• 程暁農★”東ドイツ人”の「心の壁」 2019年11月13日

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    中国 何清漣
    中国 何清漣

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     1989年11月9日「ベルリンの壁」が崩壊して30年経ったが、多くのドイツ東部の国民は、ずっと仕事のチャンスも収入も西部のドイツ人とは平等になれないと思っており、心の壁となっている。この心理的な「壁」とは、元東ドイツ人の共産党統治時代への迷妄の存在だ。その原因は、制度が変わった時に、ドイツ政府とエリート知識人たちが、共産主義制度文化を、キレイさっぱりと一掃してしまわなかったことに由来する。

     ★1 ベルリンの壁の両側で

     私が西ベルリンと東ベルリンをよく知っているのは、私自身、あの壁が崩れ去る前後、現地にいたからだ。1989年、私は西ベルリンのドイツ経済研究所の訪問学者だったので、時間を作っては「壁」ひとつ越えた東ベルリンに出かけて、東ドイツ経済学者と、中国人留学生を訪ねたものだった。

     二つのベルリンは、ただ冷戦の遺物と言うだけでなく、二つの社会経済制度の明白な違いを体現していた。東ベルリンは、共産政府によって「労働者階級の天国」と称されていたが、税関を通過するたびに西ベルリンからの訪問者は、西ドイツマルクを持ち込まないように身体検査を受けさせられた。

     と言うのは、東ドイツの国家銀行は、東ドイツマルクと西ドイツマルクの交換レートを1対1としていたが、西ベルリンと東ベルリンの動物園の間を往復する電車の駅の外の闇屋では、1西マルクは12東マルクと交換されていたのだった。

     東ベルリン市内の高層住宅は、当時の北京の三門大街の景色に似ており、商店の棚の上の品物はごく少なく、レストランの料理も簡単なもので、お客もろくにいなかった。しかし、西ベルリンは、他の西側の大都市同様、市場には何でもあったし、マンハッタンを模して作られた五番街は、人で賑でわう繁華街だった。
     東ドイツ人は西ベルリンには入れなかったが、東ドイツの家々のテレビのアンテナは、皆、西側に向けられ、西側の事情は十分承知しており、よだれを流さんばかりに憧れていた。

     その時、東ドイツ当局が、中国訪問を許されていた学者に与えていたパスポートは、ソ連と東欧国家にしか行けなかった「社会主義用」ではなく、それを持っていることは一種の特権で、「資本主義の教授」と呼ばれた。その意味は、当局が彼らを信用しており、「資本主義の道を歩む中国」を訪れても、悪影響を受ける心配はないという意味だった。社会主義時代の東ドイツは、毛沢東時代の中国同様、留学生が論文を書く際には、必ず1ページ目にマルクスと総書記の言葉から書き始めたものだ。

     東ドイツに来た中国の留学生は、西ドイツの経済研究に大変興味を持っていたので、私は常々、私がいた研究所の経済研究出版物を持って行った。しかし、東ドイツの秘密警察シュタージは、西側からの「良からぬ影響」を心配して、西ベルリンから来た中国人学者を大いに警戒して、フンボルト大学の学生宿舎で中国人留学生と会っていたら、彼らが中国語の分かるドイツ人学生を呼んで来て、一緒に私たちが話しているのを、聞き取り監視したこともあった。

     東ドイツ高等経済学院の「資本主義の教授」が、一度、東ベルリンの郊外の別荘に招いてくれたことがあったが、そのためには、まず第三者がそっと私に、いつどこどこの地下鉄の駅の外で、ナンバーこれこれの自動車が来るのを待っていてくれ、というもので、それに乗って彼の別荘に行った。

     そこで彼は、一群の東ドイツの経済学者が、命令を受けて、東ドイツがいつ西ドイツに追いつくかを研究させられたが、その結論は、東ドイツの生産効率は、社会主義国家の中ではトップだが、それでも西ドイツの5分の2しかない、ということだった。

     当時、東ドイツの経済は、主に西側からの経済援助の下で生存していた。この報告書は東ドイツの共産党総書記ホーネッカーによって「最高機密」とされた。これで、私は初めて社会主義陣営の本当の「実力」を知ったのだった。

     ★東ドイツ人の心の「ベルリンの壁」

     ベルリンの壁崩壊30周年記念の際に、学者が取材に答えてこんなことを言っていた。「ベルリンの壁は、ドイツ人の頭の中には今も存在している」「ドイツ人は、依然として『西ドイツ人』『東ドイツ人』と言う言葉を使う」「双方の間には見えない”壁”が存在する」といった事だ。

     国際放送事業体ドイチェ・ヴェレが、数日前に、ベルリンの壁崩壊後の東ドイツ人の心中には、自分たちの父や祖父の世代が東ドイツでどんなことをしていたのかという疑問を抱いているが、父親や祖父は沈黙したままだという話を伝えていた。西側の学者や記者が、そうした問題を追及し始めたということは、やっと一つの重要な事実を正視しようとしはじめたということだが、それでも肝心な点には触れていない。「心理的な壁」とは、一体どうして生まれたかという原因についてだ。

     心の中の「ベルリンの壁」の実際は、東ドイツ人の共産党時代への認識の迷妄だ。こうした迷妄は、すべての共産党国家が国家体制が変わったから必然的に発生するというわけではない。ソ連に属していた各国や、ルーマニア、ブルガリア、アルバニアなどには、多かれ少なかれ存在するが、ポーランド、ハンガリー、チェコ、スロバキアなど、共産政権が終了した後、数年間の短期間でこうした問題は解決されており、後者4カ国では、民衆はもうこの問題で困惑してはいない。

     こうした国家の形態の転換で、経済復興の困難を理由に、こうした認知上の迷妄の存在を説明しようとするならば、東ドイツは、こんな問題が一番起きそうにない国だ。

     というのは、東ドイツは、他の全ての元共産圏国家とは違って、限界のある自力で、国家の形態を転換したわけではなく、統一ドイツ形成という過程で転換を果たした。いわゆるドイツ統一とは、実際は、西ドイツが政治民主化と、経済市場化で主導権を握り、また東ドイツ地区には巨額の経済援助を行ってきた。この方面では、東ドイツは極めて恵まれていたのだ。

     だから、東ドイツの政治と経済の転換の道は、穏やかで急速だったし、他の共産党国家に比べてはるかに順調だった。ドイツが統一を開始してから、5年以内にドイツ政府が東ドイツ地区に投入したのは8000億マルク、東ドイツ住民一人当たり3万米ドルで、どんな国も体制転換時にこんな気前の良い資金援助を得たことはなかった。

     しかし、こうして東ドイツ地区の住民の平均収入が大幅に上がって、生活水準が西ドイツ側に近くなった5年後に、依然として4割の東地区のドイツ人には、経済状況は統一前より良くなっていないし、中には、悪化したと言う声があるのだった。

     1980年代の中国の改革過程で、政府は大幅に賃金を上げ、食品供給を増やしたが、その結果、民衆の間には「飯に肉を食って、食わせてくれた人に文句を言う」社会現象が起きた。東ドイツ地区の民衆の気持ちも、そのころの中国人に大変良く似ている。西ドイツの一部の社会学者は、東ドイツ地区の民衆の不満を、東ドイツ民衆の個性の問題だとしたが、これは、故意に、共産圏だった東ドイツのマイナスの歴史遺産問題を回避しようとするものだ。

    ★3 心の「壁」は共産制度の文化遺産

     何が「ベルリンの壁東海の複雑な遺産」なのか? 米・タフツ大学のカリマー・ナイトはこんな言葉を言い出したが、解釈は述べていない。実のところ、「ベルリンの壁倒壊の複雑な遺産」とは、つまり、ベルリンの壁という共産主義制度の象徴が代表する共産党制度の文化遺産なのだ。

     共産党国家の統治を維持する方法は、基本的に洗脳で、価値観、行動様式の改造によって、人々を共産党のイデオロギーに基づいて考え行動させるようすることにある。だから、社会主義国家を民主化し、市場化の道を歩ませるには、共産党時代に形成された道徳観、価値観、行動様式を、全て相応に調整し直さねばならない。

     こうした調整過程が、すなわち社会の再建であり、私は社会のモデルチェンジと呼んでいる。社会主義制度から資本主義経済制度と民主政治にモデルチェンジするのには、政治的転換(民主化)と経済的転換(市場化)だけではなく、社会が転換しなければならない。つまり、価値観と行動様式が変わらなければならないのだ。

     しかし、西ドイツ政府が主導した東ドイツモデルの転換には、まさにこの最も重要なプロセスが欠けていた。だから、心の中の「ベルリンの壁」は、東ドイツ地区の民衆の頭に残り続けたのだ。

     社会性の転換は、政治的、経済的な転換より一層コントロールが難しいプロセスだ。政治と経済なら、政府が主導してやれるが、社会の転換となると、一人一人の市民が、それまでの共産政権の下で受けてきた道徳や価値観を自己否定し、新たな非共産党的な社会道徳や価値観を再認識し、個人の行動も再点検する、自分の頭が爆発しそうになるプロセスを経なければならない。こうした自己否定と行動パターンを変えることは、個人の自覚に基づくしかないわけで、どんな政府だって強制出来るものではない。

     そして、もし社会メンバーの多数が共産党的観念と道徳的な観念を否定するのに成功したら、新たな価値観や道徳を受け入れるだろうし、同時に、自分の行動もチェックするから、社会は、早く民主制度と市場経済に適応出来る。もし、転換が遅々として進まなかったら、民衆は、以前のまま共産党的価値観で各種の政策を評価するし、人より優位に立とうとしたり、要求ばかりする気持ちになって、数々の不満も生じるだろう。

     東ドイツ地域の制度転換を指導した西ドイツ側の知識人エリートたちは、社会転換の重要性を理解していなかった。一面的に共産党文化の残滓に対して寛容さを強調し、単純に秘密警察の批判だけした。だから、東ドイツの多くの民衆は、歴史上の醜悪さと直面するのを回避するために、あまり努力せずに済み、ゆえに「乗り越える」すべはもたなかったのだ。

     ドイツ統一後、東ドイツ地域では、共産党時代から遺された価値観や道徳観念は、一掃されなかったので、多くの社会問題が起きた。例えば、中欧国家の民衆とは違って、東ドイツ地区の民衆は、ドイツが統一によって変わっていく過程では、往々にして、西ドイツ市民と同様になりたいと政府に要求ばかりしがちで、自分の仕事や暮らしぶりが西ドイツの人々に及ばないと大きな不満を抱いた。

     次に、元共産党のエリートたちは、自分たちがその地位を失ったが故に、筋違いの要求に胸を張って「自分たちは『失われた世代』だ」として、いささかも後悔しようとはせず、逆に自分たちが落ちぶれたのは民主主義と自由経済のせいだという不満を持った。

     それに加えて、市場経済の下では、多くの研究、教育、文化、メディアなどは、政府からの補助がなくなり、東ドイツの多くの知識人と文化人は、自分たちの価値観を変えられずに、自分たちの社会・経済的地位の低下は、すべて体制が変わったせいだと思っている。

     ベルリンで、私は、多くの東ドイツ時代の知識人がこれに文句を言うのを聞いた。中には、民主制度を嫌悪し、中国の現状がうらやましいという人もいた。

     ★4 なぜ、ドイツ政府は東欧4国に遅れを?

     中国は民主化などやったことがないから、当然、共産党文化遺産の清算など言うまでもないし、「飯を食ったら、箸を置いて飯を食わせてくれた人の悪口を言いだす」社会現象が起きるのは当たり前のことだ。

     しかし、統一ドイツが東ドイツの民主化を完成させながら、社会モデルの変換という点を重視しなかったがために、結果として東ドイツで、そのようなグループを作り出してしまった。こうした人々が、禁煙、選挙でドイツ本国がアタマを痛めている「ドイツのための選択肢」(AfD)を支持している。しかし、ドイツ政府は、未だにお金を投じても社会の再建を贖うことは無理で、却って罵られるようになるということを分かっていない。

     実は、ドイツの隣邦では、社会主義からの再建に成功した国々がある。中欧4カ国は、独立知識人と一部の開明的共産党員が主導して、三つの社会のモデルチェンジのスローガンを提起した。「懺悔、魂の浄化、犠牲」だった。

     この三つのスローガンは、元共産党の官僚や当院、はもとより、全ての社会人に向けられたものだった。その実施としては、主に、元のプロテスター知識人がメディアを通じて、社会動員し、社会の共通認識が生まれるようになったのだ。このスローガンは、社会で広範な支持を勝ち得た。

     「懺悔」というのは、大多数の社会メンバーが共産政権下で、多かれ少なかれ、内心のじぶんたちのやってきたことへの反省だ。「浄化」とは「懺悔」した人々が、自分の考え方の中の、共産党当局に洗脳された価値観と道徳観を次第に取り除くことで、これが魂の「浄化」だ。これは、個人の思考、反省の過程で、各自が悟るという一種の社会的雰囲気を生み出した。

     「犠牲」とは、主に社会人が、国の体制がかわっていくときに、つまり旧体制を終わらせ、一掃するために必要な、体制や個人がある程度犠牲となることだ。同時に、経済のモデルチェンジにおいて、自分が共産党時代に得ていた既得権益にしがみつかず、ましてや「金が全て」ということを否定した。

     中欧四カ国の社会のモデルチェンジは、数年間という短い間に一段落して、以後、こうした東ドイツで出現した「心の中のベルリンの壁」的な問題は生じなかったのだ。

     ドイツの実業界と文化界と中欧諸国は、大変密接な交流があるから、中欧4カ国の再建過程で起きたことを、ドイツ政府が知らなかったはずはない。しかし、西ドイツの主な政党や文化面でのエリートは、多かれ少なかれ、マルクス主義を尊重し、寛容で、共産党政権の文化遺産とマルクス主義は密接な関係を持っている。「ネズミは打ち殺したいが、器物を壊すのが心配だ」というのが、あるいは社会再建を放棄した理由の一つかもしれない。

     そのほかには、社会の再建で、一部の社会メンバーの抵抗に遭う可能性があって、ドイツ政府は、順調に統一を進めたいが為に、「生け花」のようにしたくて、「棘を抜く」のを嫌ったために、こうした苦い果実を植えてしまったのか。今日、東ドイツで活躍している人々の中には、社会主義を褒め上げる歌を歌ったり、民主制度を批判したりする人がいるが、メルケル総理の所属政党を支持する人は少ない。

     結論としていえば、ドイツ政府は、社会モデルの変換の最初のチャンスを失って、今新たに学ぼうとしても、既に遅く、一層難しくしてしまったのだ。ドイツ政府が、東ドイツの社会変換で残した教訓は、実は、中国にとって大変重要なのだ。中国の未来に民主化の過程は、社会の共産主義の価値観の深刻な問題に遭遇するだろう。その点からも、これは大変、注目に値することなのだ。(終わり)

     程晓农:为何东德人心中的“柏林墙”难以移除?

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