何清漣
全文日本語概訳/Minya_J Takeuchi Jun
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中国の人民代表大会/政治協商会議(*以下両会)は毎回珍聞奇聞がありますが、今年のその一つは政治協商委員の李海濱の提案した「水滸伝をテーマとする テレビ放送劇は暴力的であるから禁止すべきだ」という提案でした。李委員の提案は時代的な特徴があります。というのは今時の青少年はテレビをみるので本を 読んでくれと頼んでも読みはしませんでしょうから水滸伝を読むのを禁じるのではない点です。李委員の水滸伝に対する見解は別段歴史的には珍しいものではあ りません。
《水滸伝常に世を問う運命に》
一部の名著は内容も豊富で読者も読み方も読者の地位も年齢も異なり、読み取られる意味も様々です。しかし水滸伝のように何度も「水賊の書」として禁止さ れて来たというのは中国4大名著(*『三国志演義』、『水滸伝』、『西遊記』、『金瓶梅』、又は『紅楼夢』)の中で水滸伝だけです。
もっと奇妙なのは文革時代には水滸伝は毛沢東様によって「投降主義的」であり「宋江は晁盖を棚上げしまつりあげて実権を奪った」(*後述)とされて、毛皇帝みずから征伐に乗り出し、全国人民がとことん批判を繰り広げたたのは歴史にも無い未曾有の事です。
水滸伝は明の時代にできて口語で書かれた小説で現代人には中国古典4大文学の名著のひとつとされます。その内容は北宋の梁山泊に宋江を親分とする「緑林 の好漢達」が集まり、それぞれがやむを得ず賊となって地方政府と戦い、最後に朝廷に慰撫され、まねかれて各地の賊を平定する役割となる過程を描いていま す。そのテーマは忠君愛国、任侠の義気、富者から奪い弱者に与え、天に代わって不義を討つ、です。だから書名も最初は「江湖豪客伝」とか「忠義水滸伝」で した。
水滸伝に対する思想傾向や論議は本が世に出たとき以来ありました。明の思想家・李贽は忠義思想を表現したものとしましたが、崇祯年間になりますと、農民 一揆が起き、大臣の左懋第は朝廷に「賊の書で百姓に悪影響を与え反抗させかねない」と禁書にする提案をして、朝廷もそれを受けて全国各地の水滸伝を供出さ せました。清になっても禁書のリストに入っていましたが、時々ゆるみました。
理由はべつに難解ではありません。満清は「外族」の身分から中原を制した王朝で安心感に欠けたため、文字の獄や禁書は大変多く、乾隆帝中期以後はそのう え人口も増え、失業者が溢れ、遊民は巷にごろごろいましたので遊民文化の結晶たる「秘密結社」もつぎつぎに産まれて白蓮教や天地会、漕幇などが無視できな い民間の力となりました。秘密結社前世紀には「朝廷は弱い、任侠界は強い」状態で、こうしたわけで水滸伝はその「水の盗賊」の効能?から当局者の発禁の災 難にあいました。
《水滸伝は中国の民間の価値感を形成》
朝廷の水滸伝禁書政策は水滸伝の広がりを遅らせることはできても根絶はできませんでした。清代の文字の獄で江南の読書人は大変被害を受けましたが、しか しこっそり読む人は多かったのです。順治年間に地方役人に殺された才子の金聖嘆は禁書を読む事は人生一の快楽事だとして「雪の夜門を閉じ、禁書を読む、楽 しからずや」と名言を吐きました。水滸伝の登場人物は多く、物語は豊富で生き生きしています。
好漢たちのうち、林冲は強いられて賊に成らざるをえず、人々にその痛みを味わわせましたし、李逵の斧と彼のよく口にする名言「都のチンの位をやってや る」も「皇帝は順番で来年は俺たちにも」といった反抗の決意を覚えます。武松のイメージは後の武侠の英雄の原型となりました。4大名著のなかで水滸伝と三 国演技は各種の劇として何度も改変され地方劇の最も多くの演目となり中国の民間思想へはなはだ大きな影響をあたえました。
中国の現代化以前は文盲が多く、民衆思想・価値感の形成と伝統演劇と歌の影響は大きかったのです。水滸伝の作者崇尚は「命を軽んじ義を重んじる、あえて さからっても戦い、冨を奪い貧しきに能え、忠君反貪、は相当程度、民間の善悪是非の観念に影響しました。水滸伝は成長過程の青少年に大きな影響力を持つた め「若者は水滸伝を読むべからず。老人は三国志を読むべからず」などといわれます。さもないと任侠の世界に憧れ反抗的になると。老人は三国演義を読むと登 場人物が騙し合いばかり計画しているので、自分も影響されてひがなそんなことばかり考える様になり、心身をそこなう、というのでした。
《毛沢東の独特の読み方》
20世紀に成ってからの文学界の水滸伝に対する価値感は興味深いものがあります。1930年代はじめ、魯迅は「三闲集·流氓的変遷」で「侠の字が次第に 薄れ強盗になった。それでも侠の流れで旗印は”天に代わって道をおこなう”で反対したのは佞臣であって、天子ではなかった。奪った相手も平民であって将軍 宰相ではなかった。黒旋風李逵が二丁の斧でちょんぎる首は平民の、つまりは観客の首。水滸伝は天子には逆らわずたちまち招聘を受け、国家の為に別の”賊” を退治に行く奴隷根性なのである、と。
1950年代の中国では、主流の見方は水滸伝は農民の一揆を描写したもので、教科書や文学史小説史もみなこの見方をとっていました。文革時期はまず封建 文化のカスで捨て去るべきものとされ、さらにのちには毛沢東の指導のもとに”批判的再評価”が下されました。研究に依れば毛沢東は水滸伝が大好きで一生興 味を持っていました。寝室には12種類の違った水滸伝がありました。毛沢東はかって自分に一番影響を与えたのは水滸伝で、水滸伝を政治の本として読んだと いいます。また後代の教育用に常に引用し、その理解と解釈は広汎にその著作に見受けられます。林彪の9.31事件の後、毛沢東は不安になり、また水滸伝か ら新たな着想を得て、1975年に水滸伝に対してこんな評価をくだしました。
「水滸伝は貪官に反対したが皇帝には逆らっていない。また晁盖を108人の外においた。宋江は投降し修正主義であり、晁盖の路線をかえて朝廷の慰撫懐柔 に応じた。また宋江と高俅の抗争は地主階級内部の派閥闘争で、投降後腊を征伐にいったのは水滸伝は投降の反面教師として人民に投降派とはなにかを教えられ る」などといいました。上がこうして好みをあきらかにすると下は上に気に入られる為にもっとそれをカゲキにやってのけますから、これは中国中に「水滸伝批 判運動」をまきおこしました。水滸伝は投降主義の書で、宋江はその路線を歩み、晁盖の革命路線を否定した。晁盖と宋江の二つの路線闘争で宋江は晁盖を排斥 し、108人の中に晁盖の名前は無い。晁盖こそ正当に梁山泊の事業を始めた人物であり、毛沢東は自分を晁盖になぞらえ宋江をちいさな善事で人心を買って自 分の地位をねらうものとして、周恩来をあてこすったのでした。また毛は水滸伝を右寄りの投降路線として世論をあおり、鄧小平を目標にさせ復活したばかりの 鄧を倒したのです。
水滸伝は毛沢東の手中であらたな”命”を吹き込まれて政治的な役割を果たししました。もし今、国内的に「治安維持」のために庶民一般をおとなしくさせて おくためには、テレビでの水滸伝劇が李委員の心中で「ヤバイ盗賊もの」うつったようでですから、崇祯の時期の左懋第のように禁止を呼びかけたのですね。
他の国では歴史文化の有名人になれば、実在か架空かはとわず結構なことで、たとえばシェークスピアやシャーロック・ホームズは「文化」になれますが、中 国ではそんないい思いはできません。永遠に後の時代の人々に注目され考察される「歴史的限界」だの のちに罵られたり貶められたりするのみならず、遺骨 だって手厚くほうむられたら泥坊に荒らされ、貧死しないと造反者のご愛顧にあずかれません。
水滸伝がこういう目にあうのも奇とするにたらずで、なんと至聖人とされる孔子様だって、その墓は文革のはじめごろに暴かれるという災難にあっています。 水滸伝の為に幸いだったとおもわれるのは李委員の提案は両会では、まあただ風が吹いた程度で、中南海の現在の大立て者達はたぶん、このような提案を真に受 け足りはしないだろう、ということです。(終)
拙訳御免;原文は;又到《水浒》被禁时? www.voachinese.com/content/helinglian-blog-shuhu-20140306/1866033.html