何清漣氏ブログ
2013/5/9
日本語全文概訳/Minya_J Takeuchi Jun
http://twishort.com/BDpdc
2013/5/11
習近平が『中国にあった靴』論を唱えて以来、内外の「習は政治改革を実行する」と予言していた人達もこのところ黙り込んでしまった。しかし、私は習の談話に頻出する”人民”という言葉からある傾向を見いだした。習は自分の崇拝する毛沢東同様、人民に推戴されたいと願っている事をだ。ただその”人民”は決して自然のままの「人民」ではなく、自分の政治的花壇で栽培され、お手入れされて咲いた「人民」である。
《張明澍の中国国民素質調査》
今年の5月初め、中国社会科学員政治学所の張明澍が「中国人はどんな民主が欲しいのか」を発表。私はまだ全部読んでおらず、質問内容も知らないが、南方周末のインタビューからするといくつか重要な結論があるようだ。例えば、「もし左、右、真ん中と中国人の民主観を分けたら、左が38.1%、中間が51.5%、右が8%」とある。張明澍の「右」というのは自由主義的価値感、つまり西側民主理論の信奉者達だ。(爺注;日本の概念と逆?なので注意。asahi2nd.blogspot.jp/2013/03/gendai05_9.html 参照)
インタビューの中で言及した中で、3つの点で注目に値する。まず第一は張は調査者として中共の宣伝が国民思想形成に明白な効果があがっていることを認めていること。「結果によると、右が少なく、左が多いというのは、社会の大きな部分が主流メディアの誘導にそっていることをハッキリ示している」と。二つ目は調査では、中国大衆が倫理主義や理想主義から政治判断を下したり、政治行為をするという数が減っており、自分自身の利益からの政治行為をする、という数がはっきり上昇している事。これはこの10年来の中国の権利擁護活動の萌芽と発展の道、護権人士の訴えとも合致している。三つ目は、政治観念上の自由主義的傾向(つまり「右派」的傾向)と教育程度は相関関係にあり、教育程度が高ければ高い程、「温和で実際的」なものを受け入れることを示している。教育程度が高い人程政治的には中間から右派になる傾向、と。つまり教育程度が低い程、政治的立場は容易に左傾するということだ。
右派は金儲けに、左派は分配に長けている。個人能力を重んじ自由競争の国は右派が多いというこれは世界各地の現状と合致する。例えば米国。社会主義国家が好きな人たちの多くは貧乏人の多い国、例えば中国、ベネズエラ、アルゼンチンなどだ。調査者として張明澍は「中国人が欲する民主とは、法治より徳治であり、市民の権利や自由の保障より、反腐敗を解決し、政府を民衆が監督する問題が優先。形式や秩序より、実質と中味を重視。投票評決より話し合い優先。中国人は外国的な民主ではなく中国独自の民主を欲している、と結論をくだしている。。
経験から私はこの調査は結構信用出来る、とおもっている。で、ツィッターでそういうと、ツイ友達は承服せず、この調査はホントではないという。中国人の素質はこの調査よりは高いはずだ、というのだ。これは彼らがツィッター上で過ごし過ぎて、ツィッターの上でみられる意見が中国大衆の知的水準だと思っているからだ。
ところで、外国の民主制度とは何か、ということはその実、中国人の少なくとも8割はさっぱりわかっていない。中国と現代の民主主義制度の国家との違いに至っては分かってる人は更に少ない。「主流メディアに沿って」いる結果、当然「米国の民主、人権はニセモノ」、「台湾の民主は成熟しておらず、騒ぎと陳水扁の汚職を産み」、「インドの民主は貧困と飢餓の原因」等等。中国人のこうした考えは勿論「何事も時間をかけて出来上がるもの」なので、中国政府は中学校の「政治」科目から始まって中国主流メディアによる文字、映像、音声を通じて日夜教え込まれ続けたあげく、今やすっかり中国人の心の奥に染み込んだ考えになっている。
近年ではさらにインターネットの発展で、中国の政府による宣伝内容は更に増え、例えば「世界のあらゆる国家に貧しい人々はいる」「全ての政府は腐敗している」「全ての社会は不公平である」「すべての政府がメディアをコントロールしている」等等これらは五毛(政府御用ツィッタらー)のネット上で唱えるお経の文句のようなものであるばかりか、中国の多くの人のおなじみの言葉でみんなが口にしている耳タコのお話でもある。
この膨大なイデオロギー教育宣伝システムのひっきりなしの教え込み以外、中国当局は近年、新しい方法も考えだした。例えば「選ばれた民意」、時には「創造した民意」を宣伝展示する。今年5月4日に四川省成都と湖南省長沙で起きた2つのデモの当局の参加者への対応は、この選択制展示(民意製造)の好例で、成都の各界人士が化学工場計画に抗議し環境保護を訴えたデモには警察が厳重に対応し、女性作家の上官乱 @shangguanluan が勾留された。しかし湖南・長沙の毛左派が経済学者の茅于轼の反毛的講演に反対して起こしたデモはまったくつつがなく挙行されて、横断幕やスローガンが絶えず報道で流され、暴力的言語も文革を思わせるものだったが警察は全く顔をださなかった。この事実は、選択を通じてある種のデモを奨励したり、禁止したりするばかりでなく、中国政府ははっきり自らの政治的な偏好を表明するばかりか、自ら必要な”人民”を育てる意図を示している。
当局の意志に反してハッキリ権利を主張する人間には「治安維持」であらかじめ弾圧される。この種の政治参加するのはおおいに危険な状態であり、張明澍のアンケートで「参加回避現象」と呼ばれているものだ。「政治意識の上では1960年以後に産まれた人はより積極的だが、政治参加に時間を使おうとは思っていない。」ということになるのだ。一方、「政府の政治の道具になろうという人」ならば、当局から”人民”として容認される。 例えば近年、活躍が目立つ毛沢東左派。この種の選択的展示の「民意」で中国政府はまだ世界をたぶらかすことができる。中国政府が容認するデモや自由な集会は、政府が願っていることなのだ。
《強権政治における指導者の働き》
政治的な危険を冒さず、中間的な立場を取る人が多数を占めたことは、民主国家なら良いことだ。しかし中国のような寡頭独裁型の強権政治の下で、中間的立場が過半数の51%を占めたことは中国の未来を決める方法がないということだ。中国のこの強権政治の体制下で、指導者層の素質と政治的な偏好が今後10年の政治の方向を決めることになる。強権政治の特徴は民意を尊重せず、民意を”創造”したり強制したりすることだ。
さらに中国の現在の強権政治は、この体制から選ばれた最高指導者は、必ずこの体制の慣性に従わなければ成らないという特徴がある。習近平が登場してからの種々の言動からみると、彼と失脚した薄熙来の成否の分かれ目は2人の政治理念に特に違いがあったわけではなく、最高指導者を選ぶ話し合いで各派政治勢力が2人のどちらが受け入れやすいかということだった。習近平は正式に最高指導者に選ばれる前は、控えめではっきりものをいわない姿勢だったし、選ぶ側の人間達からみれば習近平のほうが薄熙来より穏やかで温厚で御しやすいとおもわせたからなのだ。
習近平のこの数ヶ月の政治理念の表明はすべて「守り」である。そしてその「守り」は鄧小平体制よりさらに反動的でおくれた毛沢東体制を守ることで、例えば「改革開放後の30年でそれ以前の30年を否定してはならない」は毛沢東否定してはならず、「もし毛沢東同志を全否定したら、我々の党は持つか?我々の国家の社会主義制度は持つか?持たない。持たなければ天下大乱にいなりかねない」という。鄧小平を否定しないのは既得権益擁護であり、毛を否定しないのは赤色ヤクザの代々伝わる合法性が危ういからだ。
習の政治姿勢は党内の老人達を大いに安心させたが、それは中国の未来を葬送するという代価を払ってのことだ。中国の毛左派の構成は多くが老人と憤青(現実社会に対する不満を無闇に表す青年達)が主体である。前者は毛沢東時代の既得権益者であり、後者は中国の今日に不満だが、昨日を知らない人達だ。特に毛沢東統治がもたらした中国人の痛苦と絶望を知らない。中国の憤青達の思想的栄養分は主に共産党の教育と宣伝によってあたえられたもので、盲目的に民主的な普遍的価値に反対するか、盲目的に毛主義を擁護するかだ。これらの人々はかっては薄熙来のファンだったが、習が毛の旗を上げてからは、今度は同じ様に習に追随した。ましてや習は薄に較べて、一大政治大権を握っているという優位があるのだから、習に追随することは政治の危険などないばかりか、美味いこともあるのだから。かくて38%の左派は今後習近平が代表し依拠する”人民”というわけだ。
習近平の激励をうけて、この”人民”の隊伍は一層拡大していくだろう。前任の胡錦濤は中共権力体制の最高指導者のシンボル的存在だったが、習近平はさらに強気にでて自分の政治的偏好を現執行部の行動に反映させる可能性が有る。目下の問題は習近平が自分の政治理念を成功裏に貫徹させる実践手段をまだ探し当てていないことである。(終)
拙訳御免。原文は heqinglian.net/2013/05/09/the-people-in-chin%E4%B9%88%E6%A0%B7%E7%9A%84%E4%BA%BA%E6%B0%91%EF%BC%9F/ に。