• ★左傾ポピュリズムの末路 — ベネズエラの癌  2019年01月28日

    by  • January 30, 2019 • 日文文章 • 0 Comments

    日中両文収録「何清漣 2017中国」Amazonで発売しました;20152016Amazon改訳版を電子ブックで。Kindle Unlimited なら無料です
    何清漣氏の2015~2017までのエッセイ改訳版

     1月23日、ベネズエラの人々は街頭に出て、ニコラス・マドゥロ・モロス政権の腐敗と管理の混乱に抗議、ホアン・グアイド国会議長は、臨時大統領に就任すると宣言。米国やブラジルなどがこれを承認し、多くの国家が追随しました。しかし、ロシア、キューバ、ボリビア、メキシコ、トルコなどは、マドゥロ大統領を支持し、国連が双方の対話を呼びかけています。ロイターはモスクワ情報として、現在約400人のロシアの準軍事顧問団がベネズエラに配置されたと伝えました。2011年のエジプト、シリアと同様、ベネズエラの軍隊の態度が、勝利の帰趨の鍵となるでしょう。

     ★ベネズエラの今日は誰の責任?

     中国のソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)上の声や多くの西側メディアは、現在のベネズエラの混乱を人民と独裁者の闘いだと見ていますが、この見方は検討を要します。

     同国は1958年に憲政を開始し、文民政府を樹立した後、民主行動党とキリスト教社会党が交互に政権を担って来ました。1998年12月の大統領選挙でウゴ・チャベスが勝利して、それまでの2大政党交代の政治構造を打破。以後、チャベスは死ぬまで14年にわたって執政、死後はその懐刀で副大統領だったマドゥロが37日間代理大統領を務めた後、2013年4月14日に大統領におさまりました。

     私は、ベネズエラの現状は、独裁者と人民の抗争ではないと考えます。理由は以下の事実です。

     ⑴ マドゥロは2018年の選挙で勝利して続投が決まった。彼の第1期の「政治成績」は世界中が承知。

     ⑵ マドゥロと選挙戦を戦った4つの反対党があったが、世論は一貫して反対党間の争いを非難、一番弱かった反対党は最後には候補者調整を拒否して、選挙から退出。別の政党に投票したことから、マドゥロが辛勝した。こうした行為は、米国やフランスでも普通に見られることで、選挙戦の技巧であって選挙法に反しない。

     ⑶ 一部の選挙民は、選挙の投票権を金券に変えた。 — これも発展途上国では普通に見られること。

     世界を見回すと、民主制度のを建設するのは大変難しいことなのですが、それを擁護していくとなると、これは更に難しいのです。チャベス時代から私はベネズエラにずっと注目してきました。

     私の見るところでは、ベエズエラの苦境は、国民が民主主義をうまく守れなかった結果であって、民主制度と独裁専制制度の闘いではありません。

     今や、世界中のメディアが皆、左傾し、彼ら在野派は、政権の座にある者を全て「独裁」と呼ぶのが大好きで、決して選挙民が自分らの票で「独裁者」を統治者に選んだのだとは認めようとはしません。

     ベネズエラは民主国家であり、社会主義国家です。この国家は1970年代から今日まで輝かしく続いて来たのです。チャベスとマドゥロの二人の大統領は当然、それに大きな関係があります。しかし、もしベネズエラ国民がこの過程で、自分たちにどんな責任があるかを反省しようとしないのであれば、大統領を替えたところで無駄です。

     選挙民は、自分と国に責任があります。主として、選挙で投票するという形で、自分が望む結果と、どんな人間を選ぶのかに責任を負うのです。2018年5月の選挙前に、ベネズエラは既に悪性インフレの泥沼にあり、食品や国民の健康が危機にありました。国際社会も、その選挙による指導者の交代で、何年も続く危機の解決を望んでいました。しかし、ベネズエラの選挙民はどうしたでしょう? 大半の人々が投票に行かなかったのです。

     今回の大統領の地位をめぐる焦点は投票率です。色々な説明の仕方があって、2018年7月31日早朝に、全国選挙委員会会長のルセナが発表した憲法制定大会選挙の最初の選挙公報結果では、7月30日に投票した人の数は800万以上。選挙登録者数の41.53%でした。マドゥロと支持者は、自分は選挙で選ばれた合法的大統領だと思っています。反対派の理由は、一つには投票率はもっと低い。その説には二つあって32%と15%です。もう一つはマドゥロが金券で民意を買収したというものです。

     もし選挙民が最初から投票していれば、今、こんな大変な思いをして街頭で抗議行動をする必要はありませんでした。政治的な罪のなすりあいゲームをするなら、ベネズエラ国民は自分自身を反省しなければなりません。なぜならチャベスもマドゥロも、どちらもベネズエラ国民が選出したのですから。

     ★ベネズエラ国民はなぜ、チャベスがそんなに好きなのか?

     ベネズエラ人のチャベスへの愛は、中国人が毛沢東に抱く愛に勝るとも劣りません。その理由を知るには、チャベスの歴史と、彼が人民にいかなる幸せをもたらしたかを調べて見ないといけません。

     ベネズエラは貧乏な農業国から資源大国になりましたが、その運命の転換点は1922年でした。その年の12月に、ロイヤル・ダッチ・シェル者が、ベネズエラ西北部のマラカイボ湖で油井を発見。巨大な原油が何十メートルにも吹き上がり、世界はベネズエラが大変な量の石油を埋蔵していることを知りました。1970年までに、ベネズエラは57の油田が見つかり、埋蔵量は世界一で、生産高は世界の10%になりました。ベネズエラ人はこうして、石油に頼って快適な日々を送ったのです。一人当たりGDPはブラジルやコロンビアの数倍となり、米国ともさほど変わらないほどでした。

     石油は輸出収入の76%、財政収入の約半分になりました。同時に、石油がもたらした腐敗は、一種の権力貴族階級を生み出し、貧富の差も拡大しました。一般国民はこれに対して、心底恨みを抱くようになり、まさにこの時、偉人チャベスが天から降臨したのでした。

     底辺層出身のチャベスは、貧民層が何を望んでいるかを誰よりも承知で、「左傾とポピュリズム」こそが、チャベスが選挙民の支持を得た2本の旗印でした。1998年の選挙戦では、ベネズエラ人にスーパー級の福祉を約束し、一連の社会主義的な福祉制度を提案し、貧民層の圧倒的な支持を獲得、16%もの得票率の差をつけて圧勝しました。

     大統領になってからは、反米主義の旗印を掲げ、民族ポピュリズムに迎合しました。国内に向け、選挙の公約を実施し、ベネズエラは「21世紀の社会主義」を建設するとして、それには、医療費の無料制度、教育の無料制度、200万戸の貧民無料住宅建設、さらには石油もほぼ無料にすることが含まれていました。こうした政策は、確かに民衆生活を改善し、貧困率を低下させました。

     社会主義の最大の長所は、貧しい人々の平等と福祉への要求を満足させられることです。チャベスは幸運でした。就任以後、国際石油価格は10年以上上がり続け、2003年以後は、さらに高騰し、ついに2008年7月には1バレル150米ドルという史上最高価格になったのです。

     国営ベネズエラ石油会社PDVSAは、チャベスの金の卵を産む鶏となって、稼いだお金はすべてチャベスの社会主義実験に注ぎ込まれ、ベネズエラ国民は一度は、ラテンアメリカで最も金持ち国民になり、世界各地で、狂ったように買い物をしまくる様子は、数年前に世界中で買い物をしまくった中国富裕中産階級のようでした。

     しかし、社会主義の最大の欠点は、目先の利益をむさぼり先のことを考えないで、経済発展が続かないことです。あらゆる他の社会主義者と同様に、チャベスはケーキを分けることは上手でしたが、作ることは下手でした。かれの施政時期に、PDVSAは改組され、腹心に経営が任されましたが、技術投入はされず、この経済の大黒柱の生産能力は大々的に弱化しました。同時に、他の工業業界の発展も放棄されました。

     二つ目には、大いに国有化を推進しました。私営企業や外資企業を国有化したのです。これによってベネズエラの国家としての信用が破産し、多国籍企業はベネズエラに投資しなくなりました。こうしたことは、ベネズエラ経済を一層深刻に、石油に依存させることになり、チャベスの執政中盤には、PDVSAは国家の外貨収入の95%をまで占めるようになりました。この石油に依存するモノカルチャー経済にとって、最悪のことは国際石油市場価格の暴落です。

     その国際石油価格は2008年7月に1バレル150ドルの最高記録をマークした後、年末には劇的な1バレル40ドルまで暴落し、2009年1月21日にのニューヨーク商品取引書の原油価格は、33.20ドルと、2004年以来の最低記録となりました。

     ベネズエラの経済はたちまち苦境に陥り、石油収入ではベネズエラ国内の福祉システムを維持することは出来なくなりました。2013年、チャベスは癌で死去しましたが、ベネズエラ社会と経済は、もう大変憂慮される状態になっていました。インフレは20%に達し、世界最悪で、さらに民意が極度に分裂した社会となって、社会経済問題が全て表面化していました。

     ★ベネズエラ国民は「チャベスの子」マドゥロを選んだ

     2013年の大統領選挙では、チャベスの副大統領だったマドゥロが勝利しました。彼は政敵のエンリケ・カプリレス・ラドンスキーを破った後、「我らはマドゥロではなく、チャベスの魂と共に戦った」と述べました。

     マドゥロの勝利は、やはり左傾とポピュリズムによってでした。チャベス支持者には「私はチャベスではなく、彼の子だ。私は君たちであり、一人の労働者である。君も私もみなチャベスであり、国家の労働者であり兵士である」と演説しました。自分を「チャベスの子」で「チャベス主義者」としたのは極めて賢明だったと言えます。

     マドゥロは、支持者に、自分は、石油収入を社会福祉に投入するチャベス執政の14年の政策を継続すると言いました。ベネズエラ経済は、当時大変な苦境にあったのですが、依然として最低賃金の引き上げを約束し、チャベスの遺体を水晶の棺にいれて、人々が拝観できるようにしました。また米国帝国主義を口をきわめて罵倒し、自らは反資本主義なのだと訴える点でも同じでした。

     こうした一連の行動は、広大なチャベス支持者の心をとらえ、多数の票をしっかり引きつけました。ベネズエラ中央大学社会学部教授のアワロスは、「マドゥロは二つの大事な武器をもっている。チャベスの遺志と国家機関だ」と述べています。

     残念ながら、チャベスが生前に選んで、ベネズエラ国民に推戴されたマドゥロは、チャベスの個人的な魅力も、石油によって莫大な資金を得るという幸運も持ち合わせておらず、そのかわり、チャベス同様の独裁、腐敗、無能は同じでした。彼の数年の統治期間の結果は、何十年にもわたってつみあがった問題が、集中的に爆発し始めたのでした。ベネズエアラの国家は、「20世紀以来、戦争以外で生み出された人類社会の最大規模の崩壊」に陥ったのです。

     ★ベネズエラ政治の癌 — 左傾とポピュリズム

     2011年の「アラブの春」の経験は、「政権を転覆させるのは難しくないが、国家の再建は難しい」ことを明らかにしました。ベネズエラの苦境は、発展途上国共通の病を更に明確に表しています。それは「民主制度を作り出すのは難しい。しかし、それを守っていくのはより一層難しい」です。ラテンアメリカの左派政治制度がどうにもならないことは、ベネズエラの政局が遺憾無く暴露しています。

     民主社会主義はずっと、世界の左派から人類社会の最高の制度だとみなされてきました。ベネズエラの立憲民主主義制度は60余年にわたって、憲法、法律制度、公選制度、議会制度などの民主制度の要素は皆備えていました。福祉制度はラテンアメリカで最高でしたし、同国のあり方は社会主義のメルクマールだと見なされてきました。ラテンアメリカ、中東国家は、米国を敵視し、資本主義の道を拒絶することが第一の旗印でした。ベネズエラはこの両面で、大変徹底してきましたし、今でも堅持しています。ベネズエラ人も西側国家も、ベネズエラの問題では、「資源の呪い」は認めますが、決して、社会主義制度がこの災難を招いたのだとは認めません。

     ベネズエラ人の街頭抗争は、今やシーソーゲームとなっており、軍隊がどちらの味方になるかが、勝敗の決定的な要素です。誰もが承知していますが、アフガニスタンとシリアはどちらも、自国内の戦争に外国勢力を引き入れ、最後にはロシアと米国を代表とする西側世界の代理戦争になりました。そして、アフガンではタリバンが生まれ、もともとは豊かな国家が、今や満身創痍の戦争の廃墟と化しました。シリア内戦は、ISIS(自称イスラム国)を生み出し、中東アフリカ地域の不安定な混乱を生んだだけでなく、欧州の安全と静謐をも脅かしています。

     外部からのウォッチャーとしては、ただベネズエラ国内の争いが、平和的に解決されるのを祈るしかありませんが、しかし、新たに生まれ変わるのであれば、ベネズエラ人は、自分たちの左翼傾向とポピュリズムを放棄しなけrばなりません。さもなくば、今回の巨大な危機をなんとか乗り越えたとしても、炎の中から再生することは出来ないでしょう。(終わり)

     原文は;【何清涟专栏】左倾与民粹:委内瑞拉之癌

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