古代でも今日でも、国内で生きる者にとっても、国外のウォッチャーから見ても、中国は不思議な国だ。その社会にしっかり的確な論評を加えるのは難問中の難問と言える。まして、その未来や前途を予言するとなると、往々にして惨めな失敗に帰する。それでも、中国論への誘惑は極めて強く、様々な人々が一度はやってみたがった。かくして私たちは、五四運動期に中国を訪れた英国の哲学者 バートランド・ラッセルの「中国问题」や、中国政界の一代の梟雄、蒋介石の「中国之命運」。そして、文化大革命中、恐れを知らぬ青年、楊曦光の「中国は何処へ行く?」を読める次第だ。
21世紀に入ってから間もなく、世界の目は、ますます中国に注がれるようになった。中国は一面では、超スピードで、経済力世界ナンバー2の巨人になって、世界中から賛嘆の目で仰ぎ見られた。が、別の一面では、粗暴極まる人権侵害や、人類の政治文明のルールの公然たる敵視や否定で、人々に不安と驚愕を与えている。だから、中国に関する記述や評価は、「太平盛世」型の絶賛と「崩壊」の予言が、互いに一歩も譲らず両極化する勢いなのだ。
危機を解決する方法は無く、将来もない
何清漣氏と程暁農氏の共著、「中国:溃而不崩的红色帝国」(「中国 — 膿んでも崩壊しない紅色帝国」)(邦訳 :「中国 ── とっくにクライシス、なのに崩壊しない”紅い帝国”のカラクリ」 ワニブックスPLUS新書 ISBN978-4-8470-6111-0)は、中国という、この病膏肓やまいこうこうの、腐っても朽ち果てない社会 … 外側は強そうでも、中は干からびた泥足の巨人に対する、全面的な健康診断と正確な医療診断であり、中国の未来に対し、理性的で周到かつ慎重な予言だ。作者の立場は「太平盛世」側の論評と明らかに対立するものだが、しかし、かといって「すぐに崩壊する」という予言にも、軽々しく同調しない。
作者は、大量の事実とデータで、虚構の繁栄の背後に隠された、深刻な、何とか解決を図らなければならない問題 ─ 目が眩むような巨大な国民総生産(GNP)が、社会の公正と平等を犠牲にし、生態環境の安全に損害を与え、未来の発展と福祉との引き換えにしたものだという事実を示し、中国の発展は持続出来ず、危機はとっくに出現しており、その問題は中国の制度自体から生み出されるがゆえに、現在、危機を解決する方法は無く、将来もまた良い解決方法はないのだと説明する。
作者は更に、その根源に一歩深く迫り、いわゆる「中国モデル」とは、基本的に「共産党資本主義」なのだと喝破し、共産党の権力独占と、市場経済の力を合わせて、好き放題に振る舞い、壊滅への道を歩みながら、「奇跡を創造」する。その奇跡とは、すなわちこうだ。
権力者が、誰はばかることもなく、限度なく公を私し、人民の膏血を搾り取っている。中国モデルは一時的には騒がれ、現政権は表面的には強大に見えるが、現在の経済発展方式は持続出来ず、その統治権には本質でも、長期的に見ても合法性が無い。全ての秘密は、この「共産党資本主義」が原因にある、とする。
この言い方は、西側の多くの学者が言う「市場レーニン主義」と一致する。
この書の鮮明な観点や鋭い分析は、必ずしも全ての読者が簡単には、受け入れられはしないだろう、と私は思っている。多くの中国問題に関心を持ち、中国の現実を観察する人々ウォッチャーたちは、各自の立場での諸条件や利害関係があるからだろう、様々な理由で、いつも中国の現実を、薄い膜を隔てて見ている。そんな状態なので、「廬山に住んでいると、一生いても廬山の何たるやが分からない」のだ。
ただ、私が一つだけ言っておきたいのは、作者は20年も前に、中国を揺るがした「中国の陥穽」の中で、明確な診断を下していたことだ。あの本の中で、作者は改革・開放の名の陰に、猖獗しょうけつを極めた私利を貪る数々の活動、狂ったような「土地囲い込み運動」、聞けば仰天するような「資本の原始的蓄積」の実態を大胆に暴露して、中国の次に来る発展の時代への、楽観を許さない予言と警告を発した。その後の20年の事実が証明しているのは、この不吉な予言が、不幸にして全て的中したことだ。事態の悪化ぶりには、作者の警鐘を遥かに超えたものがあったにしても、及ばないものは一つもなかった。私は、今回のこの書が中国問題への診断として正しいと疑わない。この先、20年も経たぬうちに証明され、更に広範に認められるだろう。
同じ一つの中国に対して、人々は皆、異なった見方をし、明らかに全く反対の結論にすら達するのはなぜか? 実は、社会はかくも大変に複雑であり、同じ一つの時代、国柄、運動に対して、人々は百の批判も出来れば、百もの賞賛の理由をも探し出せるからだ。ましてや、社会が大きく変わろうとしている中国であれば、その時代と社会に対して正確な判断を下すには、知識も必要なら、賢さや見識も必要となる。巨大な変化を遂げている最中の中国には、多くの様々な面がある。摩天楼が林立する光景もあれば、地方から北京に訴えに来て、殴られ逮捕される平民もいる。五輪金メダル数世界一の記録もあれば、何千何万ものメラミン毒ミルクの犠牲となった乳児もいる。中国の長い長い歴史の中では、数多い人口や国民の質的低下は、皆、欠点や間違い、時には罪悪の弁解の口実にもなる。中国政府の発表するデータに満足する国際組織の官僚が、「中国がトップ」という結論に到達したりするのは、バカンスや気晴らしに、怪奇趣味で中国にやって来るモノ書きが、北京や上海のナイトライフが、東京やパリを凌駕しているのに驚くのと同様で、いかにも根拠有り気に見えるのだ。
いかに中国を診断し、論ずるべきか? ─ もし、中国の社会矛盾の現実に向き合おうとするのなら、バラバラでまとまらない様々な意見を、どのように判別すればいいのか? もし、現実がそれ自体では、答えを与えてくれないなら、私たちは歴史の中にその答えを求めよう。
第一次大戦後に似た現代の世界
ロシアの十月革命は、当時は「新たなる誕生」として、人々の賞賛を勝ち得て、その乱暴な混乱や非人道的な面は、長い間見逃されてきた。ラッセルや胡適のような大思想家や学者でも、ボルシェビキのソ連に一度は心をひかれた。しかし、最後には彼らも、大弾圧や秘密裁判の暗い事実から、歴史の検証に耐える結論を得たのだった。
ヒトラー統治下のドイツにおける規律と効率、労働者の福祉制度と社会の浄化運動は、中国の今日の「掃黄打非」(訳注 : わいせつ物・不法出版物取締り)みたいなものだったし、当時のベルリン五輪は北京五輪そこのけの衝撃力で、世界を瞠目させた。しかし、最後に正しかったのは、カール・ヤスパースやハンナ・アーレントといった批判者の方で、ファシストを褒め讃えたノーベル賞受賞者や著名な学者たちではなかったと証明されたのだった。
人類の、これまでの政治文明の指導性や、原則の分野で達成された共通認識は、歴史を顧みれば十分に信じるに値するものだ。だが、現在の情勢は、第1次世界大戦後のヨーロッパに大変似ている。あの頃の西側は、自分たちの制度に対する理念に自信を失っており、まさに、ドイツや日本のファシズム勢力が勃興していた時代だった。西側の政治的な大物も、自分から慌てふためいて、敵が侵攻してくる前に、自ら転んでしまって、ファシズムを褒め称えた例も多々あった。
今、中国の思想界・知識界においてもまた、西側に学ぼうとする動きが、音を立てて急停止している。今日、西側社会の福祉制度や民主制度は、自らの内側・外側から挑戦を受けており、「中国モデル」はまるで、文明的な「プランB」であるかのように見える。こうした状況の下で、「中国 : 溃而不崩的红色帝国」は診断であると同時に、一服の気付け薬だ。作者は、経済学者としての実証的な姿勢と、歴史学者としての先見性をもって、ソ連・東欧型の社会転換との比較参照しつつ、中国の現実に深く透徹した分析を行っている ─ この本を読んだ人は、こんな読後感を持つのではないだろうか。
現実を直視する勇気さえあれば、中国を知るのは別に、難しいことではない。現在、中国の情勢と世界の大勢について知ることは、中国知識界における一種の試験であると言うべきだ。でも、その難しさとチャレンジ性は、欧州の敗北と衰亡をずっと目の当たりにしていた梁啓超(1873〜1929)に比べれば、別に厳し過ぎるわけでもない。
「道義が失われ、無数の弊害が生まれた中国の現実を見れば、反省が起きないはずがない、これほどの苦難を味わっている中国人なら、弾圧が過酷になれば、反抗もそれだけ激しくなり、こうした状態が長く続くならば、反発もそれだけ早まっていくのでは?」 と期待する人々もいるかもしれない。
これに対して、本書の作者は理性的に、慎み深い現実的な姿勢で臨み、単純に義憤に駆られて筆を走らせたりはしない。作者は確かに、当面の問題と危機はそう簡単に解決出来るものではないが、だからと言って、中国の現在の政権が、短時間のうちに崩壊することを意味せず、中国社会の病理状況は、朽ちて膿み潰れて行くだろうし、時間が経つにつれて、それはますます酷くなるだろうと見ている。中共の現政権が、社会コストを無視して、民間の力により一層過酷に、いささかの容赦もなく弾圧し、巨大な慣性でもって、今のところ見通せる将来は、生き続けるだろうと、冷静に指摘する。
かすかな希望から、完全なる絶望へ
最初の書、「中国の陥穽」から、この「中国 — 膿んでも崩壊しない紅色帝国」まで、20年の年月が流れた。この20年間は、作者の思想と認識を深化させた20年だった。「このままではだめだ、なんとかして改革を深めよう」というかつての呼びかけから、今や、解決困難な不治の病に対する冷厳たる診断となり、かすかな希望は、完全な絶望へと変わったことの証言でもある。1970年代の末から80年代の初めにかけては、「改革」は約20年間にわたり、中国人の希望であり、未来を信じる気持ちをつないできた旗印だった。人々は、遅れた、醜い数々の現象は、「改革」が不十分で、不徹底だからとか、保守派が妨害しているからだと思っていた。だから、「改革」を守り抜けば、必ずや進歩をもたらし、広範な一般庶民の利益を拡大し、守ることが出来るのだと信じてきた。しかし、間もなく判明したのは、「改革」は、ただ権力者が、自分たちの権力をお金に換える好機で、国有資産の分捕りゲームの饗宴に過ぎないと知ったのだった。「中国の陥穽」から、「中国 ─ 膿んでも崩壊しない紅色帝国」までの20年は、まさに人々が、ますます「改革」を論議しようとしなり、「改革」という言葉のまともな意味が完全に失われてゆく過程だったのだ。
「改革」は、変質してしまったのか? それとも、最初から中共が自分自身の統治地位を救うための権謀術数だったのか? それは、見る人や立場によって違う。しかし、少なくとも中共の開明的な指導者の頃でも、「改革」の「救党」の効能と、「救国」の効能の違いははっきりしていなかった。共産党の人間に言わせれば、党の地位と利益は当然、第一だ。彼らにとっては、党の利益は自動的に国家の利益、人民の利益だった。「改革開放」40年、中国では、混じりっ気なしで、血縁を縦糸、「お友達関係」を横糸とした中共紅色帝国が出来上がり、国家のあらゆる資源が彼らのものになり果てた。これは、「改革」の方針や政策が変質変化したのではなく、「改革」論理の必然的な展開であり、「改革」の本性が理の当然として、現れたに過ぎない。
この皮肉な意味合いを、愚かにも粗野にして鄙ひなる共産党人は分かろうとしない。
彼らが最初に掲げた大旗には、「社会主義だけが中国を救う」とあった。その後、無数の失敗や災難を体験して、連中が生き残る戦略は、「資本主義によって、中国共産党を救う」になった。中国共産党人は、この方面では実にうまくやったことを、この40年の経験が証明している。内部では「核心」と「高度な統一」を進め、「雑音」を見事に消しさった。外部には、「財産が増えれば鼻息も荒くなる」「金があるほど横柄に振る舞い」、世界中が皇帝陛下に朝貢する姿を上演して見せるようになった。
合法性を失った政権は、永遠に存在することは出来ない
しかし、まさにこの本が分析し、明らかにしているように、この、外面は強大でピカピカの紅色帝国は、実は深く病んでいる。あからさまな蓄財と弾圧の代価は、政治的な合法性の喪失だった。あるいは、我々は、中共が一つの奇跡を成し遂げたことを認めなければならないかもしれない。それは、政権が、天安門の虐殺事件後も生き抜き、グローバル化の波にのって巨大な利益をあげたことだ。しかし、歴史の経験は、「合法性を失った政権は、予想や忍耐の限度を超えて生きながらえるかもしれないが、永遠には存在し得ないし、人類の歴史にもそのような奇跡は有り得ない」と、私たちに教えているのだ。
徐友渔 2017年5月
ニューヨークにて
これは、中国語版の「中国:溃而不崩的红色帝国」に寄せられた徐友渔氏の序文ですが、邦訳の「中国 ── とっくにクライシス、なのに崩壊しない”紅い帝国”のカラクリ」(ワニブックスPLUS新書 ISBN978-4-8470-6111-0)には、スペースの関係で収録出来なかったそうですので、何清漣氏の了解を得て、「中国2016 何清漣」”に掲載しました。
当Webサイト連載のブログ集改訳;日中両文収録
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