何清漣氏 @HeQinglian ブログ
2013年04月28日
日本語全文概訳/@Minya_J Takeuchi Jun
5/8/13
中国は早々と貧窮国家から災難国家になり、中国政府も繰り返し「多難興国」と強調している。しかし、「禍転じて福と成す」という唯物弁証法原理に立つ中国政府は長年にわたる貧窮・災害援助の体験から世界に例のない「募金経済学」を考えだした。この”社会主義的特色”にみちた「募金経済学」によって、中国人の「募金疲労」もまた増々深刻化している。
《「募金経済学」の3大原理》
第一原理は「慈善寄付金は政府の『第二財政収入』である。中国政府は一貫してNGOは「民間組織の名を名乗る政府組織である」と理解してきた。慈善は必要だが、「養分に富む水を他人の田に流してはならず、自分の田にあってこそ安心出来る」というわけだ。だからまず身内にいくつかの慈善基金会をつくらせた。例えば中国傷痍軍人連合会に宝くじ発行権を与えたり、人々が後代の後代教育への関心を利用して各級政府が割当を決める「希望工程」(*爺注;学資困難な児童援護基金)とか。
中国で大きな天災や人災、例えばエイズ、地震、洪水などがおきるとメディアが「愛の心をお金の形で表そう」とキャンペーンを張り、社会を総動員して民衆や企業に各種の形で発揮させ、多くは中国赤十字会がこれを”笑納”する。例えば2008年汶川地震で、各基金が国際・国内で585.93億元もの義援金を集めたのを見て、政府はしめたとばかり、あらゆる公益慈善組織の寄付金・義援金は政府の部門に収める様に、と紙一枚で命令したものだ。
《第二の原理;所謂「義援」は実は相当強制的で、国家の税金の持つ「強制性」「対価無し」》
中国政府は中国的な”単位(爺注;ダンウェイ=企業と町内会が一緒になったようなもの…)支配力を使い義援を命じる。各「単位」は直接、労働者の給料からさっぴいてしまう。自分も深圳にいたとき、1993年から毎年、サラリーから一ヶ月分の給料(2000余元)を「希望工程」(*未就学児童援助)に3、4年そうされた。その上に不定期に「単位」が100元の福祉宝くじを傷痍軍人の為に、と買わされた。1998年の揚子江洪水の類でも自発的義援金を払わされた。「単位」の中の等級で金額が決まっていた。始めの頃の義援は古い服等もOKだったが次第に「被災人民の需要」だとしてお金だけに。この行政が介入して下に命じる「自発献金」は「生活水準が高い」からと深圳・広東等沿海で始まり全人民が貢献すべし、ということで全国的に推進された。
第三の原理 《用途のブラックボックス化》
政府が慈善募金を独占して、しかし用途は公開しない。一部は会計報告すらなし。あっても形だけ。この習慣は長く続いていたが、最近では慈善義援金は他の公益事業にまで広がり、それにメディア革命がおきてやっと問題が市民の視野にみえてきたものだ。2008年汶川地震と1976年唐山地震は30年の間があったが、中国人は災害被害に対して共に心を痛める気持ちはあった。自ら進んでであろうと、政府の割当であろうと、全国人民は文句をいわなかった。
しかし、政府が最大のバックについている赤十字会の郭美美スキャンダル(*爺注;赤十字の「商業総経理」と名乗る女性が、贅沢な生活を新浪微博で暴露、結局うやむやに。)、慈善基金の用途不明問題がついに雅安地震では反対運動が出現した。北京はなぜ義援反対が起きたかを反省することなく、却って各単位を通じて社会に「義援」を出す圧力をつよめるだけだった。民間に「自主的に」献金させるために通知をだし、党の事務機関、学校、企業の労働者に強いて、金額を具体的に示し 100元から300元の「義援金」を割当てた。幼稚園すら例外ではなく、北京の怡海幼稚園は園児の親に義援金を出す様にと通知をだした。
《中国慈善基金のブラックボックスは伝統》
私が中国慈善基金の不透明な財務状態を知ったのは、かって中国人から希望の星とみられていた、かの有名な「希望工程」からである。中国青少年基金会の元に設置された「希望工程」は1989年に始まった慈善公益プログラムで、中国共青団中央が主催。目的は様々なルートから募金して学習機会のない青少年に学ばせようというものだ。その目標は大義名分を備えており人々の心に響くものがあり、さらに政府が全力で応援し、中国社会の各界の強力な手助けもあった。同時に始まった中でこのプログラムだけが突出した大量の義援金を集めた。
私個人では一つは毎月基本給与から二千元が差し引かれ数年続いた。二つ目は1995年に青年キリスト会が出した「希望文庫」で1949年以降に出版された本から五百冊を選び、人文、歴史、科学等の著作を全国1万の農村の学校に贈った。出版社は作者に原稿料をカンパすることを希望したので、自分の「中国の人口ーダモクレスの剣」ー「未来に向かって」叢書ー が選ばれたので喜んで原稿料はそうした。
残念なことに「希望工程」ははやくも腐敗スキャンダルに見舞われた。1994年1月、香港の「壱周刊」に「希望工程7000万元の行方不明があり、青年キリスト会は買っていかなる財務監査も受けていない、と報道された。しかし、この報道には続報がなく、2000年になって再び醜聞が報じられた。私はかって「中国の闇―マフィア化する政治 」の第六章でもっぱらこの「希望工程」をめぐる醜聞と検挙者、暴露、背景を調べた。
この腐敗を知らせた柳楊女史と同僚の易暁に勇気がなかったわけでも、記者の方進玉が悪かったわけでもないが、南方周末誌がメディアとして不道徳だったこともない。しかし、3年間の醜聞掘り起こしの報道努力にもかかわらず、中共中央宣伝部の強力な関与の元で告発者達は徹底的に弾圧され、南方周末誌と記者は沈黙を強いられて終わった。南方周末誌はさらに中央宣伝部の干渉で02年3月21日の『違反投資に怪我された希望工程、幹部はその責任を負わず」という記事を撤回させられ同日の新聞は改訂版とすでに市場にながれた2種類が発行された。以後、この問題には触れなくなった。
希望工程の腐敗を告発した易暁は誣告によって入獄、冤罪はいまにいたるまで晴らされず。もうひとりの柳楊女史は脅迫を受け、長年 生活に困って到る所を転々とし病に倒れ貧窮のうちに2006年4月6日、逝去した。方進玉記者は「死は彼女にとって解放だった」と涙ながらに語った。
《義援金に伸びる汚い手はどれほどあるのか?》
かって希望工程の徐永光(中国青基会常務副会長)の出世の道が物語る。徐は醜聞の後、中華慈善総会副会長になっている。香港の明報の記者がインタビューで「国家審査署が希望肯定の違反が深刻だと指摘してるが?」と質問。これに対し、徐は笑いながら「この問題はねえ、事実上つまり、もし私が腐敗してたら、こうしてここであなたに会ってないはず。だから、ゼッタイそんなことはなかったのだ、安心したまえ」と答えた。つまり、徐永光の背後にはさらに大物がついている、ということだ。でなければスキャンダルの後で徐が出世するなどということは考えられない。
雅安地震の後、中国赤十字はその信用が危機に遭遇し、ネットでは「黒十字」と嘲笑された。かっては内部から郭美美事件が暴露され、おもいがけずも郭大女史が居直って微簿に性愛動画を発表し、露骨に逆ねじをくわせるや赤十字の指導者は事件を再調査しない、と発表したものだ。赤十字会が無惨に「黒十字会」に変貌した経過を教訓として、中国の123家の公益基金会は社会の信用を回復するために4月27日に中国基金会を中心にネットのトップ頁に「雅安地震基金会によせられた物資の使用状況情報披露」欄をつくり、10.94億元の贈与物資と義援金の使用状況を発表した。
しかし私はこれはただ中国公益基金の透明化の第一歩にすぎず、もし鍵となる中国政府があいもかわらず「義援金経済学」の3原理を続けるならば、中国民衆の「義援金疲労」はますます強まり最後には中国慈善事業は袋小路の行き止まりになってしまうだろう。(終)
拙訳御免。原文はheqinglian.net/2013/04/29/donation-in-china/ に
蛇足;爺の感想;1994年ごろ、北京に住む中国の若い友人が「自分はまだ貧しいけど、妻と収入の1割を『希望工程』に義援金として毎月だしているんだ」と誇らしげに話していたのを思い出します。沢山の中国の人々が彼と同じ思いだったんでしょうなあ。なんとも翻訳していて暗い気分になりましたわい。