• ★百年の風雨天地の人 — 李鋭先生 の死を悼んで— 2019年2月19日

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    中国 何清漣

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    中国 何清漣

     

    null李锐(左2)と何清涟(左3) (图片提供: 何清涟)
    云山苍苍,江水泱泱,先生之风,山高水长。
    照片左一为李慎之先生,右一为朱厚泽先生。
    翻出这张将近20年前的照片,三位先生均已作古。愿他们在天堂安好。

    日中両文収録「何清漣 2017中国」Amazonで発売しました;20152016Amazon改訳版を電子ブックで。Kindle Unlimited なら無料です
    何清漣氏の2015~2017までのエッセイ改訳版

    ★百年の風雨天地の人 —惜別  李鋭先生 —
    2019年2月19日

     中国共産党(中共)党内の長老・李鋭さんが2月16日、逝去されました。大地から生まれた人は、いずれの日にか大地に還ります。李さんが、101歳の長寿を全うされたのは喜ぶべきことです。ただ、李先生がこの世を去られた時が、中国国内の専制政治が強化され、独裁政治に回帰し、政府に反対する人々の中共政権への怨念が極めて強烈になっている時期であり、その葬儀も、また政治的にならざるを得ませんでした。

     党中央組織部では、歴代高官の眠る北京の八宝山で、大臣級の葬儀を行うと宣しましたが、李英さんのお嬢さんの李南央さんはすぐさま、父親の人格の尊厳を守るために、党中央組織部の主催する追悼式に参加せずと宣言し、父親の「追悼会をせず、八宝山に眠らず、棺に党の旗を載せない」」「私はマルクス主義者ではない!」という意思を、世に明らかにしたのでした。

     中国語のツイッターでは、一部の極左派が、この栄誉ある老人に向けて悪罵を浴びせています。三度、中共に憲政を実行するように呼び掛けた硬骨の老人に対して、死後もこのような仕打ちというのは、唯一無二の例でしょう。

     中国のこの百年の歴史は、変転極まりなく、高い岸辺は谷底になり、深い谷は丘陵となり、政治家の死後の評価は、自分が属した政権の運命と切っても切れません。しかし、私は思うのですが、人と政権の興廃との利害関係が、時の流れで洗われた後に、人の評価は、更により長い、良知とその人柄という尺度で測られることでしょう。

    ★中共の本拠地・延安に馳せ参じたのは青年の過ちだったか?

     李先生と同時代の人々は、国を思う気持ちが多少ともある人なら、ほとんどが左派進歩派でした。1930年代、左傾化は全世界中で大流行でした。国民の知恵が未成熟な、アジアの専制国家はもちろん言うまでもなく、アメリカ人も深く惑わされたものです。かのエドガー・スノーの著書「中国の赤い星」に心惹かれ、中国の西北の僻地にあった中国共産党に対して、大変な同情が寄せられたのでした。

     李鋭は1917年に生まれ、父親は早くから中国革命同盟会のメンバーで辛亥革命参加者でした。少年の頃、国民党の専制政治を大いに憎み、左翼系の書籍の影響を受け、次第に共産党に近づきました。武漢大学に入学後、学生運動に参加し、1937年に中共に入党しました。1939年に、革命歴では彼より長かった范元甄と結婚し、二人で延安に向かいました。中共は1942年2月に「整風運動」(延安整風)を行い、大量の党員を粛清しましたが、李鋭も免れませんでした。

     李さんの青年時代の「革命志向」は、当時、ほとんどの中国の名門子弟や、地方名士の子弟が辿った典型的な道でした。私はかつて、一部の党内の若い頃の志を最後まで捨てないで生きた老革命人士、例えば李普さん(訳注1)らにお尋ねしたことがあります。皆さん、大変真剣に、「当時の情勢では、ほとんどあらゆる青年が、国民党は腐敗、堕落していると思ったし、中国共産党だけが中国の未来を代表していると思っていた。中共の本質は、最後にやっとだんだん分かってきたんだ」と答えました。

     20世紀初めは欧州から世界に向けて、ソ連を「社会主義の砦」とする潮流が流れ出していました。ですから、1910〜30年の世代の中国青年たちは「天の時」に出会い、西側の若者も、ますます左に「進歩」しました。私たちがよく口にする名文句、「30歳前に左派でないやつは良心がない。30過ぎてまだ左派だったら脳みそがない」という言葉は西洋から来たものです。

    ★1949年(中共政権成立)後、中共から離れて中国で生きていけたか?

     李老に対する厳しい批判には2種類あって、一つは「なぜ、中共をやめなかったのか?」と、二つ目は「党内の快適な医療保険待遇にに執着した」というものです。どちらも、他人に自分の髪の毛を掴んで空中に持ち上げろというような無理な注文です。

     1998年〜2001年まで、李老は毎年深圳、広東においでになり、私は何度もお会いしました。ですから、5、6回はお話したことがあります。本人の口から、中共への疑問が湧いたのは、実は延安時代からだったと言いますが、口に出せないこの疑問は、ただ常識を堅持していくことによってしか表せませんでした。私はこれが李老が終生、良識と人間性をしっかり守ってきた根底にある考えだと思います。

     毛沢東が中国を治めたいわゆる「前半の30年」、中国の政治運動は、土地改革、反動鎮圧、反右派闘争、大躍進、そして、最大規模の文化大革命と、中国人はとてつもない災難を経験させらててきました。李老が80歳になった時、老友の郷賢朱さんが、対句の掛け軸を贈りました。それには「庐山雾瘴巫山雨,吏部文章水部诗」(廬山の霧瘴 巫山の雨、吏部文章水部の詩)と書かれており、その意味を知って観る者には、「スゴイ!」と称えない人はいなかったほど、この14文字は彼の一生の3大事件を表しています。

     「水部の詩」というのは、李鋭が中華人民共和国水利部に反対して、三峡ダム計画に異論を唱え、一生それを堅持したことを指します。1958年初めの南寧会議で、李鋭は三峡賛成派の水利学者の林一山と、毛沢東の面前で「御前弁論」を行い、三峡プロジェクトの利害を説き、かつ文章を提出しました。そして意外にも、毛沢東は李鋭の意見を採用し、三峡ダム計画を棚上げしただけでなく、毛沢東に重用されるようになったのでした。会がお開きになる直前、毛沢東は「君の文章はよく書けていた。俺の秘書になれ」と言ったのでした。これが李鋭が毛沢東の秘書になった理由です。

     当時、毛沢東は、大水利工事と大躍進(原注;1957年11月13日,《人民日报》に正式に「大躍進」のスローガンが登場)を主張していました。李鋭はこの時、三峡プロジェクトの害を説いて、政治的な危険を犯すことになると言ったのでした。この話になると、李老は、当時の毛沢東は、まだ多少は自分とは異なる意見に耳を貸すことが出来たのだと言いました。1980年以後も、李老は一貫して三峡ダム計画に反対し続けました。これが「巫山の雨」の意味です。

     「廬山の霧瘴」は1959年の廬山会議と、その後の李鋭さんが遭遇した境遇のことです。会議は、毛沢東が発動した「大躍進」が失敗し、全国各地で飢饉が発生し、餓死者が多々生じたためでした。毛沢東は会議を招集し、李鋭は秘書として随行しましたが、毛沢東が会議を自分でひっくり返して大荒れにしてしまい、大躍進に批判的だった彭徳懐らを「反党分子」として打倒したのを目の当たりにしました。

     会議の期間中、田家英、李鋭、周小舟の3人の秘書は、ある日散歩しながら毛沢東を婉曲に批判した結果、それが発覚して検挙され、李鋭は「彭徳懐反党集団」の一員として、「右派オポチュニスト分子」のレッテルを貼られて、一切の職務を取り消されました。1960年3月に中共党員の資格を剥奪され、5月には右派分子たちと共に、荒野での労働に追いやられました。1967年11月11日から1975年5月30日に釈放されるまで、政治犯を収容する秦城監獄に閉じ込められました。

     この経験を李老は2冊の本に書いています。1冊は「廬山会議紀実」で会議の期間の彼や他の人の発言記録です。当然、このノートは没収されました。しかし、文革後に李老は八方手を尽くしてノートを探し出し、それに会議に参加した人々の記憶を書き加えたのが「廬山会議紀実」でした。中共中央の要人たちの様々なことが、生き生きと描かれており、廬山会議研究のお手本となりました。

     もう1冊は、「竜胆紫集」です。秦城監獄に閉じ込められていた時は、紙も筆記具も与えられなかったので、綿棒を竜胆の染色剤に浸して、獄中詩作を続け、2冊の「マルクスエンゲルス選集」の余白に書き込みました。1975年、出獄時には、獄中での詩作は4、500首に及び、この染色剤と綿棒の”奇筆怪墨”による詩集は「竜胆紫集」と名付けられました。
     
     他のあらゆる中国人同様、李鋭さんは当時、中国を離れるいかなる方法もありませんでした。晩年になっても、体制と決別する術はありませんでした。なぜでしょうか? 1983年、私は中国人民大学で、中共の歴史学者・李新から肺腑にこたえる話を聞いたことがあります。「中国の知識人が意気地なしだと言われるがね、その理由はどこにあるか? それはね、自分の財産が何もないからなんだ。国民党の統治下だって、もし当局に不満があれば、自分の田んぼを耕して自活出来た。しかし共産党の下では、個人の生存は、全てが党に頼っている。仕事も党に世話され、家も党が分配し、子供が幼稚園に通い、小中学校に通うのも、皆、中共を離れては出来ない。こんな状況で、知識分子が党を批判すれば、生きる道が断たれる。こんな状況でガッツが見せられよう筈がないじゃないか」と。

     改革から40年を経た今も、中国人の職業選択のトップは、依然として政府機関で働くことです。なぜなら、公務員こそが安定した収入と福祉を得られ道だからです。

     ★1978年から逝去に至るまで見事な出処進退

     鄧小平の改革開放は、中共が自らを救うために行った危機脱出の改革でした。毛沢東路線が否定されたことで、李鋭は初めて、短い期間でしたがその才能を発揮しました。1980年に復活してから、かっての党の中央組織部常務副部長に復活し、青年幹部局長も兼職し、この時、李鋭の鋭い人間をどう使うか、という考え方がかなり完全に「新世代を起用する」という文章に表れています。当時の中国は、やはり老人政治でした。李鋭さんは、はっきりと中共幹部は、必ずや血を大いに入れ替えて、新人を起用すべきだと理解していました。

     文革10年の間に、僻地に飛ばされたり、工場の下積みにされながらも、全国一斉大学入試試験が復活してからは、大学に行こうという人々に深い期待を抱き、こうした空前絶後の苦難の経歴を理解し、この人々に底辺の苦難を知り、また改革の志をもって、必ずや、将来の中国を支える人材になると信じていました。ですから、党中央組織部の青年幹部局長の立場から、「ただ賢さだけを唯一の基準に、人材を選抜する」方針を堅持し、平民の子供たちを含むたくさんの人材を破格の抜擢をし、同時に「太子党」からは恨みを買いました。

     中共の青年幹部選抜の「第三のハシゴ」は、まさにこうしてできたのでした。多くの人々、例えば陳楚三の「一封信和“两头真”——紀念李銳老(一通の手紙と生涯志を貫いた — 李鋭老を記念して)」や閻淮の「進出中組部」などにこの話は出ています。一見すると簡単極まる「吏部文章」の4文字には、あの頃の人なら、皆、いかに重大な意味が書かれているかが分かるのです。これが李老の「なすべきことがあれば出る」です。
     
     李老は退職後、役人の身分を失ってからも依然として時の政治を批判し続けました。真実を説き、党が法律の上に立つことを批判して憲政を訴え、当時の指導者が小学校程度の教養水準で国を治めることを批判したことはネットで調べれば分かるでしょう。党内の老人たちと共に改革派の雑誌「炎黄春秋」を支持し、後に習近平政府が、彼の経歴に敬意を払わなくなって、雑誌を廃刊させたのでしたが、これが「退有所守」(守るべきものを守って退く)でした。李老や同様の「青年時代の志を曲げない」老人については、1990年から2010年にかけて、彼らと親交のあった呉思が「李鋭先生はなぜ存在出来たか」で、その理由を分析しています。

     当局の言論管制が、ますます強まっていく中で、こうした老人たちの活動出来る余地は次第に失われていきました。私自身の体験をお話ししますと、2000年当時、私は中国国内で極めて困難な立場にありました。(訳注2)。李さんは電話をかけてきて、それを知って「あんたをいじめてどうしようというのだ」と憤慨されました。そして、私も前にお会いしたことのある任仲夷さん(原注;元中央政治局委員、元党広東省委員会一等書記官)に会って話したら、とおっしゃいました。私は、任さんも、もう退職して長いこと経っているので、恐らくどうにもならないでしょう、と申し上げました。

     それでも、李老は、「ここは彼の地元で、少なくとも彼に、こんな状態を知らせるべきだ」とおっしゃいました。で、数日後、広東省の政治協商会議首席だか副主席だかだった林さんに、李老がこうおっしゃていたので、と電話をしました。状況を話すと、林さんは、「あなたのことは、広東省の意図したものではなく、党中央からの命令なので、任さんにあっても無駄だ」と言われました。

     実は李先生さんたち、党内の老人連も国家安全部から睨まれていたのです。(原注;当時はまだ国内安全保衛隊はなかった)しかし、彼らはいつも出来るだけ自分たちの党内の資格を利用して、やるべきことがあれば、政治的迫害を受けている後輩への圧力を少しでも減らそうとしていたのでした。

     2001年6月、私は渡米せざるを得なかった(訳注3)のですが、まもなく李老から「胡耀邦が逝去する前の談話」が送られてきて、私が編集し、「当代中国研究」雑誌に掲載しました。その後、この「李鋭の最新作」は、香港でしか出版出来ませんでした。2013年10月、李南央が米国から中国に里帰りして、彼女が、父親の出版した「李鋭昔話」は税関から「禁書」とされて、差し押さえられました。

     李老の一生に対しては、確かに彼の中共に対する批判の色々には、党が法の上にあり、勝手気儘な”人治”を行い、結局、「憲政」は空文句だったと言う人もいます。私は、それは両面から理解すべきだと思います。一つは、誰にも限界はあるし、時代にも限界があり、知識にもあります。二つには、こうした老人が直面した過酷な政治の制限の下では、自分が思ったことを、全て口にして発言するわけにはいかないことです。ですから、私の経験だけをここでお話しします。

     2000年に、広州でお会いした時、王若水さん(訳注4)もいらっしゃいました。李老は、特に中国の政治が今後、左へ展開していく流れにあることに触れました。当時は、江沢民の「三つの代表」(訳注;企業家を党の代表に加える=右向きの政策)が唱えられていた時期だったのです。

     で、私は「どうしてそう思われるのか?」とお尋ねしました。すると、「自分は、今の動向に基づいて言うのではなく、中共の政治的な特徴からだと言うのです。『人が死んだら、その政策も止む』で、胡錦濤はかつて青年幹部局が抜擢した幹部で、考え方は党が教育してきたものでした。国民党政府時期の教育を受けた江沢民とは違います」。「私は、中共というこの党が右に行くことは心配していません。だって、根っこが左なんだもの。イデオロギーの根本が動かないから、右にいくのは大変困難。でも左へなら、あっという間に元に戻る」と言われました。後になって、胡錦濤時代から習近平時代に、急激に左傾化したのを見て、何度もこの時の話を思い出しました、彼の中共政治に対する深い理解と、予見性に感服せざるを得ませんでした。

     ★文天祥の「正気の歌」のように…

     李先生が逝去後の数日、その評価は様々です。その中でも確かだと思うのは、「中共と徹底的な決裂をしない党内の批判者」でしょう。李南央が、最も見たくないのが、中共組織部が李老をマルクス主義者だったと宣伝することでしょう。

     李老はマルクス主義者だったか? この呼び方と彼を結びつけて考えたことはありません。李老と長い間、お話をさせていただきましたが、マルクス主義に好感を持っていたとは思えませんでした。先輩の中には、マルクス主義を研究した蘇紹智さんや、于光遠さんと李鋭さんがお話をしていた時には、いつのまにかマルクス主義の理論と現実の比較のような話になったのですが、李老にはそういうことはありませんでした。中共と毛沢東を批判する時は、よく「暴君」「暴政」「始皇帝」といった言葉を使われました。

     李老の著作の風格と、その思想の根底にあるものは、もっと古い伝統的な士大夫の風だと感じました。朝廷に身を置こうが、野にあろうが、一生、良識と人間性を失わなかった人柄です。宋朝の文天祥の「正気(せいき)の歌」は「天地に正気有り、雜然として流形を賦く」で始まります。その中に列挙された「斉に在りては太史の簡 晋に在りては董狐の筆  秦に在りては張良の椎 漢に在りては蘇武の節」ですが、このような人々は、中国古今の歴史にずっと存在し続けてきました、ただ最近はますます少なくなって、今や「希少動物」ですが。

     このような「正気の人」は、表し方は違っていても、後になって国民から追憶されます。ですから、私は、李老の追悼会が誰によって開かれようと、彼がマルクス主義者だったのかどうかにも関係なく、「天地が覆って後に」、歴史は彼を覚えているでしょう。マルクス主義者だったかとか、八宝山に葬られたかどうかではありません。彼が、胡耀邦、趙紫陽、李慎之、朱厚澤、杜潤生といった、彼の先に存在した中共党内の良知、ヒューマンな人として、中共の暗黒統治の中にあって、全て自らの人格をもって、社会に一筋の光となったのです。(終わり)

     原文は;何清涟:百年风雨天地人——送别李锐先生

    (訳注1)新華社通信の元副社長 1918年8—2010年11月8日)
    (訳注2)何清漣女史は著作が当局から睨まれ、監視されていた。
    (訳注3)北京で不可解な交通事故で、何さんと長男が負傷し、のち中国を脱出したこと。
    (訳注4)元人民日報副編集長。1986年の民主主義学生運動(八六学潮)を支持し中共を除名された。1926〜 2002年ボストンで死去。
     

     

     

    原文は;何清涟:百年风雨天地人——送别李锐先生

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