何清漣 2016年7月11日
全文日本語概訳/Minya_J., Takeuchi Jun
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6月30日以来、中国の揚子江中下流域は深刻な洪水の被害を受けています。流域の数省の被害者は3300万人近くで湖北省の被害は最も重く罹災者は17市80県の1162.85万人に上ります。政府の宣伝は相変わらず「政府がいかに民衆の苦難に関心を寄せ、軍隊がいかに大奮闘しているか」みたいなことばかりです。しかし、注意してみるといくつかのニュースがあります。一つは三峡ダムと洪水の関係が再び疑われており、二つには湖北が重災害被災区になり、省都の武漢が水びたしになりました。この二点は水害がこれほどひどくなったのは実は人災の要素があることを物語ります。
★洪水のたびに疑問視される三峡ダムプロジェクト
かつて三峡ダムの長所は、一に発電、二に水量のコントロールでした。しかし三峡ダムが実用段階にはいってから、実際に受ける感じはその反対でした。下流が干ばつに襲われるとダムは水をため、下流では水争いがおこり、逆に下流で水害が発生すると三峡ダムは水を吐き出し災害をより悪化させます。中国内のウェブサイトには水は澄んでいたからこれは三峡の放流した水だろう、という声が上がっています。今年、ボイスオブアメリカの記者が湖北の江夏柯氏をインタビューしてますが、彼も揚子江流域の蓄水システムは7月1日にダム排水を始めていると証言しています。
これまで数回の政府側のこうした疑問への回答は、ただいくつかの三峡プロジェクトの部門の主管が「放流で洪水がおきることはない」と答えるだけです。今回も「民の信用を得るため」として「中国青年報」が7月8日に「三峡ダム;武漢洪水と三峡プロジェクトは関係あるか?についての4つの質問」という記事を掲載しました。専門家は⑴ 三峡プロジェクトの防災能力は人を救う大事なもので、現在はこれに代わる手段はない。⑵ 三峡ダムがあるから今回の洪水でも4割近くの流水量が削減できた。⑶ 三峡ダムと今回の湖北水害は無関係。今回、調整しなかったのは例えば四川で今後おきそうな大洪水とかにそなえるため。⑷ これまでの例だと、揚子江の中下流の増水は一般に上流より早い。今年は三峡があるのでもし上流で大洪水がおきても1998年に比べて下流に対する圧力を軽減できる、と答えました。
インタビューに答えるのは水利システムの専門家で、こうした専門知識は関連した数字とともにセットになった分析ですから外部のものがあれこれは言えません。「人民日報」など多くの官製メディアはこれを掲載し、三峡への疑問の声を鎮めようとしました。しかし、現在の政府と官製メディアを信用している国民はあまりおりませんんおで、専門家もネットでは「レンガ頭ども(*発音が専門家、と同じ)」と罵られています。三峡ダムの働きは普段はまったく評価されず、災害が起きるたびに疑問視され、それに政府や民間がそれぞれ解説する、ということになっています。
★武漢市水びたしは、湖の埋め立ての報い
湖北の災害がなぜこんなに深刻になったのか?直接の原因は湖北地区の湖や池が大量に失われたからです。揚子江の中・下流域には大小の湖・池がたくさんあって、洪水に対して豪雨時にはその水を引き取り、洪水を遅延させ、被害を少なくさせるなどの大きな調整作用を果たしていたのです。これは一千年以上続いてきた治水の常識でしたが、中共政権になってから「常識」は役にたたなくなり、あっけらかんとした「天と戦い、地と戦う」が常になってしまいました。
湖北は「千湖の国」ともいわれ、20世紀の50年代、星のように散らばった1309の湖や池が真珠のようにはめこまれた水郷の風景でした。湖北省水利庁の2009年にだした「湖北省水資源質量通報」によれば、湖北の現在100ムー(*1ムー=666.7平方メートル)以上の湖・池はわずかに574しかなく、毎年平均15の大きな湖が消失しています。さらに数年が経ち現在では300以下しかありません。
湖北の湖・池がこうも急速に消滅したのは1980年代を境にし、これ以前は食糧不足から湖や池を埋め立てて田んぼにしました。そして改革開放時代になって、とくに1990年代からは都市建設によって宅地造成が行われました。
第1波の急速な消失は20世紀の1950年代です。当時、全国的に、毛沢東の「天と戦い、地と戦う」のスローガンのもとで大自然に立ち向かい食糧増産のために樹木を切り、湖や池を埋めて田を作りました。「湖北湖面積50年に半分が消失し、洪水災害激化」という本によると湖北省は20世紀の50年代には0.1平方キロ以上の湖・池が1309、総面積で8503.7平方キロでした。しかしそれが80年代には埋め立ての結果、838か所、2977.3平方キロになりました。湖・池の容量も50年代の130.5億立方メートルから56.9億立方メートル、51%に減りました。また有効調整水量もわずか30億立方メートルに減りました。中共の政治がはじまって初期だけで26.6%です。江漢(湖北省南部)の湖の中で一番大きな洪湖は30年間に面積は38.9%に減り、蓄水能力も10.19億立米に減りました。
第二波は最近、20余年の湖・池の埋め立てによる宅地造成です。不動産開発が大儲けできる業界になって、武漢などの不動産開発業界の目が湖に注がれ、湖の埋め立てと住宅団地作りが時の勢いとなりました。反対の声も少しはあったのですが埋め立ての勢いはますます止まらず、大量の湖・池が消えていきわずかに地名を留めるだけとなりました。2012年4月、武漢沙湖埋め立て事件はCCTVの特別番組で暴露されてから、湖北省と武漢市政府は一度はいわゆる「湖・池革命」を始め、湖・池を破壊して不動産を建設するのをやめさせようとしましたが、こうした運動では埋め立て建設の勢いを止められず、武漢だけでも不動産開発のために100近い池が消滅したといわれています。
今回の武漢水没で浸水が深刻だった地域の多くはもともと蓄水の役割を果たしていた湖・池、湿地だったところが埋め立てられて住宅団地に変わった場所で、雨の降るたびに住民は出水に悩まされていました。今年は雨が多く、こうした住宅地は「湖」になってしまったのです。
★清朝の役人より環境保全意識の薄い現代の官僚
中共政権になってからの湖・池への行き過ぎた開発といえば、ひとつ昔のことを思い出しました。
復旦大学の大学院生だったころ、わたしは「人口ー中国のダモクレスの剣」を書くために図書館で資料調べをしていまた。そのとき「皇朝経世文編」という清朝の役人奏上文を読んで大変感動しました。大学の歴史教科書には清代の中期以降から官僚は腐ってボンクラばかりになって無能の極みでありただ蓄財に励み、国や国民のことを考えなくなったなどと書いてあります。しかし、この本には多くの地方の役人が民情、農業、商業に大変通じていて、その長所はどこにあって短所はどこにあって、その理由はこういうわけだ、ということがありありとわかりました。
ここでは乾隆帝の時期の湖南知事の楊錫绂(*1700-1768)の「池塘改田の禁を厳格にすることを願う」を例にご紹介します。
清朝の乾隆帝期(1735年- 1796年)には中国の人口は未曾有の3億人に達しており、耕地面積不足の問題がおき、農地を持たぬ民が大量に増え、人々は湖・池・川などで開墾をはじめました。楊は「大河大湖大浜だけではなく、もっと小さな湖や池でも毎日のように堤防が作られ地形がかわるほど開墾がすすめられており、食料を得るために数ムーの池も田に変えられている。河川の側にも稲が植えられている。こうしたことは湖南だけではなくて至る所で行われてる。その結果、一度洪水がおこると水があふれ災害となる。湖北一帯も同じで、現地の役人は荆州・襄陽のあたりは池や湖が千里以上もあり、水が増えるときにそなえて余地をのこしておかなければならないのに、現地の百姓は流れをせきとめ水田にしたりする堤をつくるものだから土砂が堆積して、洪水がおこると一気に堤防が破壊されて水が溢れ出て数万人もの犠牲者が出る。浙江の方でも事情は同じで困っている。問題は極めて深刻で、賢明なる乾隆帝にこの弊害をご理解いただき、政権の力でこの病弊をなんとかしてもらいたい」と奏上しています。
現代教育をうけ、口先ではしょっ中環境保護だとかスローガンを叫んでいる役人にくらべて、「環境保護」などという言葉がなかったにもかかわらず、清朝の役人の環境保護意識のほうが今よりはるかに強かったわけです。
大自然の報復は武漢が水びたしになったのはほんの一例にすぎません。こうした状況は中国ではいくらでもみられます。かって甘粛省の舟曲で巨大な土石流が大きな被害を与えたときにわたしは「生態の安全こそが一国の最後の政治的安全だ」(epochtimes.com/..27/n3007612.htm)という一文で、現代国家の安全保障というのは軍事力や武器だけではなくて、ますます、河川や森林、遺伝子資源、気候などの環境要素にかかってきている。生態環境が引き続き破壊されるなら、政治経済だって最終的な安全は保障されない。なぜならば環境の劣化が生存環境を悪化させ、生存環境をせばめ、それは国家経済の基礎を不可避的に衰退させるもので、その政治構造も不安定化せざるをえないからだ、と指摘しました。その結果は一国の内部の動乱や他国間との緊張や衝突を招きかねません。今の南海の問題も本質的には中国と東南アジア各国の海洋資源の奪い合いなのです。(終)
拙訳御免。
原文は;何清涟:大自然的报复:武汉淹城 voachinese.com/..10/3411499.html
何清漣氏のこれまでの論考の日本語訳は;heqinglian.net/japanese