しい道を取り戻さねばならない。

     私は、そう簡単に感情的にならないのですが、この蘇暁康の一文のくだりを読んだ時には思わず涙がこぼれそうになりました。

     天安門事件を自ら体験した人だけが、「中国はいつの日にか、筋道の通った正しい道を取り戻さねばならない」の持つ重さを知ることができましょう。1989年以後、海外に亡命した学者の先輩の李澤厚と、劉暁波はかつて深い反省のもとに、「告別革命」を出版し、中国内外の知識人に大きな影響を与えました。私には、蘇暁康が言うこと、そして完全には言わないでいる考えがよくわかります。共に風雨を過ごしてきた知識人として、この1989年以後の30年近い年月の「煎熬」の中で、私たちには、暴力革命の呼び声が聴えます。劉暁波の亡くなった当時のツイッターにも、彼本人に対する非暴力革命路線とは異なる意見がいたるところに見受けられます。

     余傑の「劉霞 — 劉暁波の人質」は、劉霞が、劉暁波と共に背負った十字架の苦難の道のりを描いたものです。夫が政治犯として牢屋に入れられ、妻が自由を失うというのは、おそらく中国の特色でしょう。中国の政治的反対者は、護憲派弁護士の妻たちと同様、政治的関わりによる苦難を強いられてきました。これは中共専制独裁政治の、おぞましい残虐さをはっきり見せてくれます。どうか、彼女が1日も早く自由を獲得して欲しいというのは、みなが願っていることです。

     

    中国は、平和的モデルチェンジを拒否した

     数十年、中国の変化を追ってきた中国研究者として、私は、中国の未来は不確定性に満ちていることを深く理解しています。社会の矛盾の先鋭化が進むに連れて、中共当局は、社会安定の治安維持のために投入する費用は、ますます巨額になり、中国の空を覆う専制独裁の暗雲はますます分厚くなっています。2011年の「5つのしない事」(五不搞)、2013年の「七つの教えてはならない事」(七不讲)、2015年の大量の弁護士を逮捕した709事件と、外国資金を受けているNGOの活動停止といった数々の事例は皆、中国が憲政民主への平和的転換への道を全て閉ざしてしまったことを示しています。

     今回、劉暁波の病が重くなって、妻とともに海外に出たいという最後の希望も叶えられず、自由を奪われた状態の中で世を去るしかなかったということによって、非暴力主義が中国政治の形を変えられると信ずる人々は、もう幾ばくもいなくなったと思います。しかし、共産革命の害悪を深く知る人々は、ほとんど全てが、中国にもう一度、同様の革命が起こることを望んでいません。中国当局は、どうやらこの点を、まだ中国人が良く分かってないと思っているらしく、劉暁波の亡くなったその日に、米国の中文メディアの多維ネットで、「沈思録 — ”第五列”との勝負はついた」という記事を発表して、劉暁波、茅于軾、賀衛方、南方周末系のライターが、中共からは、西側勢力の中国における’第五列’だとしています。これは、中共が完全に、どんな理性の声も聞くつもりはないと拒否していることを意味しています。

     劉暁波は既に、歴史の中に行ってしまいました。彼を惜しむ人々は、悲憤悲痛の思いを持って、劉暁波が述べた言葉で、英霊を慰めるでしょう。「一人の殉難者の出現は、民族の霊魂を徹底的に変えうる」と。

    でも、私は、幻想は持てません。ただ事実によって言えることは

      : 劉暁波がこの世を去李、更に多くの民主の烈士が現れたとしても、中華民族の霊魂を変えることはできない。ノーベル平和賞受賞者として、劉暁波は人権の歴史において、一つの歴史的地位を締めることになった。しかし、中国の歴史的地位においては、将来の中国社会がどうモデルチェンジしていくかによって、異なった評価を得るだろう。もし、中国が平和的なモデルチェンジをしたとなれば、劉暁波と天安門の英霊たちは、歴史の巨大な業績の碑となるだろう。しかし、もし中国が暴力革命によって政権交代するのであれば、劉暁波は、平和的なモデルチェンジが中国では不可能であったことの、政治教科書の上の古典的事例となるだろう。もし中共政権が、「膿潰れても崩壊せず」の状態で、長い期間存続していくとすれば、劉暁波が代表する平和的転換の訴えは、中国人が政治を語るときの、非暴力抵抗者の代表的として、暴力革命を主張する人々から批判の目標とされるだろう。

     ということです。

     私は、第一のケースであって欲しいと願っています。しかし、私は、歴史は個人の意思の願望で変わるものではないと知っています。平和的なモデルチェンジの道は、中共当局によって既に閉ざされていますが、暴力革命の基本条件は、今の所は存在しません。中国人はまだ、「煎熬」のうちに待つしかないのです。私の見方は、「煎熬」によって怒り狂うネット民になるよりは、足元から、自分の力の及ぶ範囲内で、できるだけ市民の権利意識を高め、未来のための準備をするほうが良い、ということです。(終わり)

     原文は;何清涟: 刘晓波与非暴力抗争的中国困境 2017年7月14日

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