何清漣
2015年3月21日
全文日本語概訳/Minya_J Takeuchi Jun
https://twishort.com/QrGkc
最近北京から流されたニュースで最も注目されるのは周永康と薄熙来の事件が「腐敗を罰する」事件から「政治」事件に逆戻りしたことです。確かにこの二人の罪は政治的なものですが、しかし当局はこれまではできるだけ「政治的なものにしない」という姿勢でした。それが再び「政治化」されたわけです。もう30年近く使われなかった”反党集団”という言葉も再び登場しました。中共の最高権力者は一体どのような考えなのでしょうか?
★周・薄事件の新しい位置づけ「反党叛党」
まず3月18日に配られた「人民法院工作年度報告2014」の中で最重要な点は「警察幹部に周永康・薄熙来らが法治を踏みにじり、党の団結を破壊し、非組織政治活動(*後述)を行って深刻な被害を与えたということを十分に教育認識させよ」というくだりです。
このあたりの”玄妙なる道理”をモロモロの人々が分からないと困る、という配慮からでしょうか、微信(*ネット)で「学習大国』というハンドルネームを持つXXDAGUOは、独自の解釈を施してこう言っています;「非組織政治活動というのは非組織活動の上級版で、反党叛党のオフサイドラインである」「では具体的に法治を踏みにじり、非組織政治活動を行ったのは誰かといえば、すでに失脚し、かつ周と明らかに一緒に集っていた人物だ」としています。
北京清潔政治建設研究センターの庄徳水教授は「北京青年報」の取材に対して、非組織政治活動をふたつの点から説明しています。1に、この政治活動は違法であること。そしてふたつめはこの政治活動は正式な組織の手順と要求を踏まずに、かつての四人組のように小グループの利益集団をなし、権力を獲得しようと公衆の政治態度に影響を与えようとしたもの」と言っています。
庄徳水のいう「四人組」は多分、比喩であり別に4人という人数をさすわけではないでしょうが、その解読した方向性は明白で、この「非組織政治活動」とは薄熙来がかつて重慶で行った「革命歌を歌い、黒いやつらをやっつける」の重慶方式で下層の民衆の社会的支持を得ようとしたことを包含するものです。確かにあれは「公衆の態度」に影響を与え、「権力をとろう」というものでした。中共のトップレベルが今頃強調しにかかっているこの「政治化」という特徴は、彼らがまさに極力これまでは避けてきた点なのです。簡単に経過を振り返っておきましょう。
2011年3月、薄熙来が身柄を拘束されたとき、総理の温家宝は記者会見ではっきりとこれは「路線闘争」であるといいきりました。しかしこれは党内で激しい反対にあいました。ロイターによれば、5月初めの会議の席上、胡錦濤は「薄熙来事件はただの個別的現象にすぎない」といい党内に亀裂がさらに広がるのを防ごうとしました。また同時に薄熙来の支持者を追求することをやめて、結局、薄熙来の罪名は「汚職、腐敗、職権乱用」ということにおさまったのでした。
薄熙来と周永康の関係は薄事件の法廷の供述でいくらかわかります。NYタイムズはかつて法廷の未公開資料に基づき「薄熙来は党中央の命令通りに王立軍に対処した」という記事(2012/8/31)を載せています。
彼は党中央から「6条の指示」を受け取りその中に「人道上の理由と健康が原因」ということにして、王立軍が(公衆の面前から)消えたことを説明せよ」といわれた、といいました。その時、周永康は中共政治局常務委兼中央政法委書記でした。この証言がまだ公開されていないのは、あまり表に出したくない関連がいろいろ多すぎるからでしょう。
周永康の事件は薄熙来の事件とは全く違います。2014年12月に正式に逮捕が発表される前に、彼が関係していた石油系統、四川省の政治とビジネス関係では大掃除がすでにおこなわれて、家族メンバーも数人を除いてはみな牢屋入りしていましたし、秘書たちも同様でした。
周永康が逮捕されたときにはすでに6つの罪が挙げられており、中には「党と国家の機密を漏らした」ことも入っていました。人民日報が「周永康のやったことは反逆に等しい」というのは死刑判決すらありうることを暗示したものです。
2015年1月13日の「鳳凰週刊」のトップニュースの「中共、私的な徒党に宣戦ー周永康の6大罪の解析」には周永康と薄熙来が「一発でかいことをやってやろう」と密談したとあり、事件が最終的に政治罪をもって裁かれるという輪郭が初めて浮かび上がりました。
★”反党集団”という言葉が再び登場、その意味は『さらに大きな虎退治』
しかし、今になって薄熙来だろうが周永康だろうが、この上いくつか罪名を増やしたところで、すでに敵の城は陥落して当人たちは牢獄にいるわけですからあまり意味はありません。
では、なぜ「反党集団」という中共的には極めて厳しい用語の登場は何を狙う意味があるのでしょうか?ターゲットは二つでしょう。一つは党内の官僚たちの気持ち、とりわけ高級官僚のそれを安心させるため。「反腐敗のキャンペーンは永遠にやるぞ」というスローガンは官僚たちの頭上に吊るされていつ落ちてくるかわからない「ダモクレスの剣」で、彼らをずっとビクビクさせ続けています。そのなかには当然かつて常務委員をやって引退した大物もいます。なぜなら彼らの家族の絶対多数はみな清潔などではないからです。
ですからこの際、最高法院院長の周強らが登場して「非組織政治活動」が反党叛党のペナルティ判定ラインだと説明し王岐山が去年12月に言った「取り調べを受ける対象は18回党大会以後もそのやり方を改めず、そのまま民衆から訴えが強くでている現在もその職場にとどまっている指導敵幹部」だという言葉とあわせて、こうした大物らに対して、「”周や薄の反党集団”と関わりがなくて、足を洗ったならあんたらの身はオッケー、枕を高くして眠れるぞ」というサインを送ったわけです。
二番目は反党集団の「さらに大きな後ろ盾」を捕まえようというものです。この後ろ盾は現在、「慶親王」の名前でほのめかされている曽慶紅です。というのは幾つかの根拠があります。ひとつは中央紀律委の出したかの「大清”裸官”慶親王の作風の問題」で、「上海ウォッチング」によると作者の「习骅同志」は「中央紀律委監察部国家新聞出版広電総局紀律検査組監察」に勤務だといいますから彼が書いた「慶親王」は徒や疎かに書かれたものではあり得ないのです。
2つには曽慶紅の全秘書の施芝鸿が3月5日に人民代表大会で「慶親王」の記事について怒り狂ったこと。3番目に米国の北京シンパの学者、沈大偉(David Shambaugh)J・ワシントン大教授がはっきりと曽慶紅を持ち上げ、習近平をけなしたことです。彼の「中国は崩壊へ向かう」は3月6日にウォールストリートジャーナルに発表されたのち、論争者たちの興味は中国は果たして崩壊するのかどうかということに集中しました。
この文章の意図を説明するために彼はNYタイムズの取材に答えて3月17日に「私はなぜ中共の執政の前途に楽観できないか」という記事の中でいささかも隠さず曽慶紅を褒め、習近平をけなして、曽慶紅を「主導的にダイナミックなやりかたで政治を行い開放的な姿勢で、変革を管理し指導した」と褒め上げて「だいたい2000年から2008年に曽慶紅のリードで中共はこのようなやり方をとっていた。しかし、思うに2009年中期に曽慶紅が引退した後、中共は突然方向を変化させた」と語っています。つまり、曽慶紅がいた2008年以前、中国は多くの崩壊しかねない要素をはらみながらも、曽慶紅が頑張っていたので中共丸は転覆しないですみ、繁栄を続けた、それを現在の習近平のいろいろなやり方は中共政権を転覆させかねない、ということです。
もし曽慶紅の現在の立場が安定して確固たるものであるならば、絶対に施芝鴻や沈大偉のこうした文章が書かれることはなかったでしょう。去年、王岐山が政治協商会議の講話で「さらに周永康より大きな虎がいる」といいましたが、郭伯雄の党内の地位は周永康よりしたで「もっと大きな虎」の資格はありません。中央紀律委の「慶親王」の文章は確実に意図を持って書かれたものであり、曽慶紅の現在の状況は自身にとって安心できるようなものではありません。
★柔の曽慶紅、剛の習近平、どちらのやり方が巧みか?
「2000年から2008年、曽慶紅のリードの下で」と沈大偉がいっている期間には中国国内では「3つの代表」理論で新しい階級(*資本家層)をあらたな統治の基盤に組み入れ、対外的には全力で大宣伝を繰り広げ中国に有利な国際世論環境を作り上げました。また国内の異議人士や反対派には密かに組織に浸透して方向をリードするやり方であたかも中共党内に「改革派」がいて、民間と互いに呼応して中国の政治改革を進めるかのようなムードを作り出しました。海外の民主運動に対しては買収と圧力を併用して、すでに敵としての体をなしていない勢力をさらに砂のようにばらばらにしてしまいました。
こうした複雑でこみいったやり方は今日の習近平の単純なやりかたと天地の違いがあります。習近平のやり方は二本立てで、ひとつは党内の反腐敗キャンペーンで腐敗官僚をふくむ政治グループを粛清し、もう一方で社会の間にある批判の声を思想上の締め付けと一切の穏健派までふくめた反対者を弾圧することです。
このふたつの統治方式を比べた場合当然、曽慶紅のやり方のほうが巧妙で、柔軟性と幅があります。しかし、曽慶紅方式でコントロールしつづけるのはやさしいことではありません。各方面の部隊人員を素早く巧みに操る必要があります。曽慶紅の力量とネットが2009年以後中共の権力闘争にからんできたことや、それが習近平が権力継承にあたっていろいろな厄介ごとを生み出したことを考えれば「一網打尽にして、反対者には少しの余地も与えず」というやり方が習近平のやり方になりました。
周永康・薄熙来事件の原点は薄熙来が政治権力を奪取しようとして、「組織活動」を通じてはその望みがなくなったと知った時に「非組織化政治活動」に走り一歩一歩、今日に至ったわけです。そしてこの「反党集団」がどれほど雪だるま」式にふくれあがるかはわかりません。
まことになげかわしいことにはこの権力闘争のなかで敗者も勝者もも西側の民主制度を拒絶しているという共通点があることです。しかし、彼らが見落としている点は、西側の民主主義選挙制度は政治競争の公開を保証していることで、それによって勝者は栄光を獲得しますが、敗者も恥辱にまみれることはなく、せいぜい、蓄えた力を一気に投入して使い果たしてしまうという程度ですむことです。民衆のためではなく、こうした政治的大立者自身の安全という点から、民主政治ははるかに独裁政治に勝るのです。(終)
拙訳御免。
何清漣氏の原文は;周薄之案为何回归政治罪? voachinese.com/..20/2689406.html